四十五話 一月十四日 その二
一月十四日 そのニ
浅利の決意は、揺らいだ。九藤の部屋へ来ると、サークルの異変など取るに足らないことに思えてくる。いつもそうだ。ここへ来ると時間が止まったように感じるのと同時に、冷静な思考も止まってしまう気がする。ただ、この九藤の美しさに身を埋めていたい。
九藤は死んでいるのではないかと思った。彼は自室のベッドにうずくまって、ぴくりとも動かないのだ。しかし浅利が彼に近寄って肩を揺り動かすと、ううん、といううめき声にも近いものが発せられたので、生きてはいるのだな、と思った。
「ああ、浅利か」
しわがれた声で、九藤は言った。随分と長い間声を出していなかったようだ。
「寝てたの?起こしちゃったか」
「ううん、いいんだ。ただ寝起きは辛いから」
渾身の力を込めるようにして、九藤は上半身を起こした。彼の綺麗だった髪はぼさぼさに広がり、肌には艶がなく、がさがさとしていた。
「九藤、お風呂入ってる?」
九藤はひどく怯えたように、驚いたように表情をわずかだが変えた。
「僕、臭い?」
驚くほど素早い動きで、九藤は浅利から離れた。
「いや、そういうわけじゃないけど…」
この部屋は男が長時間閉じこもっているにも関わらず、嫌な臭いはしなかった。九藤は見た目も女性的だが、体質もそうらしい。彼の体臭を感じたことはない。
浅利は、今の九藤は些細なことでも過剰に、後ろ向きに捉えてしまうらしいと思った。彼への接し方一つとってみても、すでに気は抜けなくなってきていた。
「シーツとか、換えようか?」
「…いい。このまま…このままでいるのが一番落ち着くんだ」
シーツを換えるだけでも煩雑に感じるのだろうか。彼がそれでいいというのだから、そのままにしようと思った。
「夕食、材料買ってきたんだけど、作ろうか?」
九藤は苦しそうに頭を振った。「せっかくだけど…いらない」
「何も食べてないんでしょ?少しぐらい食べないと、まずいよ」
「はは…」笑い声を出すが、九藤の顔はまったく笑っていなかった。「浅利、お母さんみたいだ」
「初めて言われたけど…」
「嬉しいんだ。凄く嬉しいんだよ。ありがとう」その言葉は嘘に違いない。彼はそういった感情が湧かなくなっているはずだ。「でも、何を食べても、味がしないんだ。せっかく作ってもらっても、味わえない。それじゃ、浅利に悪いから」
九藤は以前よりやせ細り、その体には力がなかった。腕をだらりと放り出し、足は長らく立つこともしなかったからかまるで棒切れのように見える。唇は乾いてひび割れており、目には光りがまるで感じられない。
――ああ、綺麗だ。
その弱りきった九藤。もうすぐ失われてしまう彼の物憂い悲壮感。消えそうで消えない命のともし火。彼の人生にはいろいろなことがあっただろう。辛いことが多かったかもしれない。それでも、九藤という一人の人間を形成する要素としては、欠かすことはできない。辛く悲しいことは彼の中にあった方がいい。
それは、彼が死ぬ時の、その感動を損ないはしないのだ。
神楽坂がおかしい?楠木がおかしい?東がおかしい?そんなことどうでもいい。
「浅利」九藤が弱々しいしい声で、椅子に座っている浅利を呼んだ。
「何?」
「昨日、サークルメンバーが集まったんだろう?どんな話をしたんだい?」
うつ状態になっていても、サークルのことは気になるらしい。それほど、彼にとってあのサークルの存在は大きいものなのだろうか。
「東がいつも通りくだらないことを喋っていたよ。何か企んでるように見えるんだけど、一応普通だった」今はそれもどうでもいい。「あ、そうだ。あいつ、イタリアに行ったんだってさ」
「イタリア?」
「そう。ロザリア・ロンバルドを見てきたんだって」
「そうか…」
九藤は視線を落として黙った。ロザリアに思いをはせているのだろうか。そういえば、九藤はそのことについてどう思っているのだろう。彼も、ロザリアのことが気になるのだろうか。
「九藤、あのね…」
浅利はこのことを言うか、言うまいか迷った。だが結局言うことにした。隠しておく理由は、今の浅利にはない。
神楽坂がミイラ師を知っているという話。その人物がいる場所。それらを九藤に伝えた。
「そう…か」
ベッドにごろんと横になり、九藤はじっと天井を見つめ出した。よく目を凝らさないと、彼は死んでいるように見えた。体は微動だにせず、瞬きもしない。呼吸すら止めているのではないかと疑えるほど、今の九藤は死体然としている。
しばらくすると、九藤は急に大きな声を出した。「浅利」
「どうかした?」
次に彼が言う言葉は予想できた。その答えもすでに浅利の中で決まっている。九藤は天井を見つめたまま、手を胸に当てて言った。
「僕が死んだらさ、僕を――ミイラにしてくれ」
九藤は目を瞑った。まるで彼が死ぬ時の、その瞬間の練習をしているように。
「ロザリアみたいにしろってこと?」
「そう。僕はああいう風に死にたい。皆から忘れられないように。生きていたということを証明できるように。美術館で、神楽坂さんが話したことを聞いてからずっと考えていたんだ。それと共に気分が落ち込んでいった。今までの人生を思い出してしまったんだ」九藤はテーブルを指差した。以前合鍵が置かれていた場所だ。「通帳とキャッシュカードがある。僕をミイラにする代金はそこから払ってくれ」
目を開け、九藤は浅利を見た。それは返答を求めている目だった。何かにすがりたいような、懇願しているような雰囲気を浅利は感じる。
浅利はためらいなく、言った。
「きっと、そうする」
九藤は、本当に久しぶりに、微笑んだ。それは幸せの表情だった。彼は満足している。浅利も満足する。何も問題はないのだ。
「ありがとう。浅利」




