第50章:森王ユジンー1
翌朝。
アリス王都の北門には、数メートル先すらまともに見通せないほど濃く、そしてひどく冷たい朝霧が立ち込めていた。
石造りの巨大な城壁すら輪郭を曖昧にするその霧は、これから俺たちが向かう死地の不吉さを、これ以上なく演出しているようだった。
俺とラナ、そして小さな手で眠い目をこすりながら俺の黒い外套の裾を握るシャリンの三人が、王が特別に用意した頑丈な装甲馬車の前で待っていると。
タタタッ。
濃霧の向こうから、冷たい石畳を軽やかに鳴らす足音が近づいてきた。
「お待たせ! 準備万端よ、英雄さん」
重苦しい朝霧を切り裂くように現れたのは。
昨夜の晩餐会での、目を奪うようなシックな夜会服から一転。
機動性と動きやすさを極限まで重視しながらも、どこか凛とした気品を漂わせる、冒険者用の純白のショートコートを羽織った、輪廻の唄姫サーシャだった。
艶やかな黒髪のストレートロングは、戦闘の邪魔にならないよう後ろで緩くまとめられている。
だが、俺の目が真っ先に捉えたのは、彼女の装備の異常さだった。
(……防具らしい防具が、一切ねぇ)
彼女の腰には、申し訳程度の細身の護身用ダガーが一本、革のベルトに提げられているだけ。
胸当てはおろか、革の籠手一つ身につけていない。これから天災たる神王獣を殺しに行くというのに、普段着と変わらない装いだ。
見た目の若さと美しさに反し、どんな絶境でも動じないような達観した落ち着きと、周囲の空気をパッと明るくするような底抜けの愛嬌が、彼女の中で異質なほど完全に同居していた。
「あ、きのうの、うたのおねえちゃん!」
シャリンが、眠気を飛ばして嬉しそうに声を上げた。
「シャリンちゃん、おはよう。ほら、これ。王都で一番美味しいパン屋さんの、焼きたての手作りクッキーよ。道中のおやつにしましょうね」
「わぁっ! ありがとう!」
シャリンが、花が咲いたような極上の笑顔で、可愛らしい布に包まれたクッキーを受け取ると。
サーシャはそのまま、隣でふわりと浮いているラナにも、極上の笑顔を向けた。
「よろしくね、銀髪の可愛い妖精さん」
「……妖精……あながち間違いじゃないけど。……まあいいわ! 美味しいクッキーがあるなら細かいことは気にしない! あたしはラナ。よろしくね、サーシャ!」
和気藹々とした、女子三人の平和すぎるやり取り。
まるで、休日のよく晴れた日に、王都の郊外へピクニックにでも行くかのような、弛みきった空気。
俺は、装甲馬車の冷たい木枠に背中を預け、腕を組んだまま、その光景を一切の温度のない冷徹な目で見つめていた。
俺たちがこれから向かうのは、お花畑ではない。
その気になれば、一つの国を容易く滅ぼし、人類の生存権すら脅かす天災たる神王獣の、不可侵の縄張りだ。
「……おい」
俺の声が、朝霧の空気を一瞬で凍らせた。
「遊びに行くわけじゃないぞ、サーシャ」
俺は、魔剣ムラマサの柄に右手を置き、サーシャの深い黒の瞳を睨み据えた。
「お前の絶対の盾とやらが、俺の要求水準に満たなかった場合。
あるいは、お前が恐怖で足手まといになった場合。
……俺は、お前がフェンリルの餌になる前に、容赦なくその場で斬り捨てて、置いていくぞ」
一切の冗談を含まない警告。
普通の冒険者なら、これだけで膝を震わせて逃げ出すだろう。
だが。
「ふふっ」
サーシャは、俺の棘だらけの冷酷な言葉を、春風に揺れる柳のようにサラリと受け流し。
「本当に、口を開けば物騒なことばっかり。……でも、大丈夫よ」
彼女は、純白のコートの胸元――自身の心臓に手を当て、自信に満ちた、そしてどこか魔の魅力を孕んだ妖艶なウインクを飛ばしてきた。
