第50章:森王ユジンー2
人類の滅亡。
それを盾に取られた忠告。並の人間なら、そのあまりのスケールの大きさと責任の重さに、足がすくんで逃げ出すだろう。
だが。
俺の心臓は、そんな正義感や博愛精神で動いているわけではない。
「ああ、知ったことか」
俺は。
森王ユジンという、世界の頂点に向かって。
心底、どうでもいいとばかりに、歪んだ笑みを向けて吐き捨てた。
「俺は、その魔族どもを、一匹残らず根絶やしにするための力を求めてるんだ。
そのためなら。この世界のバランスなんて、人間がどれだけ死のうが、世界がどうなろうが、知ったことじゃねぇ」
俺の言葉に、微塵の迷いも、揺らぎもなかった。
フェンリルの力を奪い、さらに強くなる。
そのためなら、世界が燃えようが構わない。
俺から、すべてを奪った魔族への復讐。俺の背中を信じて死んでいった、ソーやカリナたちの無念。
それだけが、俺の肉体を動かす唯一の燃料であり、生きる理由なのだから。
「……そうか」
俺の、狂気に振り切れた真っ黒な目を見たユジンは。
完全に興味を失ったように、スッと、俺から視線を外し、背を向けた。
その瞬間。
空気を物理的に押し潰していた、あの悍ましい空間の重圧が。嘘のように、スッと霧散した。
「せいぜい、神狼の牙の前に、無様に死なぬことだな」
ユジンは、振り返ることなく、濃霧の中へと歩みを進める。
「……だが。もし貴様が、神王獣を殺し、魔族以上にこの世界に害をなす者と判断されれば。
その時は。我々十王が総力を挙げて、貴様という存在を、消滅させる。……それを、努々忘れるな」
冷酷な、そして絶対的な警告だけを残し。
ユジンの輪郭が朝霧の中に完全に溶け、その気配は、森の奥深くへと、一片の残滓すら残さずに消え去った。
「はぁっ……! はぁっ……っ!」
ユジンが消えた瞬間。
馬車の中で唄を紡いでいたサーシャが、まるで水底から引き上げられたように激しく息を吸い込み、震える指で額の脂汗を拭った。
「……今の、何だったのよ。あれが、十王?
冗談じゃないわ。……バケモノなんてレベルじゃないわよ、あれは。私が少しでも防御の唄を緩めてたら、私たち、あそこに存在していたという事実ごと消されてたわよ……」
Sランク冒険者である彼女に、そこまで言わせるほどの絶対的な力。
森王ユジン。この世界の頂点の一角。
(……だが、今はあいつらの規格外の力に怯んでいる暇はない)
俺は、無言で魔剣ムラマサの柄から手を離し。
ユジンが消えた、底知れぬ闇が広がる深淵の森の奥へと、冷たい視線を向けた。
復讐の第一歩は、ここからだ。
森王ユジンの理不尽な威圧によって、昏倒し使い物にならなくなった馬たち。
サーシャが彼らに癒やしと防御の唄を施してその場に残し、俺たちは馬車を捨てて、徒歩で深淵の森の内部へと足を踏み入れた。
一歩、境界線を越えた瞬間。
世界から光と音が、物理的に切り変わった。
頭上を、まるで天を塞ぐ巨大な壁のように、捻じ曲がった怪木の枝葉が隙間なく覆い尽くし、太陽の光を拒絶するかのよう。
足元には、数百年にわたって積もり腐敗した落ち葉が、足首まで沈み込む不気味な黒い泥となって広がっていた。
そして何より。
大気中に満ちている、ドロドロとした異常なまでの魔力濃度が、呼吸をするたびに皮膚と肺の粘膜をチリチリと焼き焦がすように刺激し続ける。
「……気持ち悪い森。なんだか、あたしたちが森の胃袋の中で消化されてるみたい」
ラナが、実体化した自身の腕をさすりながら、心底嫌そうに顔をしかめた。
「お、お兄ちゃん……。暗くて、こわいよぉ……」
シャリンが、俺の黒い外套の裾をギュッと強く握りしめ、周囲の闇に怯えるように背中にしがみつく。
「シャリンちゃん、大丈夫よ。ほら、私が手を繋いでてあげる」
サーシャが、俺の反対側でシャリンの小さな手を優しく握り、安心させるように微笑みかけた。
彼女の純白のコートだけが、この狂った闇の中で、唯一の清潔な光を放っているように見えた。
しばらく、重い泥のような静寂の中を進むと。
――ガサッ。
――ガサガサガサガサッ!!
