王太子シュメオンの急襲②
「お兄様! イース伯爵家など、まだたった三代の新興成り上がり。コルヌアイユ侯爵位にいたっては、アリスが三重天寵の受者だから与えられただけの無意味な爵位です。そんな家の娘がお兄様の妻になるなんて、あってはならないことだわ!」
ユースティア王女は、謁見の場から兄王子が姿を消したことに気付いて、自身もその務めを放棄して兄を追いかけてきたらしい。彼等兄妹の父である国王が王家の行く末を憂う心に、アリスは少しだけ理解を示してやってもいい気持ちになったのである。
「新しい爵位を与えなければならないほど、アリスを他国に奪われることは、我が国にとって大きな損失――いや危険なんだよ。もしアリスの力が世界帝国の帝王になれる力だったらどうなると思う」
頓珍漢な方向に思考を飛翔させるのは、自分だけの得意技ではないらしい。国王と王太子の馬鹿げた心配に、アリスは嘆息した。彼等の心配事があまりに馬鹿らしくて、少し気持ちに余裕が出てくる。
「私の力が世界を破滅させる力だったらどうするんです」
「なおさら、君をこの国の外に出すわけにはいかない」
「私の力は、そんな大層なものではありません」
大層な力ではない。それは事実だ。
他人の心の奥底にあるものを無理矢理引き出す力。大した力ではないが、それは人に知られたくない力でもある。
その力を持っていることは、十分に人から避けられる理由になるだろうから。
唇をきつく引き結んだアリスに、シュメオン王太子は、なぜか軽い苦笑を投げてきた。
「アリス。君は、生まれてこのかた、自分を不幸だと思ったことはあるかい?」
「答える必要があるでしょうか。不幸自慢も幸せ自慢も、敵を作るだけの行為です」
「君が自慢しなくても、君は誰よりも恵まれていると、この国の誰もが思っているよ。美しい容姿に恵まれ、王族と同程度の教育を受けることができ、気位も――いや、精神も強い。生家の爵位は増えて地位は上がり、領地も増え、権威も財力も増す一方。誰もが君を羨んでいる。そして、信じている。君の幸運は、君に与えられた神の恩寵によるものなのだと。同時に、皆が不安に思っている。これから君はどこまで登っていくのかと」
「……」
「そして、多くの人間が考えているんだ。その力を、君が君個人ではなく、国のために使ったらどうなるのか」
「私の力は……」
「君の力を欲しがる者は多い。欲しがる国も多い。君を手に入れれば、世界の帝王になれるかもしれないんだからね」
本当に馬鹿げている。アリスは心底から呆れていた。
アリスタクセンシア・ドゥ・イースに与えられた力は、他人に自慢できない、ごくささやかな力だ。もしこの力が、アンジェイをヒュペルオイアス帝国の皇帝にすることのできる力だったとしても――だったとしたら?
「使いません。私の力は、幸福や成功だけを呼ぶものではないので、できる限り使わないと心に決めています」
「その力、どんな力なのか教えてもらえないかな」
「お断りいたします」
「あなたの美しい従僕は知っている?」
「父にも知らせておりません」
「答えになっていないな。アンジェイは君の生涯の友なんだろう? 生涯の友にも秘密があるの?」
王太子は何を聞き出そうとしているのだろう? シュメオン王太子の一言一言、一挙手一投足が、アリスの気に障った。
「あります。アンジェイだって、私に秘密の一つや二つ持っているでしょう。それで私たちの友情が損なわれることはありません」
「秘密……あるんだ……」
声を出さずに笑って――王太子は揺さぶりのターゲットをアリスからアンジェイに変えることにしたようだった。
「アンジェイ。君も相変わらず隙がないね。そして、相変わらず美しい。僕の留守中、君に目がくらんだ妹がいろいろと迷惑をかけたようで、申し訳なく思っているよ」
「お気遣いは不要です。そのようなことはありませんでした」
抑揚のないアンジェイの声。
ユースティア王女が何か言おうとして――何を言えばいいのかわからなくなり、彼女はそのまま口をつぐんだ――ように、アリスには見えた。
「この子は、君たち二人に憧れているんだ。アリスから君を奪いたいのではなく、アリスに成り代わりたいと思っている。アリスのように、君に見詰められ、君に守られたい――と。この王宮のほとんどすべての女性がそう願っている」
「――」
「アリス一筋に見えるところが、君が多くの女性に好まれる理由だろう。アリスのポジションを手に入れても、中身が違ったら、二人の関係は破綻するだろうに」
「お兄様!」
兄に図星を指され、非難されて――これではユースティア王女の立つ瀬がない。泣きそうな目になったユースティア王女に、アリスは同情した。
シュメオン王太子を情の薄い男だと思う。その冷たさは、もしかしたらフランコルム王国の未来の王には必要なものなのかもしれないが。
「服装も振舞いも――貴族ではないのに、君はどんな貴族より貴族的――いや、一分の隙もなく完璧だ。髪の毛にすら一筋の乱れもない。彫刻のようなその佇まいを維持するために、君はさぞかし神経を張り巡らせているんだろうな。毎朝、四半時は鏡を睨んでチェックを欠かさないに違いない」
「何が言いたいの……?」
話題を変える必要を感じたにしても、彼は急に何を言い出したのか。アリスは、露骨に顔を歪めた。
アンジェイはいつも、ごく自然にさりげなく完璧なのであって、どこぞの不格好な太りすぎの公爵や、不摂生でむくみ荒れた肌の子爵家令息のように、鏡相手の自分の姿の確認など必要とはしない――はずだった。
(え……? でも、あれ……?)