「私を信じて。私の唄は、世界のどんな理不尽からも、あなたを絶対に守り抜くから」
俺たちは、王国が特別に用意した、魔力障壁付きの頑丈な装甲馬車に乗り込み。
王都の北門を抜け、北西に広がる未踏の地、深淵の森へと出立した。
王都の堅牢な城壁を抜けると、景色は徐々に、人の手が入っていない荒涼とした原野へと変わっていく。
道中、馬車の中では、サーシャがシャリンに手遊びを教えたり、窓の外の流れる景色を眺めながら、透き通るような声で小さな子守唄を口ずさんだりしていた。
その声は。
やはり、鼓膜から直接脳髄を撫でるように、異常なほどに心地よい。
聞いているだけで、俺の心の奥にこびりついた、魔族へのドス黒い泥のような殺意と憎悪が、無理やり洗い流され、溶かされていくような、強烈で恐ろしい錯覚に陥る。
「……サーシャ」
俺は、窓の外の殺風景な荒野から視線を外さずに、低い声で問いかけた。
「あんた、本当にSランクの冒険者なんだってな」
「ええ、そうよ」
サーシャは子守唄を止め、ふわりと微笑んだ。
「でも、腕力だけなら、その辺のスライム並みだけどね」
そう言うと、彼女は白く細い腕をキュッと曲げ、全く膨らみのない力こぶを自慢げに見せてきた。
「……どうして、わざわざそんな危険な真似をしてる」
俺は、彼女の冗談には乗らず、核心を突いた。
「ただの防御魔法ならともかく、他人の魂にまで干渉するお前のその異常な唄があれば。
毎日泥と血に塗れて戦わなくても、この国の王城で、お抱えの聖女として、一生贅沢に、安全に暮らすことだってできるはずだ。
……なぜ、死と隣り合わせの最前線に立つ?」
俺の、冷たく鋭い問いに。
サーシャは、少しだけ伏し目がちになり、膝の上に置いた両手をそっと重ねた。
「……私はね。昔から、この声の魔法だけしか、取り柄がなかったの」
彼女は、懐かしむような、それでいて少し寂しげな声で語り始めた。
「私の父は、とても不器用な、剣士の冒険者だったわ。
魔法の才能もなくて、ただ剣を振るうことしかできなくて。……毎日毎日、泥と魔物の血にまみれて、自分の体中を傷だらけにしながら、私の元に帰ってきてた」
「……」
「私は、そんな父の背中を見て育ったの。
私には、父を癒やしてあげる回復魔法も、魔物を倒すための攻撃魔法もない。……だから、決めたのよ」
サーシャは、顔を上げ、黒い瞳に強い光を宿して俺を見つめた。
「私も冒険者になって。私のこの唄で。
戦うことしかできない、傷つくことしかできない不器用な父を……絶対に守り抜くって」
「……そうか」
俺は、その美しい動機を聞いても、表情を一切崩さなかった。
「だが、お前の親父の話は俺には関係ない。
俺は、お前を守らない。お前の目的も、理想もどうでもいい。
……お前のその自慢の防壁で、俺をフェンリルの牙から守ってくれ」
俺が、冷たく、彼女の優しさを完全に突き放すように吐き捨てると。
隣で聞いていたラナが、「ちょっと相棒! いくらなんでも言い方ってもんがあるでしょ!」と、悲しそうに俺の袖を引っ張った。
シャリンも、オロオロと俺とサーシャの顔を交互に見ている。
だが。
サーシャは、俺の冷酷な言葉を受けても、嫌な顔一つ見せなかった。
それどころか、慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべたのだ。
「ふふっ。ええ、任せてちょうだい」
サーシャは、俺の瞳の奥の、真っ黒な闇を覗き込みながら、静かに告げた。
「それにね、私はもう決めているの。
