大公世子ロジェとの取引き③
喫茶室のある建物の中にアンジェイの姿が消えるのを確認してから、アリスは改めて、オクシタニス大公国の世子と向かい合った。三重天寵の力で、少年の瞳から意思の光が消えていることを確認し、彼に問う。
「ロジェ・トランカヴェル。あなたがあなたの命以上に大切だと思う人は誰?」
「それはもちろん、我が国と我が国の民」
「え……」
この少年には驚かされてばかりだ。そういう答えもあるのだと、アリスは初めて知った。
「特定の……個人ではいないの?」
「個人ならば、マリアーナ姉様」
「どうして? 美しい方なの?」
アリスの問いに、ロジェは首肯しなかった。彼がその人を大切に思っているのは、美貌のゆえではないらしい。
「マリアーナ姉様は、僕を守るために視力を失ったのです。マリアーナ姉様の母親が、僕の水差しに神経を麻痺させる毒を入れた際、わざとその毒を飲んで」
「マリアーナ姫とあなたは母が違うの?」
「マリアーナ姉様の母は、フランコルム王室ゆかりの姫です。僕の母は、オクシタニスの大公宮に出入りしていた商人の娘。平民です」
その情報だけで、アリスにはオクシタニス大公家のおおよその内情が飲み込めた。
フランコルム王国とオクシタニス大公国の政略結婚(まるでアリスの両親のように)。しかし、夫婦の一方は、真実の恋をその胸に秘めている(アリスの母のように)。
そういう状況で、正妃には女児しかおらず、側妃は男児に恵まれた。
不幸な正妃が、側妃とその息子を妬む気持ちはわからないでもない――。アリスは、罪深く愚かな正妃に同情した――しかけたのである。が。
「僕の母の立場は、ヒュペルオイアス帝国に送られたエンドゥーラ伯母上と同じ。僕の立場は、従兄殿――ヒュペルオイアス帝国の第一血統親王殿下と全く同じです。ですから僕は肖像画でしか知らぬ伯母上母子のことをずっと気にかけていました」
大公世子の言葉が、アリスの背筋を凍らせた。
(アンジェイ……!)
今は誰かに同情したり共感したりしている場合ではない。アンジェイを守らなければならないのだ。アンジェイが、無謀な侵略で何万ものフランコルム王国の民の命を奪った帝国の生き残りだということを、隠し通さなければならない。
アリスは、右手の人差し指に指輪をはめた。そして、あえて指輪をはめないことで存在を隠している左手の人差し指の三重天寵の印を、ロジェの前に示す。アリスの銀朱の髪の色は朱色に、灰紫の瞳の色は灰色に変わった。
「ロジェ・トランカヴェル。あなたには、自分の命をかけることになっても殺したいほど憎い人はいるかしら?」
アリスの問いへの答えは、天使のような面立ちの少年の唇から一瞬の間もおかず、即座に返ってきた。
「父の正妃ローザリンデ」
「大切なマリアーナ姫の実母なのに?」
「彼女は、自分の手でマリアーナ姉様の視力を奪っておきながら、姉様が失明のせいで大公位継承権を失うと、その途端にマリアーナ姉様をないがしろにし始めたんです。憎い女の息子を庇ったことも気に入らなかったのでしょう」
「そう……」
自分のせいで正しい心を持った姉が苦しんでいるという事実が、天使の心に生まれた憎悪を更に深いものにしたのかもしれない。
ロジェの気持ちはわかる。その憎悪も自然なものと思う。それでもアリスは愚かな正妃を憎み切ることはできなかった。
(でも、今はそんなことより……)
「ロジェ。あなたの事情はわかったわ。今のやりとりは忘れて」
左手の天寵の指輪を消し去ると、アリスの髪と瞳の色は元の銀朱と灰紫に戻った。同時に、ロジェの瞳に意思の輝きが浮かび上がってくる。
アリスは、半ば懇願するように、半ば命じるように、大公世子に告げたのだった。
「お国に帰ったら、伯母上様の肖像画を人目につかぬところにしまってください。そして、アンジェイのことは誰にも言わないで」
瞳に輝きが戻った大公世子は、驚くほど聡明で察しがよかった。アリスの言に、すぐには頷かない。
