9話 夢と約束
年内最後のレッスンが終わった。現在地点はスタジオの控室。まだ夕方だが窓の外は真っ暗だ。今から唯夏に二人の引退を伝える。
「唯夏、私と芽衣から話がある。いい?」
亜希が単刀直入に切り出す。円形のテーブルに時計回りで唯夏、紗英、芽衣、私、亜希の並びで座っていた。私はちょうど唯夏の正面にいる。
「どうしたのみんな。なんか変だよ」
レッスンを振り返って、さあ帰ろうというタイミングでの話。私たちを取り巻く空気がずしんと重くなる。唯夏も異様さに気づいたようだった。
「落ち着いて聞いてほしいんだけど。私は解散後、声優を辞めて就職する」
「……え?」
唯夏は亜希を見つめたまま固まる。状況が飲み込めていないようで、数回まばたきをした。
「私もね、引退して結婚するつもりなの」
「な……なんで? なんでそんなこと」
「私たちに仕事がないの、わかるでしょう」
唯夏は亜希に対して「わからない」と言うように首を振った。
「なんで諦めちゃうの? どこでどんな作品に、役に出会うかわからない。諦めなければ絶対チャンスはあるのに」
予想通りの反応ではあるけど、予想以上に苛立ちを覚えた。オーディション不合格と唯夏へのオファーが尾を引いて。一日空ければ気持ちの整理がつくと思っていたのに。
唯夏が売れたの芸歴三年目の二十歳のときだよね? その台詞、六年目の二十七歳と二十六歳に言うんだ。——口を開けば嫌味が出てしまいそうで自制した。
「オーディション、受からないんだよ。私はもうテープで落ちてばかりで、スタジオまで進めない。それに……」
亜希の視線が私を挟んだ芽衣の方にいく。
「私はオーディションの話も来なくなった」
「でも……でも、この間、オーディションの話来たって」
「あれはマネージャーが頑張ってくれたけど……後輩に取られちゃった。唯夏を悲しませたくなくて、正直に言えなかった。ごめんね」
芽衣は甘くてかわいい声だけど、声質のそっくりな声優が数多くいた。事務所の後輩だけでも三人いて、芽衣のもらえそうな話が彼女たちに流れている。後輩に似た人がいると厄介だ。実力が同程度なら伸びしろのある新人が優先される。
「唯夏、わかってあげて。二人は新しい道を選んだ。受け入れてあげてほしい」
隣で紗英が言って聞かせようとするが、
「新しい道って、なんで綺麗事みたいに言うの。選びたかったわけないよ」
すぐさま反発する。綺麗事言っているのはどっち。選びたくなかった選択肢を選ばなければならないほど追い込まれていたと、なんで気づけないの。
「選びたくなくても悩んで選んだことなんだよ。二人が一生懸命に考えて」
私なりに抑えた表現をした。目的は説得だから冷静さを見失わないように。
「紗英と優香は知ってたの?」
唯夏は私と紗英を見比べながら追及する。問いには亜希が答えた。
「唯夏は反対するだろうと思って、最後に話すことにした。事務所も知ってていま色々と動いてもらっている。……ごめん」
「私にだけ隠してたんだ」
「唯夏の忙しい時期に負担をかけたくなくて。ごめんなさい」
唯夏は芽衣の弁解を聞くと、また私と紗英に矛先を向ける。
「引退を聞いても反対しなかったんだね」
隠し事よりそっちに意識が向いているのか。まるでこっちが非常識だと言いたげで無性に腹が立つ。
「そうだよ。何か悪い?」
「優香」
喧嘩腰で返してしまって紗英に制される。冷静さを心がけていたのに今ので崩れ去った。悪化させないためには唯夏の顔を見ない、なるべく喋らないぐらいしか。説得したいのにそれじゃ意味ないけど。
「仲間が辞めるっていうのに、何もしなかったんだよ?」
「なにも途中で抜けるわけじゃない。解散後にどうするかまで私たちが口出しできないよ」
「解散後でも約束があるのに。いつかまた五人で共演するって」
唯夏と紗英のやり取りにその単語が出てくると、芽衣がびくりと肩を震わせた。
「守れなくてごめんね。本当は叶えたかった」