そういうことをせずに、人間が完璧な外見を維持できるものだろうか。
(でもアンジェイに限って、そんな普通のことをしているわけが……)
自分の思考が、まさに頓珍漢状態――乱れていることが自覚できる。アリスは瞬きを幾度も繰り返した。
「子どもの頃から、君はそうだったんだろう? 見た目だけのことじゃない。学問、マナー、アリスの身辺を守るために必要な技術――。アリスと共に学ぶ機会を与えられた君は、いつもアリスの数倍努力して、あらゆることでアリスより優秀であり続けた」
それは王太子の言う通りである。
学力、身体能力、美しさ、マナー、自身を律する力。ありとあらゆる分野で、三重天寵の自分より優秀なアンジェイが側にいてくれたから、アリスは高慢や自惚れといった種類の不徳義とは無縁でいられたのだ。
「君は途轍もない努力家だ。常に最高の男でいようと努めている。アリスが他の男に目移りしないように。アリスを独占していたいから」
アンジェイが身辺にまとっている空気の温度が変わったのが、アリスにはわかった。
アリスの心臓が、どくどくと、ありえない勢いで血液を全身に送り出し始める。
「殿下。たとえ王太子殿下でも、言っていいことと悪いことがあります! アンジェイが努力家なのは、未熟で頓珍漢な私を守るために……!」
「ああ、はいはい」
王太子が、両手を挙げてアリスの激昂を遮る。
「そう。君にとって、アンジェイは生涯の友だったね」
「そうです。その友情を貶めるようなことは、たとえ殿下でも――」
「アンジェイは君の生涯の友で、恋人ではない。僕はね、アリス。アンジェイもそう思っているんだろうかと、極めてささやかな疑問を抱いただけだよ。怒らないでほしいな」
「これが怒らずに……!」
「僕はアンジェイの強靱な自制心に恐れ入っているだけだ。それは僕には備わっていない美徳だから」
「……」
これは本心なのか、皮肉なのか。皮肉だとしたら、誰に対しての?
アリスはシュメオン王太子の真意を探るべく、苛立ちを抑えて、彼の顔を窺い――窺おうとして、ユースティア王女がその瞳を見開いていることに気付いた。
兄に、アンジェイへの執心を身も蓋も言い方で嘲弄されて傷付いたからではなく――もちろん傷付きはしたのだろうが、今はそうではなく――彼女は何かを見て驚いていた。視線の角度から察するに、アンジェイを見て。
そこに何があるというのか――。
振り返りたい……!
その誘惑に屈してしまおうと決意したアリスを、まるで蜜蜂の作業を観察している昆虫学者のようなシュメオンの眼差しが押しとどめた。
振り返るのは、シュメオン王太子の嫌味(?)への反撃を済ませてから。アリスは、少々苛立ちながら、シュメオン王太子を正面に見据え直した。
「王太子殿下の望みは何ですの? 王家に忠誠を誓っている臣下をいたぶること? 私のような跳ねっ返りが、一国の王太子妃になれるなどと、馬鹿げたことを本気で考えているわけではないでしょう」
自分の気持ちに正直に「うるさい! 嫌味王子! もう黙れ!」と怒鳴ってしまえないのが、封建制度下における臣下のつらいところである。
シュメオン王太子は、アリスのそんな立場をしっかり承知しているようだった。
「僕の望み……か。それは、まあ、父上からつつがなくフランコルムの王位を継承し、この国の王となり、大きな戦争や内乱が起こらぬまま治世をやり過ごし、優れた王として歴史に名を残すこと……かな」
「殿下にしては凡庸な……」
「その凡庸な望みを実現するのに必要なのであれば、僕はアリスを僕の妻にもする。逆に、君たち二人が結ばれることが僕の治世の安泰に寄与するのであれば、僕はフランコルム国王の権限で、アンジェイに貴族の身分を恵んでやってもいいと思っているよ」
「お兄様!」
アリスが癇癪を爆発させる前に、ユースティア王女が非難の声を兄にぶつける。
アリスはそれで、少し頭が冷えた――否、怒りが熱いものから冷たいものに変わったのだ。
シュメオン王太子に比べれば、ユースティア王女の方がはるかに好ましい。
「ユースティア様。今だけ特別に、アンジェイをお貸ししますわ。アンジェイ。ユースティア様を私室まで送って差し上げて。とてもお疲れのようだから」
「アリス」
声だけで、アリスと王太子を二人きりにすることを、アンジェイが危惧しているのがわかる。が、アリスはアンジェイに不服従を許さなかった。
アリスは、ぜひとも二人きりで、シュメオン王太子に確かめたいことがあったのだ。
「大丈夫よ。いくら私でも、未来の国王陛下を殴り倒さない程度の分別は持ち合わせているわ」




