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第51章:神王獣フェンリルー1

 深緑の全身装甲ヤマタノオロチを纏った八人の俺が。


 大地を、隕石が衝突したかのようにクレーター状に粉砕して踏み込み、森の中央に鎮座する白銀の神狼へと肉薄する。


 上、下、前後、左右、そして斜めの死角。


 八方向からの、コンマ一秒のズレも許さない、回避不能の完全包囲陣形。


 それぞれが手にしている魔剣ムラマサの漆黒の刃が、絶死の軌道を描き。


 神王獣フェンリルの小山のような胴体、大木のごとき首、そして大地を踏みしめる四肢を、完全に、そして同時に捉えた。


 ――はずだった。


「……ッ、消えた?」


 魔剣ムラマサの刀身から、俺の両腕に伝わってきたのは。


 神王獣の硬い肉を断ち、骨を砕き、命を刈り取る感触ではなく。ただ、冷たい虚無の空気を通り抜けたという、滑稽なほどの空振りの感覚だった。


 小山ほどの巨体。何百トンあるかも知れない莫大な質量。


 それらからは、およそ物理的に考えられない神速の俊敏さ。


 だが、いくら速かろうと。この、空間の逃げ場を完全に塞いだ八つの絶死の刃から、一瞬にして気配ごと消え失せるなど、絶対にあり得ない。


「おにいちゃん、影!! 上じゃない、下から来るッ!!」


 背後で。


 サーシャが展開する絶対の光の防壁に守られながら、シャリンが、喉が裂けんばかりの悲鳴のような警告を発した。


 未来視。


 この小さなエルフの少女の呪われた瞳には。


 数秒先、俺たちが一瞬にして蹂躙され、肉片へと変わる死の光景が、確かな事実として冷酷に、はっきりと視えていたのだ。


 直後。


 俺の足元、鬱蒼とした深淵の木々が落としていた、インクのように濃い影が。


 突然、意思を持った底なしの泥沼のように、どろりと、悍ましく波打った。


 ゾワッ。


 背筋を駆け上がる、生存本能からの最大級の警鐘。


 影の中から。音もなく、魔力の予兆すら一切なく。


 フェンリルの白銀の巨体が、まるで暗黒の海面から飛び出す巨大鮫のように、真下から跳ね上がってきたのだ。


 物理法則、質量の保存則。


 そんな人間の作ったつまらない常識を完全に無視した、影への潜行と、空間の転移能力。


「チィッ!!」


 八人の俺のうち、直感と反射神経だけで反応できた三人が、瞬時に魔剣ムラマサを盾の構えへと移行し、迎撃の姿勢をとる。


 だが。


 フェンリルは、空中でそのしなやかな巨体を捻り。


 白銀の前足を、俺たちのちっぽけな抵抗を嘲笑うかのように、ただ無造作に薙ぎ払った。


 ――ドゴォォォォォォォォォンッッ!!!


 圧倒的な、そして、あまりにも理不尽な膂力。


 俺の全身を覆う、神王獣オロチの深緑の装甲。あの魔族の軍勢の猛攻を無傷で弾き返した、絶対の防御力。


 それが。


 俺の分身三体が、まるで暴風に巻き込まれた紙屑のように呆気なく吹き飛ばされ。


 数百メートル後方の巨木を何十本もへし折りながら、空中でメシャァッ!と無残に砕け散り、そのまま霧散して消滅したのだ。


「がッ……!?」


 分身が破壊された強烈なフィードバックが、本体である俺の脳髄を金槌で殴りつける。


 肺から空気が強制的に絞り出され、血の味が口内に広がった。


 ただの、軽い一撃。


 なんの魔力も乗せていない、ただの獣の手回し。


 たったそれだけで、ヤマタノオロチの絶対装甲が砕け散るほどの、圧倒的暴力。


 これが、森王ユジンが言っていた、世界の均衡を保つ抑止力、神王獣の力。


「英雄さんに手出しはさせないわ!!」


 サーシャの透き通るような唄のトーンが一段上がり、彼女の展開する絶対防壁の表面に、無数の神聖な幾何学模様が浮かび上がる。


 フェンリルが着地した瞬間、周囲の木々の影がまるで巨大な黒い触手のように無数に伸び、サーシャの防壁へと襲いかかっていたのだ。


 バチバチバチィィッ!!