許しを請うような目が痛々しい。唯夏が押せば揺らぎそうで不安になる。
「私も叶えたかった。でもここが限界。悪いけど叶えられないよ、あの約束」
亜希は芽衣ほど縛られていないけどやっぱり唯夏に弱い。
「どうして守ってくれないの?」
まるで裏切り者呼ばわりだ。考えないようにしていた一昨日のことがどんどん大きくなる。唯夏とは一件のオーディションの重みが違う。落ちたら次はないかもしれない。誰にも声をかけてもらえなくなるかもしれない。そうした積み重ねで機会が減り続けたから、二人は決心した。唯夏にこの気持ちがわかるわけない。
「そんな言い方ないよ。二人の人生なんだよ、唯夏のためにあるわけじゃない」
言葉こそ強めでも紗英は平静さを保っていた。私には我慢の限界。いかに説得するかという建設的な考えは吹き飛んでいた。
「私だけの約束じゃない、みんなで交わしたみんなの約束だった。叶えられないって決まったわけじゃない。二人ともまだ頑張れる。待ってるファンがいるのにどうして——」
「いい加減にして!」
叫んだ私に四人の視線が集まる。
「唯夏は現実が見えてない。オーディションはいくらでも受けられるし、オファーで何もしなくても仕事がもらえる。ジュエリーピースは足枷だから、なくなって追いつめられる気持ちはわからないよね」
「優香、やめて」
「ねえ一旦落ち着こう?」
もう止まらない。止める亜希となだめる紗英に目もくれず、唯夏を睨みつける。
「足枷じゃない! 私の大好きで大切な居場所。私たちはずっと一緒にいるの。解散しても一緒にいて、みんなで夢を叶えるの!」
涙を流す姿に虫唾が走る。解散が死活問題だと考えたこともないくせに。仕事がなさすぎると、事務所の方から切られる可能性だってあるのに。
「足枷だよ。解散後はもっと多くのファンの期待に応えられる。みんなを巻き込まなくたって、唯夏は外にたくさんファンがいるんだから。子供じみたわがまま言わないで!」
紗英と亜希が何か言っているが、もう聞こえない。芽衣は私の服の端をつかんできた。「唯夏を責めないで」と言われている気がして、それも嫌だった。
「いや……! 私の愛する場所を愛せない人は、ファンじゃない!」
だったら私にちょうだいよ。地位も名誉もいらないと言うなら。——立ち上がって手をあげそうになった。亜希は私の体を抑えて、紗英は唯夏をかばう。私から手を離した芽衣はうつむいていた。
許せない。約束の強要、ファンを軽視する発言。なによりも……私が欲しいものを持っているくせに無碍に扱う態度が。売れなきゃ良かったのに。そう思った瞬間、笑顔の唯夏が頭に浮かんで、胸をわしづかみにされた。唯夏の声が届かない……なんて、あっていいわけ——なくて。ぐちゃぐちゃになった感情は暴れ回って手がつけられない。
「よく言えるね。信じられない。見損なった」
今の自分がどんな顔をしているのかわからないけど、唯夏とみんなの表情でなんとなくわかる。唯夏は声にならない声を上げて、荒々しい物音を立てながら出ていった。バタバタと足音が遠ざかっていくのを感じる。
「優香——」
「ごめん、私も帰るね」
亜希が呼ぶのも構わず、荷物を手にして去った。居たたまれない空気から逃げるように。
スタジオから出るまでに数人のスタッフさんとすれ違った。唯夏が走っていったばかりだから、異変に気づかれたかな……。
外は寒くて痛い。白い息を吐き辺りを見渡した。唯夏の姿はどこにもない。いま会ったって何ができるわけでもないのに。どうしてこんなことになったんだっけ。私が我慢できていたらもっと違っていたんだろうか。オーディションのどちらかにでも受かっていれば、心に余裕があったのかな。
「優香!」
数メートル歩いたところで、紗英の声が聞こえて振り返った。
「追いかけるなら唯夏だよ。私じゃなくて」
唯夏が見つからなかったから、そこにいた私を呼び止めた? いいや、叱るために私を探していた?