……あなたのその、世界を呪っているような、すごく悲しい目を。
これ以上、絶望で曇らせたくないもの。
言われるまでもなく、私が、私の唄で……あなたのすべてを守ってあげるわ」
「……。期待だけはしといてやる」
俺は、彼女のペースに巻き込まれるのを嫌い、舌打ちをして窓の外へ視線を戻した。
「まかせて! もちろん、ラナちゃんとシャリンちゃんのことも、絶対に守るからねっ!」
サーシャは、どこまでも優しく、だが、どんな暴力にも決して折れない絶対的な強さを持った声で、明るく返してきた。
馬車が王都を出立して、数時間が経過した。
空を覆っていた極彩色の雲が、徐々に、世界から光を奪うような不吉な鉛色へと変わり始めた頃。
前方の地平線に。
まるで、世界そのものを飲み込むために口を開けた、巨大な真っ黒なアギトのような。
果てしなく巨大で、絶望的に深い暗黒の樹海――深淵の森が、その悍ましい全貌を現し始めた。
太陽の光すら、その森の境界線で物理的に食い止められ、中には一筋の光すら差し込んでいない。
大気中の魔力濃度が、王都のそれとは比較にならないほどに跳ね上がり、呼吸をするたびに、肺の中に細かなガラス片を吸い込んでいるような痛みを伴う。
――ズ、ンッ。
その、時だった。
音が鳴ったわけではない。
だが、大地を直接揺らすような。いや、空間そのものを、目に見えない巨大な神の掌で、物理的な質量を伴って上から押し潰すような。
絶対的な重圧が、俺たちの乗る装甲馬車に、丸ごとのしかかってきたのだ。
「ヒィィィィンッ……!! ギャァァァァッッ!!!」
馬車を引いていた、魔物との戦闘訓練すら受けている屈強なアリス軍の軍馬たちが。
狂ったように悲鳴を上げて暴れ、次の瞬間、口から大量の泡と血を噴き出して、自らの重圧に耐えかねたように前足をへし折り、その場に凄惨な音を立てて昏倒した。
バチバチバチィッ!!
王国の誇る魔法障壁が、何一つ防ぐことすらできず、ガラス細工のように一瞬で粉々に砕け散る。
上空を飛んでいたカラスほどの大きさの鳥たちが、まるで空中で石塊に変わったかのように、ボトボトと不気味な音を立てて、地面へと墜落していく。
「なっ……何、これ……!? 息が……身体が、崩れる……ッ!」
ラナが、顔を青ざめさせ、実体化したばかりの自身の身体の輪郭がブレ、光の粒子になって霧散しそうになるのを必死に抱えて震え出した。
「お、お兄ちゃん……! こわいよぉ……っ、からだが、うごかない……息が……!」
シャリンが、大粒の涙を流し、首を絞められたように息を詰まらせて、俺の背中にしがみつく。
「……ッ、――♪」
あの、いかなる絶境でも動じなかったSランク冒険者であるサーシャでさえも。
顔から完全に血の気を失い、額から滝のような冷や汗を流しながら。無意識に防御の唄を必死に口ずさみ、空間の圧壊をギリギリで相殺して、虚空を睨みつけていた。
(……なんだ、この異常なプレッシャーは)
俺は。
ギシギシと悲鳴を上げる己の骨と筋肉を、復讐の狂気だけで強引に動かし。
馬車の分厚い鉄の扉を、内側から力任せに蹴り破って、外へと出た。
「……誰だ。出てこい」
俺は、即座に腰の魔剣ムラマサの柄に右手をかけ。
その重圧の源――濃霧の立ち込める森の入り口へと、純粋な殺意を向けた。
しんと静まり返った、濃霧の隙間から。
足音もなく。
草木を踏む気配すらなく。
まるで、空間そのものから染み出すようにして、一人の男が姿を現した。
長身で、エルフ特有の長く尖った耳。