前方の、そして左右の漆黒の闇の中から。
無数の、飢えと狂気に満ちた金色の瞳が、不気味な音を立てて次々と浮かび上がった。
グルルルルルッ……!
ガルゥゥォォォォォッ!!!
濃霧の中から姿を現したのは。
一頭一頭が、森の巨木と同じほどに巨大な、異形の姿をした狼の群れだった。
全身から黒い瘴気を漂わせ、口からは酸のような涎を垂らしている。
神王獣フェンリルの強烈な魔力にあてられ、理性を完全に失って凶暴化した、森の眷属たちだ。
その数は、ざっと見ただけでも数十。いや、闇の奥に潜む気配を合わせれば、百を優に超えている。
「……チッ。どいつもこいつも、面倒な雑兵どもが」
俺は、シャリンをサーシャの背後へと庇うように押しやり、腰のベルトのバックル――ヤマタノオロチの装飾品へと右手をかけた。
「っ、ヤマタノオロチ――」
俺が、武装化のトリガーを引こうとした、その瞬間だった。
「待って、英雄さん」
フワリ、と。
サーシャが、純白のコートの裾を揺らして、俺の前に軽やかに躍り出たのだ。
「ここは私の力、しっかり見ててちょうだい。……こんなところで、あなたに無駄な体力は使わせないわ」
「……サーシャ」
俺が止める間もなく。
サーシャは、無数の巨大狼に囲まれた狂気の森の中心で。
そっと目を閉じ、神に祈るように両手を胸の前で優しく組んだ。
そして。
その透き通った、美しすぎる声を。深い森の奥深くへと、真っ直ぐに響かせた。
『――――♪』
彼女が紡ぐ、血生臭い戦場にはおよそ不釣り合いな、清らかで、慈愛に満ちた子守唄のような旋律。
それが、森の空気を震わせて響き渡った、瞬間。
カッ……!!
俺たちの周囲の空間、半径五メートルほどの範囲に。
幾重もの、精緻で神聖な幾何学模様を描いた光の魔方陣が、突如として空中に浮かび上がり。
目に見えるほどの圧倒的な密度を持った、純白の光の壁が、半球状のドームとなって展開されたのだ。
「ガァァァァァァァッッ!!」
俺たちを餌と認識し、狂暴な咆哮を上げて四方八方から一斉に飛びかかってきた、巨大狼の群れ。
鋼鉄の鎧をも容易く噛み砕く鋭い牙。
濃密な魔力を纏い、空間ごと切り裂こうとする凶悪な爪。
そのすべてが。
ドーム状の光の壁に、触れた瞬間に。
――バチィィィィンッッ!!!
まるで、時速百キロで走る鋼鉄の馬車に、薄いガラスの彫刻が真正面からぶつかったかのように。
派手な閃光と破砕音を立てて、巨大狼たちの物理的な質量も、爪に宿った魔力も、そのすべての破壊のエネルギーが完全に無効化され。
数十頭の狼たちが、いとも容易く、無様に森の奥へと弾き飛ばされていったのだ。
「……すごい」
ラナが、呆然と口を開けて感嘆の声を漏らした。
物理的な巨大質量による攻撃も。生物が放つ高位の魔術攻撃も。
その両方を、傷一つ、揺らぎ一つなく完全に遮断し、弾き返す絶対的な防壁。
これこそが。Sランク冒険者たる、輪廻の唄姫サーシャの真価。
(なるほど。これなら、フェンリルの規格外の攻撃だろうが、数秒は耐えられるかもしれないな)
俺は、内心で冷酷な計算を弾き直し、彼女の盾としての利用価値を再評価した。
だが。
その絶対の安心感が場を支配し、狼たちが怯るように距離を取った、次の瞬間だった。
「ひッ……!!」
サーシャの背後に隠れていたシャリンが。
突如として、ガタガタと激しく歯の根を鳴らして震え出し、翠色の目をこれ以上ないほど見開いて、鼓膜を裂くような絶叫を上げたのだ。
「だめッ!! お兄ちゃん、上!! ダメぇぇぇッ!! みんなが、みんなが上から食べられちゃう!!!」
シャリンの未来視。
その警告が、森の空気を切り裂いた、直後。
――ドォォォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!!!
空間そのものが、上空から巨大な鉄槌で叩き潰されたかのような、爆発的な衝撃。
俺たちの頭上を覆っていた、樹齢数千年の怪木の太い枝が数十本まとめて一瞬で粉砕され。
空から、巨大な何かが、隕石のような速度で降ってきたのだ。
ズズズズズズンッッ!!!