「優香と話したかったんだよ。唯夏はそっとしておこうと思った」
考えを読み取ったのか、紗英はそうじゃないと言うように説明する。上手く目を合わせられなかった。
「優香。我慢しなくていいよ」
言われて目元が熱を持つ。気づいたときには涙が流れていた。泣くのはいつぶりだろう。唯夏が泣き虫だから、私は自然と泣けなくなっていた。解散が決まったときも、オーディションに落ちて絶望した一昨日も。それなのに次々と涙があふれてくる。久しぶりで拭い方がままならない。
「……どうして」
紗英は私の泣き顔を隠すように抱きしめた。少し経って離されると、今度は手を引かれる。人目がない場所を探してさまよい歩いた。
駅に向かう道の途中に公園があった。ブランコにベンチ、自販機しかない小さな公園。運良く人もいない。ベンチに座りハンカチで顔を覆った。まだ涙が止まらない。紗英は泣き止むまで背中をさすってくれた。
「落ち着いた?」
ペットボトルを渡される。温かいミルクティーだった。
「ありがとう……」
おいしいけど、唯夏からもらった紅茶缶を思い出してしまった。
「あんなこと言わせてごめん」
コーヒーを一口飲んで紗英は話し出す。ごめんは私の台詞だろうに。
「なんで? 私のせいで説得できなかったのに」
「リーダーとして私が言うべきだった。唯夏の約束がみんなを縛っていると」
誰も言えないから仕方なく言った。みんなを唯夏から解放するために。そう受け取られているとすれば、お門違いもいいところ。
「私が、みんなのために憎まれ役を買って出たとでも思ってるの?」
「思ってるよ」
間髪入れずに肯定されてたじろぐ。仲間を思っての行為だと開き直るなんて許されない。
「違う。一昨日オーディションに落ちて、だけど唯夏はオファーをもらえて。八つ当たりしたんだよ」
「だとしても半分は、亜希と芽衣のためだったでしょう?」
「半分もない。あったとして一割だよ。……自分は売れまくってて、ひとりで仕事をいくつも奪っていくくせに。口を開けばいつまで経っても『みんなで、みんなで』。甘くて綺麗事ばっかりの唯夏にイライラして言った」
優しくされるのがみじめで棘のある言い方になってしまう。投げやりな態度を取っても見捨てられないだろうと、甘えている部分もあった。いつもそう。唯夏は甘え上手なのに私は上手くできない。
「甘い……か。そうだよね」
紗英はコーヒー缶を両手に包んで、考えるように下を向いた。
「私たちは声優だから、役を取り合うライバル同士でもある。競争は避けられないし格差ができるのも仕方ない。みんなでが綺麗事だと言いたい気持ちはわかるよ。ユニット内でアイドルとしての差がほとんど生まれなかったから、なおさら甘ったれになってしまった」
もし私たちの声優格差がアイドル活動にも反映されていたら。間違いなく大人気ユニットになっていた。足枷ではなく「宮瀬唯夏でもってるユニット」だと言われて。それはそれで残酷だが、唯夏も「自分と同じ」をみんなに求める行為がどれだけ酷なのか、よく理解できただろう。ステージ上でも埋めようのない格差を見せつけられた私は、ある種の諦めを抱けたかもしれない。ジュエリーピースの中では引け目なく相方を名乗れるから、対等なのだと錯覚する。外に出て初めて現実を突きつけられるのだ。
「唯夏も頭ではわかってるはず。理解していても、ファン目線で『みんなはもっとできるはず』と押しつけてしまう。下手したら『みんなこんなに頑張ってるのに、評価してくれない世間が悪い』とまで思っていそうな節がある」
唯夏に励まされていたのは事実だけど、さすがに押しつけが過ぎる。なんでそこまでして。
「どうしてああなの? 唯夏は狭い内側にこだわらなくても、外で多くの人に望まれてるのに」
ジュエリーピースを愛せない人をファンじゃないと言い切った。傷つけた私が悪いけど、あれだけは許せなかった。
「唯夏個人のファンかつユニットのアンチ。これが大きな原因だと思う」
私も一因だとは考えていた。だからといってここまで意固地になるのか。唯夏本人は愛されている。外で声優として求められているのに。