人間やエルフの美醜の基準などどうでもよくなるほどの、ただそこに存在するだけで世界がひれ伏すような、端麗にして完璧な容姿。
だが。
その身体から無意識に放たれている威圧感は、人間やエルフといった生物という枠組みを、完全に超越していた。
ただ、そこに立っているだけで。
世界が、森が、大地が、そいつを中心に回っていると錯覚させるほどの、圧倒的な自然の脅威そのものの存在感。
「なぜ、この森に踏み入るのだ」
男の、深い、果てしなく深い森のような緑色の瞳が。
俺の肉体だけでなく、魂の奥底、記憶の底の底までを透かすように、冷たく、無機質に光った。
「時渡りよ」
(……時渡り? 転移者のことか)
俺の声が、鉛のように重い朝霧を切り裂く。
この男。俺が別の世界から来た存在であることを、一目見ただけで見抜いた。
俺の脳裏に、昨日の馬車の中でヴェインから聞いた、世界の抑止力の話がフラッシュバックする。
「……あんたが、十王だな?」
俺がムラマサの柄を握り込むと、男はぴくりとも動かず、その底知れない瞳だけで、俺の全身を物理的に縛り付けた。
「我の質問を、質問で返すとはな。
……さようだ。私が、森王と称される者――ユジンだ」
ユジンが、わずかに顎を上げた。
ザワザワザワザワァァァッッ!!!
ただ、それだけの動作で。
周囲の、樹齢数千年を超えるであろう大森林の巨木たちが、まるで上位の捕食者に怯える小動物のように、恐怖に激しくざわめき、大量の葉を落としたのだ。
(……勝てるか?)
俺の、修羅としての生存本能が、警鐘を鳴らす。
今の俺が、神王獣ヤマタノオロチの完全顕現を解放し、本気で死ぬ気でこの男に挑んだとして。
……勝てるか、わからない。
いや、十中八九、俺の肉体が先に限界を迎えて、消し飛ばされる。
それが、肌をチリチリと焼くような、生物としての絶対的な本能の格付けとして、理解できてしまう。
これが。
この狂った世界の頂点の一角。十王という絶対的な王の、圧倒的な強さ。
「……その、偉大なる森王サマが、ただの人間の俺になんの用だ」
俺は、軋む奥歯を強く噛み締め、威圧に抗って一歩も引かずに、ユジンを鋭く睨み返した。
「主ら、不規則な理を持つ者がこの世界に降り立った瞬間から、我々十王は、すべてを監視している」
ユジンの声には、怒りも、敵意もない。
ただ、庭に迷い込んだ虫を見るような、冷酷な管理者としての響きしかなかった。
「何故、この深淵の森に踏み入る。
ここは、世界の理の分銅である神王獣フェンリルの、不可侵の縄張りだ。……引き返せ、時渡り。これ以上は、この世界の理を乱す」
「断る」
俺は、即答した。
「俺はそのフェンリルを、殺すためにここへ来たんだ」
冷たい、凍りつくような沈黙が流れた。
ユジンの、感情の読めない深い緑の瞳に。微かな驚きと、次いで、理解不能な狂人を見るかのような、呆れに近い色が混じる。
「……愚かな。自分が何を言っているのか理解しているのか?」
ユジンの声が、一段と低く、重くなった。
「神王獣とは、貴様ら人間が討伐を思考するような魔物ではない。世界の均衡を保つための重りだ。
結果として、奴らがこの世界を、魔族から守っている抑止力の一つとなっている。
……それが失われることになっても、良いと言うのか? 神王獣が死ねば、世界の均衡は大きく崩れ、結界は破綻し。いずれ、貴様ら人間どもから死に絶えるぞ」
人類の滅亡。
それを盾に取られた忠告。並の人間なら、そのあまりのスケールの大きさと責任の重さに、足がすくんで逃げ出すだろう。
だが。
俺の心臓は、そんな正義感や博愛精神で動いているわけではない。
「ああ、知ったことか」




