大公世子ロジェとの取引き②
ユースティア王女がオクシタニス大公国の世子との結婚を考えていない理由は、オクシタニス大公国大公世子の姿を見た瞬間にわかった。
美男美女が特産品の国の次期大公ロジェ・トランカヴェル。
彼は確かに美しかった。
やわらかく豊かな黒髪。真夏の海のように鮮やかな青い瞳。なめらかな肌、しなやかな肢体。見る者を一瞬で魅了する清らかな微笑み。間違いなく、彼は美しかった。
しかし、ロジェ・トランカヴェルは僅か十二歳の少年だったのだ。
アリスより六歳年下。ユースティア王女よりも八歳年少。
「あー……これは……。いくら美少年でも、ユースティア様にはさすがに……。ううん、私にだって幼すぎない?」
「……」
アリスは、ぜひアンジェイのコメントを聞きたかったのだが、残念ながら彼は無言だった。
「五年後くらいには、もしかしたらアンジェイに対抗できるかも」
アリスが煽ると、「かもしれん」という短い唸り声が返ってきた。
「あら、アリスタクセンシア・ドゥ・イース。いらしてたの。ちっとも気付かなかったわ、ごめんなさい」
「アンジェイの存在感にも翳りがさしたようです」
「そんなことは言っていな……」
下手な弁解は墓穴を掘ると考えたのか、ユースティア王女は途中で話題を変更した。
「そんなことより、あなたに紹介するわ。既にご存じよね。ロジェ・トランカヴェル殿。オクシタニス大公国の世子様よ。あなた、黒髪の男性がお好きでしょ。我が国一の面食いのあなたのご感想を聞きたいわ。お気に召したら、私が仲介の労をとってさしあげても――」
言おうとしていたことを全部言い切ろうとしているのか、ユースティ王女はやけに早口である。
アリスは意識してゆっくりと、彼女に応じた。
「とても可愛らしい世子様。十年後にはアンジェイをしのぐかもしれませんわね。その時にはぜひ、ユースティア様のお手を煩わせたいと思いますわ」
「アリスタクセンシア! 私に十年も待てと言うの!」
「待つ価値はありそうですわ。ロジェ・トランカヴェル様。アリスタクセンシア・ドゥ・イースと申します。よろしくお見知りおきくださいませ」
「アリスタクセンシア・ドゥ・イース嬢。オクシタニス大公国対抗世子ロジェ・トランカヴェルです。ユースティア王女殿下と懇意なのですね。こちらこそ、よろしくお願いいたします。それと――」
ロジェ・トランカヴェルは、アリスの後方に付いているアンジェイの顔を見上げた。否、最初から――アリスとユースティア王女がつばぜり合いを演じている最中から――彼はアンジェイを気にしていたようだった。
(アンジェイの誘引力って、男の子にも効くのかしら)
そう思うと、少しアリスの胸はざわついた。急いで、気を取り直す。
「本当に可愛らしい世子様。お近づきになりたいわ。ユースティア様、彼をお借りしても?」
「も……もちろん、よろしくてよ。仲よくしてちょうだい。代わりにアンジェイを――」
ユースティアの言葉を、アリスは非情に遮った。
「アンジェイ、庭に出ましょう。ロジェ様、私は、オクシタニス大公国の葡萄の加工について、お伺いしたいことがありますの。ご教示願えますでしょうか」
「我が国の葡萄の加工?」
「ええ」
ユースティア王女をその場に残し、アリスはロジェと共に、ホールから直接内庭に出た。アンジェイが無言で二人に従う。
「世子様のお国では、たくさんとれる葡萄のほとんどを、干し葡萄やジャムなどの保存食作りにまわしていらっしゃる。でも、普通はワインでしょう。身も蓋もない話ですけど、ワインの方が高く売れますもの。我が国の需要も桁違い。なのになぜ? と、ずっと不思議だったんです」
「我が国について、随分学んでくださっているんですね。嬉しいです」
そう言って微笑む世子には、屈託が感じられない。『可愛い』と、素直にアリスは思った。
「アンジェイは宗教が関係しているのではないかと言うの。でも、そんなことがあるかしら」
アリスが視線で、世子にアンジェイを示す。
「アンジェイ」
世子はその名を舌の上で転がすように復唱し、
「美しい方ですね」
と告げた。
十を少し越えたばかりの少年に容姿を褒められるのはこれまでなかったことだからか、珍しくアンジェイが決まりが悪そうに、眉をひそめる。
「あなたのようにお美しい方にそんなことを言われては、さすがのアンジェイも返答に窮するわね」
「凝った庭ですね」
世子が、おそらくアリスが座れる場所を探して、建物の方を振り返る。
歩くのも走るのも好きなアリスは、彼の気遣いを無視して歩を進めた。
「アンジェイ殿の推察は的を射ています。我が国では、清貧であることが非常に尊ばれ、堕落者は軽蔑される。物欲、食欲、性欲、権力欲、名誉欲、すべての欲を捨て、理性で自らを律する者こそが、真に神の意思に沿う者。酒は、正しい生き方を妨げる大きな障害です。ですから、我が国ではずっと酒の製造が禁じられていたんです」
「すべての欲……」
天使のように清らかな面差しの少年の唇から『性欲』などという言葉が出てくることに、アリスはぎょっとした。
小国とはいえ一国の世子。ただの子どもではないのだ。