「そんな大ごとかな。私たちはユニット批評に慣れてる。叩かれ馬鹿にされるなんていつものこと。それが自分のファンってだけ。私だったら、解散しても生きていけるんだ、私が声優として一番評価されているんだって、優越感に浸ってるよ」
「その感情がいつまでもつ?」
「……」
「自分の一部を否定されるんだよ。自分を好きでいてくれる人に」
自分の一部。仲間だけじゃなくて「ジュエリーピースにいる自分」も否定されるのだと今更気づく。
「もしかして紗英も言われてる?」
「私はそこまでじゃない。でも唯夏は……」
言おうか言うまいか悩んでいるようだ。そして紗英は、誰にも言わないでほしいと念を押した。
「前に唯夏から『ファンレターを破いてしまった』と相談されたんだ」
……ファンレターはスタッフさんの検閲が入っている。飛び交う言葉が乱暴になりがちなSNSとは違う。それをどうして。
「私、一言も聞いてない」
「優香には言えないよ。優香のことも良く思わない人から来たんだから」
「例えばどんな……? そもそも検閲されてるよね?」
「唯夏のファンレターは検閲の判断が難しい。声優としての唯夏を愛するあまり、脱退や解散を願う人も少なくない。優香についても『よく共演してる何々ちゃんこそ真の相方だよね』みたいに書いてたり」
本人に直接、手書きで伝えたい思い。匿名で足枷だなんだと嘲笑する人よりも、ずっと重くて真剣で……人を傷つける愛。認識の甘さに恥ずかしくなる。ユニットアンチをファンに抱えるとはこういう意味なんだ。
「それ、誹謗中傷に当たらない?」
「唯夏への愛から生まれた文章だから、もやっとする程度で誹謗中傷と断定はできない。そこにさえ目を瞑れば、愛にあふれた応援メッセージだから。厄介なことに、そういう思考になる人ほど熱心なファンなんだよね。で、検閲を通ったいくつかが唯夏の目に触れてしまった」
手紙の束から一通取り、好きな飲み物でも片手に封筒を開ける。読み進めていくと怒りと悲しみで手が震えて、手紙を握る力を強くして——
「ビリビリにしたの……?」
「真っ二つになってはいたけど、テープで補正して取ってある。愛すべきファンに、自分が愛している人やものを嫌われるのはつらいんだよ。唯夏はそれも愛だと理解して受け入れた。この事件から検閲が厳しくなったのもあるだろうけど、破ったという話はこれっきりだった」
唯夏が悩んでいるのは知っていた。ジュエリーピースに人気を還元したかったのに、自身の足枷だと決めつけられて、つらかったのを。……だけど。私には外のファンがいない。
ジュエリーピースを経由せずに私を知る術はない。名前のある役にしてもレギュラー出演ではなかったり、一話限りだったり。エンディングクレジットで何十人と声優が並ぶ中、下に埋もれる私を見つけてファンになってくれる人なんて、いない。
内のファンは私を探してくれる。ブログで出演情報を更新すると、作中のどこで喋っているのかもわからない私を見つけようとしてくれた。それが申し訳なくて。外で私の声を知っている人を増やして、内のファンも喜ばせてあげたかった。
それに比べれば大したことないと思ってしまっていた。言い換えれば「掃き溜めに鶴」だから、活躍できている証だって歪んだ捉え方をしてしまうことすら。ファンが自分の居場所を敵視している。愛してくれる人に愛で苦しめられる。その意味をわかっていなかった。ファンレターを破くなんて尋常じゃない。
「私は……何もわかってあげられずに足枷と言った。二回も」
「優香から言われるのは堪えただろうね。ファンじゃないというのは、ショックから出てきてしまっただけで本心じゃないよ。外のファンが全てユニットアンチなわけではないけど、唯夏は彼らの気持ちも受け止めていた。そこで無理をした分が私たちへの偏愛として出てきてる」
ファンへの拒否感と罪悪感、複雑な思いをはらんだ感謝。唯夏は葛藤や悪感情を決して表には出さなかった。外のファンにもプロとして対応できていた。内にいてよく観察しているファンならユニット贔屓は察しただろうし、箱推し贔屓なのもバレていたかもしれない。でも外のファンからは平等に見えるよう心がけていたと思う。