「ヒュペルオイアス帝国は独立と主権を失いましたが、地上から完全に消滅したわけではありません。帝室恩顧の者たちは相当数生き残っています。彼等は、帝国の復興は無理でも、復讐は考えているかもしれません。彼等がアンジェイ殿に接触を図ってこないとは限りません。僕としては、我が国がヒュペルオイアスの残党と無関係だという証が必要で――」
「万が一、アンジェイがヒュペルオイアスの帝室に縁のある者だったとしても、アンジェイはそんなことは考えていません。帝国が滅んだ時、アンジェイはたった四歳だった。お母様と二人で、この国で、復讐も復興も考えず静かに暮らしていたんです」
「今も?」
「今も」
「アンジェイ殿当人はそうでも、帝国の生き残り連中がアンジェイ殿を担ぎ出そうとするかもしれない。彼は帝国復興の旗頭として、これ以上ないほど――」
「そんなことにはならない! そんな者たちが現れても、アンジェイは唆されない」
「しかし、その可能性が皆無とは――」
天使は、聡明な上、極めて慎重だった。アリスが静かに頷く。
「世子様は、私の力のことはご存じ?」
「ユースティア王女との対等以上のやりとりで察しました。あなたが三重天寵の姫なのですね。あいにく、力の内容については……」
「それは誰も知らなくていいことです」
今は一介の成り上がり伯爵家の令嬢でいられない。アリスは語気を強めた。
「もしあなたが余計なことを口にしたら……アンジェイに関する不穏な噂が流れるようなことがあったら、あなたの大切なマリアーナ様が不幸に見舞われることになるでしょう」
「……!」
脅しの効果は覿面だった。世子の明るい瞳に、さっと影が射す。その影が定着する前に、
「あなたが望むなら、正妃ローザリンデの失脚に手を貸してもいいわ」
アリスは甘い菓子も差し出した。
世子は本当に聡明で、頭の回転も速かった。彼はアリスの名を呼び、微笑んだ。
「アリスタクセンス嬢」
「アリスでいいわ」
「アリス嬢」
「アンジェイは私の生涯の友。私が私の命以上に大切に思う人。そのことを忘れぬように」
「わかりました」
世子は天使に戻っていた。そして、アリスとロジェは秘密を共有する者同士になっていた。
アリスは、今日、自分に与えられた力の使い方が、本当にわかったような気がしたのである。
その力は、賢く判断力のある人間に対しては極めて有効だが、冷静に損得勘定ができない相手には――たとえば、愛すべきユースティア王女のような人物には――想定外の方向への暴走を生む可能性がありそうな力だということも。
「ところで、ユースティア王女は、アンジェイとオクシタニスのことを知ってるのかしら? あなた方が似ていることに気付いていると思う?」
「姫には、美しいものは似るのだと言っておきましょう」
特産品が美男美女の国の世子は、自分の姿が持つ力を熟知しているらしい。美少年のしたたかさに、アリスは内心で舌を巻いた。
その日、オクシタニス大公国から献上されたワインは、大公世子の愛くるしさと、イース伯爵令嬢以外のあらゆることに無関心なあのアンジェイ・ピャストが興味を示したという事実によって、大変な評判を得た。
アリスは、オクシタニス大公国とベニエ商会の仲立ちをすることを、ロジェ・トランカヴェルに約束した。
「大公世子殿下は私の弟になってくれるそうです。殿下をご紹介くださったユースティア様には、感謝の言葉もありません。世にも可愛らしい弟と世にも美しい侍衛。私ほど美しい男子に恵まれた女子は、他におりませんわね」
そんなことを言って、ユースティア王女の不機嫌を楽しむ振りをしながら、アリスの胸は千々に乱れていた。
どんなに隠蔽を図っても、いつか誰かがアンジェイの秘密に気付いてしまうかもしれない。
いっそアンジェイが誰の注意も引かないような平凡な容姿の持ち主だったらよかったのに。
アリスは完全に本気で、そう思った。