 影の触手と光の防壁が激突し、森の空間が悲鳴を上げる。


 フェンリルは、ただ物理的な力だけではない。この森の影そのものを、自分の手足のように操る規格外の魔法生物でもあった。


「相棒ッ!! あたしに任せて!!」


 フェンリルがサーシャの防壁へ意識を向けた、そのほんの一瞬の隙。


 俺の死角、上空から。


 一本の鋭い、隕石のような銀色の閃光が、フェンリルの眉間へと真っ直ぐに突撃した。


 ラナだった。


 彼女の小柄な背中から、神々しい光の翼――聖剣ラナの能力を引き継いだ神王獣化のオーラが、推進力として激しく吹き出している。


 この深淵の森の、致死量とも言える環境魔力を極限まで吸い込んだ彼女の突進速度は、神速を誇るフェンリルにすら肉薄していた。


「ハァァァァッ!! ワンちゃんんんッ!!」


 ラナの放つ神速の剣閃が、フェンリルの硬質な白銀の毛皮を、浅く、だが確実に切り裂き。


 チッ、と、赤い血飛沫を空中に舞わせた。


 だが。


 フェンリルは、その傷から生じる痛痒すら、全く感じていないように。


 ただ、鬱陶しい羽虫を見下ろすような、一切の感情のない金色の瞳を細めると。


 ラナへの反撃すら行わず、再び、自身の足元の影の中へと、スルリと水に溶けるように沈み込んだ。


 ――静寂。


 狂騒が嘘のように消え去り、森全体が、底知れない恐怖の底に沈む。


 消えた。


 どこだ。次は、どこから来る。


 俺は、オレを合わせ残り五体となった分身を背中合わせに配置し、全方位の影へ殺意を張り巡らせる。


「……ッ! だめ、サーシャおねえちゃん!!」


 その静寂を。


 シャリンの、完全にパニックに陥り、狂乱したような絶叫が引き裂いた。


 彼女は、頭を抱えてその場にしゃがみ込み、空を見上げてボロボロと大粒の涙を流している。


「なにも視えない! 空が、空が全部……食べられちゃう!!!」


 空が、食べられる?


 その、常軌を逸した言葉の意味を、俺の脳が理解するより早く。


 俺が、反射的に上空を見上げた瞬間。


 世界が。俺たちの視界のすべてが、完全に暗転した。


 太陽の光を完全に遮るように、上空を覆っていた鉛色の雲の影から、フェンリルの白銀の巨体が出現した――のではない。


 空から落ちてきたのは、フェンリルの巨体そのものではなく、フェンリルの顎だった。


 先ほどまで、小山程度だったはずの白銀の狼の口が。


 顎の関節を外し、空間そのものを歪め、物理法則や質量の概念を完全に無視し。


 この空の大きさすらも測れないほどに巨大な、無限の大顎へと変貌していたのだ。


 物理的な噛みつきではない。


 それは、指定した空間の座標ごと、すべてを虚無へ削り取るという、神王獣フェンリルの最大にして最悪の絶死魔法。


 俺も、ラナも。そして、少し離れた場所にいるサーシャの絶対防壁ごと。


 この深淵の森の一部を、地形ごと丸ごと飲み込み、消滅させるための、絶望的で無慈悲な大顎。


(……嘘、だろ……)


 回避など不可能。


 防壁ごと空間を飲み込まれるのだから、防ぐことすら不可能。


 俺がどれだけ足掻こうとも、どうやってもひっくり返せないチェックメイト。


 空全体を覆う無慈悲な大顎が、巨大な星のギロチンのように、バキバキと空間を割る不快な音を立てて完全に閉じた。


 俺の意識が。


 守ると誓った仲間たちの命が。


 圧倒的な牙の質量と、空間を削り取る圧力によって、文字通り完全に粉砕され、永遠の暗闇へと消える――。


 その、完全なる絶望の直前。


(――戻れェェェェェッ!!!!)


 俺は、魔剣ムラマサの柄を、自分の手のひらの骨が砕けるほどの力で握り潰し。


 心臓の鼓動を限界まで跳ね上げ、魂を燃やして、魔剣ムラマサの能力を起動した。


 視界が、激しいノイズを走らせてブレる。


 世界が、強引に、そしてひどく暴力的に反転する。


 ギギギギギギギィィッ!!!


 俺の脳髄を直接ヤスリで削り取られるような、悍ましい因果の逆流音。


 俺たちを飲み込んだはずの、フェンリルの空間ごと削り取る無限の大顎が。


 逆再生の映像のように空へと戻り、パカッと不気味に開いたまま、上空の雲の影の中へとシュルシュルと吸い込まれて消えていく。


 巻き戻った、五秒前。


 俺の異能、魔剣ムラマサの能力五秒間の時間遡行。


 フェンリルが足元の影に潜み、森全体に、嵐の前の死のような静寂が支配する中。


 背後で、シャリンが。


「……ッ! だめ、サーシャおねえちゃ――」


 と、絶望の未来を視て、パニックに陥り絶叫し始めた、まさにその瞬間。


「シャリン!!」


 俺は、彼女の警告を強引に遮るように、空気を割る大音声で叫んだ。


「オレたちに任せておけ。……未来は、今ここで変えるッ!!」


 そして。


 事態をまだ全く理解していない仲間たちへ。俺はコンマ一秒の遅れもなく、最短かつ、一歩間違えれば全員が即死する指示を飛ばした。


「サーシャ!! 前方の防御は完全に捨てろ!!


 出来るだけデカく、分厚い防壁を、お前たちの頭上にだけ展開しろ! 全魔力をそこに注ぎ込め!!」


「えっ……!?」


 サーシャは、俺の唐突で、常軌を逸した指示に一瞬だけ驚愕の目を向けた。


 何しろ、神王獣フェンリルは今、足元の影の中に潜んでいるのだ。上空には何もない。下から来るのが常識だ。


 だが。


「……分かったわ!!」


 彼女は、Sランク冒険者としての異常な胆力と、俺の目を信じ切る決断力で。


 迷うことなく、即座に唄のトーンを限界まで引き上げた。


 彼女の不落の聖域たる絶対の光の壁が。周囲を覆っていた半球状の形を解き、俺たちの上空を平たい巨大な盾のように覆い尽くす形へと、瞬時に再構成される。


「ラナ! 上空の雲の影へ向けて、力をためて剣を構えろ!!」


「上……っ、了解、相棒ッ!!」


 ラナもまた、一切の疑問を差し挟むことなく。


 神王獣化の光の翼を背中に限界まで広げ、そこにすべての魔力を集束させながら、何もない上段へと剣を構えた。


 そして、俺は。


 残り五体となったオレの魔力を、一点へと意識を集中し。


 漆黒のオーラを限界まで放つ魔剣ムラマサを構え、大地を砕くほど強く踏みしめて、その時を待った。

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