それを私は、表面上だけ外のファンにいい顔しておいて、心の中では「いらない。ファンじゃない」と蔑ろにしていると思い傷つけた。
私たちに約束を押しつける唯夏は、ファンに理想をぶつけられて苦しんでいた。抑えた感情はなくなったわけじゃない。内に内にと閉じ込められて……私たちへ向けられた。それでなくとも私たちが大好きなんだから、余計に心の拠り所となっていたのかもしれない。
「紗英はわかっていたから、約束を悪く言えなかったんだね」
紗英は私の知らない唯夏を知り、支えになっている。外にもファンがいる声優だから支えになれる。私が相方としてそうあるべきだったのに。
「それだけじゃなくて、私も唯夏の願いが実現すればと思っていたから」
「唯夏のために頑張ってるの?」
反射的に聞いてしまう。脳裏には芽衣が浮かんだ。
「違うよ。私の声をたくさんの人に届けたいから。唯夏のためじゃなくて、唯夏に負けたくないから頑張ってる。そうして頑張った先に共演があったらいい」
本来はこうやってお互いに高め合うための約束で。いつから鎖になったんだろう。
「五人で叶えられたら……良かったのにね」
目を閉じると、五人でアフレコブースにいる光景がまぶたに映った。宝石のカケラ以外のメインキャストとしての共演は、五人はおろか二人でもまだ叶えられていない。
紗英が肩を抱いてくれる。しばらくじっとしていた。
やがて長居した公園を出て、駅まで並んで歩く。
「私、酷いこといっぱい言った。自分の都合ばっかりで唯夏の気持ちを無視した」
「唯夏が夢と理想をみんなに押しつけているのは本当。強く言わなきゃ伝わらなかった。私たちはバッシングされてきた経験から、変に依存体質なところがある。そこに唯夏みたいな子がいたら、こうなるのは無理もないのかもしれない」
紗英はわかっていて距離を取っていた。私たちだけを特別視しないように。仕事中だけでなくオフでも。例えばオフの日に誘ったとき、「仲良くなった共演者や関係者と予定があるから」と断る確率は、唯夏より紗英の方が高い。日々多くの業界人と関わっているのは唯夏なのに。外との交流も大切にしているが、内心は私たちにべったりだろう。
「それでも私が唯夏を傷つけたのに変わりない。私が……」
「謝ってちゃんと話し合おう? 大丈夫。わかってくれるよ」
「そうかな……」
自分の言動を思い出しては、紗英に諭されるまで気づかなかったことを恥じた。今回だけじゃなくこれまで唯夏に対して抱いた感情も。
「今夜うちに泊まってく?」
駅まであと少しのところで自然に誘われた。
「年末で忙しいでしょ。悪いよ」
「今年はずっとこっちにいるから困らないよ。明日は仕事もバイトもないし」
じゃあお言葉に甘えて——が口から出てこなかった。ここで誘いに乗ったらタガが外れてしまいそうで。甘えたらそのままズルズルといって、強くなれない気がした。
「明日から実家に帰る予定で、その準備があって。だからごめん」
嘘。準備はもう済んでいる。空港には夕方までに着けばいいから、朝まで紗英の家にいても問題ない。
「そういえば明日からだったね。気をつけて」
「お土産なにがいい?」
「温泉饅頭。かぼすクッキーも捨てがたいけど」
「じゃあどっちも買ってくる」
紗英は心配そうにしながら引き留めずに見送ってくれて。いつも通り駅で別れた。
家に着くまで平気だったのに、玄関でガクリと力が抜けた。急に孤独が襲ってくる。自分で断っておきながら泊まらせてもらえば良かったと、矛盾した思いが湧いた。意味がわからない。
誰かと繋がりたくてスマホを手にするも、誰にも連絡できない。亜希と芽衣には合わせる顔がないし、紗英にもやっぱり寂しいとは言えない。じゃあ誰に。スマホを置いて両手を床につく。
「唯夏……助けて……」
……何を言っているんだろう。
寒さで手がかじかみ、やっと部屋に移動した。無心で入浴した後はベッドに飛び込む。吸い込まれるように眠った。