「ですが、食欲や性欲を罪としていたら、人間が神に気に入られるには死ぬしかなくなる。それが本当に神の望みなのだろうかと、僕の父は若い頃から疑っていたのだそうです。ものを食べずに痩せ衰えていく人を見て、その家族が喜ぶだろうか。人を愛し求める心を、誰に消し去れるだろうか。僕の母に会った時、父の疑念は大きく膨らみ――」
「その心は誰にも――神にも消し去れないと、あなたのお父様は考えたのね」
多分それは真実なのだろうと、アリスも思わないわけにはいかなかった。
神が、国が、世の習いが、その心を許さなくても、人を愛し求める心は何ものにも止められないのだ。
たとえば、アリスの母の心も。そして、アリス自身の心も、他の誰の心も。
「そこで、僕の父は、国に活気を生むため、ワイン醸造の事業を始めたんです。僕の誕生が、父の決意の後押しをしたと、父は言っていました。今年やっと、フランコルム王国の貴族の方々にも飲んでもらえそうなワインができたので、世子である僕が使節として朝貢に来た次第です」
「多少渋みがあっても、あなたのお顔を思い浮かべながら飲んだなら、誰だって許してしまうでしょうね」
ロジェに微笑んでから、アリスは後ろを振り返った。
「アンジェイの推測で、大体合っていたわね」
「アリスの十年来の謎が解明されたようで何よりだ」
アリスとアンジェイのやりとりを不思議そうに眺めていたロジェが、ふいに二人に尋ねてくる。
「アンジェイ殿はフランコルム王国のお生まれですか」
「え」
思いがけない問いかけに、アリスの笑顔が凍る。アンジェイは無表情に戻った。世子が二人の変化をすぐに察し、僅かに戸惑いの様子を見せる。
「不躾なことを訊いてすみません。アンジェイ殿にそっくりな人を知っているので……」
「アンジェイにそっくり……? それはさぞかし美しい人なのでしょうね」
アリスの声が震える。世子の口から、もしヒュペルオイアスの人間の名が出てきたら、どうやって口止めすればいいのか――。
アリスがその時考えていたのは、その可能性だけだった。が、世子の口から出てきたのは、アリスには完全に想定外の人名だったのである。
「我が国の大公宮の大ホールに、僕の伯母――僕の父の姉の肖像画が掲げられているのです。エンドゥーラ・トランカヴェル。父より八歳年上で、トランカヴェル家特有の黒髪。瞳の色はアンジェイ殿とは違いますが、とても美しい方で……」
ヒュペルオイアス帝国ではなく、オクシタニス大公国?
アリスは虚を突かれたが、最悪の事態は免れたようだと考え、安堵した――しかけたのである。だが、それは早計だった。
「我が国は、軍隊と言えるほどの武力も持たない小国です。ですから、フランコルム王国に対しても、ヒュペルオイアス帝国に対しても、友好という名の恭順を示し続けていた。二十数年前、当時はまだ即位前だったヒュペルオイアスの皇太子アウガスト・ソーンツェアが我が国の宮廷にやってきて、伯母上の美しさに心を奪われてしまった」
「……」
二十数年前に皇太子だったアウガスト・ソーンツェアといえば、それは間違いなく、ヒュペルオイアス帝国最後の皇帝アウガスト四世のことである。
「伯母の心はわかりませんが、ヒュペルオイアス帝国の皇太子に逆らう力は、我が国にはなかった。伯母は、誘拐同然に帝国に連れ去られ、皇帝の妻にされました。正妃ではなかったのですが、男子を産み、その男子は第一血統親王として、次期ヒュペルオイアス帝国皇帝の座を約束されていたそうです。その前にヒュペルオイアス帝国はフランコルム王国に併合されてしまい、第一血統親王は戦乱に巻き込まれて亡くなったのだろうと言われているのですが……」
「……」
もしその第一血統親王――フランコルム王国を侵略しようとして失敗し滅亡した帝国の跡継ぎ――がアンジェイだったとしたら、それは、アンジェイの出自として、考え得る限り最悪のものである。
おそらく暗殺等を避けるために、ヒュペルオイアス帝国皇帝に男子の帝位継承者がいる事実が伏せられていたので、アリスの祖父もその可能性には思い至らなかったのだろう。アリスの亡くなった祖父は、アンジェイ母子をヒュペルオイアスの皇帝か皇后に侍女として仕えていた大貴族の夫人とその息子――と察していたように思う。
だが――。
アリスの頬からは血の気が引いていった。とにかく今は、この話が宮廷内に広まるのを防がなければならない。
咄嗟にそう判断し、アリスは右手の人差し指の指輪を外し、オクシタニス大公国の世子の意思を奪った。そして、間髪を容れず、アンジェイに命じたのである。懸命に声の震えを抑えて。
「アンジェイ。今日は特別に喫茶室で、オクシタニスから献上されたワインが振る舞われることになっていたはず。その評判を聞いてきてちょうだい」
「アリス」
視線で躊躇う空気を示したアンジェイに、だが、アリスは言葉を重ねた。
「これから、アンジェイに聞かれたくない話をするの。アンジェイは知らない方がいい話」
「それは命令か」
「そうよ」
アリスに命じられてしまうと、アンジェイは彼の主人に逆らうことはできなかった。