着地と同時に、森の腐葉土と、その下にある固い岩盤の大地が、まるで薄いクッキーのようにクモの巣状に砕け割れた。
「くっ……あぁぁぁぁッ!!」
サーシャが、顔を苦痛に歪め、唇から一筋の血を流しながら、唄のテンポを速めて強引に防壁の魔力を引き上げる。
いかなる攻撃も無傷で弾き返した彼女の絶対防壁が。
上空からのその一撃の圧力だけで、激しい火花を散らし、メリメリ、ピキピキと、ガラスが割れる寸前のような、耳障りで致命的な軋み声を上げたのだ。
巻き上がった黒い土煙。
その向こうから。
俺たちの眼前に、ゆっくりと立ち塞がったのは。
小山と見紛うほどの、圧倒的で、絶望的なまでの巨躯。
深い闇の森の中にあって、自ら青白い月光を放っているかのような、凍てつく白銀の毛並みを持った巨大な狼。
その裂けたように巨大な口からは、常に絶対零度の吹雪が漏れ出し。
周囲の木々や、地面の泥を、触れる端から一瞬でパキパキと凍結させていく。
先ほどまでの眷属の狼たちなど、足元の虫ケラにしか見えない。
これまでの有象無象の魔物とは完全に一線を画す、歩く自然災害。圧倒的な圧と魔力の塊。
神王獣フェンリル。
「ギ……ガァァァァァァァァァァァッッッ!!!!」
神狼が、俺たちを見下ろし。
世界を威圧するような、ただの咆哮を一つ、天に向けて放った。
ドバババババァァァッ!!
たったそれだけで。
咆哮の音波が物理的な暴風と化し、森の空気が爆ぜ、俺たちの周囲数百メートルにあった巨木がすべて、根元からへし折られて吹き飛んでいく。
すさまじい、絶望的なプレッシャー。
もしサーシャの防壁がなければ、俺たちは今の咆哮の衝撃波だけで、肉片すら残らず森の木々の染みになっていただろう。
だが。
俺の心臓は、この圧倒的なバケモノを前にしても、恐怖で竦むことはなかった。
いや、恐怖すらも、復讐の炎で焼き尽くされ、すでに氷のように冷え切っていた。
(……これだ)
俺は、無意識に、醜い狂気の笑みを浮かべていた。
(このレベルの、規格外の理不尽なバケモノの力でなければ。
あのロロンたち、最上位貴族には、届かない)
「サーシャ!! そのまま唄を絶やすな! お前の命に代えても、シャリンの防御を最優先で維持しろ!!」
俺は、血の滲むような声で叫びながら、一歩前に出た。
「ラナ、行くぞッ!! こいつは、俺たち二人で殺す!!」
『了解、相棒!! なんだか相手がデカすぎて笑えてきたよ! 久しぶりに、思いっきり暴れるぞー!!』
ラナが、光の粒子を体に纏い、光剣を出現させる。
俺は、左手で腰のベルトのバックルを激しく展開し。
脳髄の奥の殺意のストッパーを、一気に臨界点の限界突破まで引き上げた。
「――武装化、ヤマタノオロチ……!!!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォッッッ!!!
この深淵の森の、異常なほど濃密な環境魔力を、俺の憎悪がブラックホールのように貪欲に喰らい尽くす。
瞬間。
俺の全身を、地獄の釜の底から湧き出したような、禍々しく狂暴な深緑の瘴気が包み込み。
隙間なく、重厚かつ凶悪な全身装甲へと編み上げられていく。
バキバキバキィィンッ!
ヤマタノオロチの魂を、環境バフによって完全に人間の肉体に定着させた、対神殺しの極大の鎧。
さらに。
深緑の装甲を纏った俺の姿が、空間を掻きむしるようにブレ、バグを起こしたかのように増殖し。
瞬時に、八つの完全な質量――八人の俺へと分身した。
「覚悟しろ、フェンリル」
八人の俺が、兜の奥の赤い瞳を妖しく発光させ。
同時に、神狼に向けて、地獄の底から響くような声で宣告した。
「お前の肉も、骨も、その理不尽な力も。……俺の復讐のために、俺がすべて喰らい尽くしてやる」
装甲を纏った八人の俺が、同時に。
黒いオーラを放ち、周囲の光すら飲み込む魔剣ムラマサを、頭上高く抜き放つ。
異世界に君臨する、伝説の神狼。
対するは、全てを失い、自らも理不尽なバケモノへと堕ちた、最悪の復讐者。
常闇の深淵の森を根底から揺るがし、世界の理を真っ二つにへし折る。
理不尽と理不尽が激突する、血みどろの殺し合いが。
今、圧倒的な咆哮と共に、幕を上げた。




