第49章:神王獣への手がかりー2
ラナとシャリンが、山のように積まれた豪勢な宮廷料理に囲まれ、さながら天国にでもいるかのような顔をしていた。
「お、おにいちゃん……! 見て見て!」
シャリンが、自身の顔の半分ほどもある大きなイチゴのケーキを両手で大事そうに持ち、俺の方を振り返った。
彼女の小さな鼻の頭には、真っ白な生クリームがちょこんとくっついている。
「この、白いのが乗ったふわふわ! すっごくあまいよ! おくちの中に入れた瞬間に、かまなくても、ふわぁって溶けてなくなっちゃうの! 魔法みたい!」
シャリンは、目をこれ以上ないほどキラキラと輝かせ、満面の笑みを浮かべている。
その無邪気な姿は。
ただの、美味しいお菓子に喜ぶ、どこにでもいる普通の可愛い女の子だった。
「こらー! シャリン、ちょっと目を離した隙に、あたしの分のイチゴ、どさくさに紛れて取らないでよー!」
ラナが、口の周りをソースだらけにしながら、わざと大げさに怒るふりをして、シャリンのほっぺたを両手でムニムニと引っ張る。
「あわわ……っ、えへへ、ラナおねえちゃんが、お肉に夢中になって余所見してるから、たべちゃった!」
シャリンは、イタズラが成功したとばかりにキャッキャと声を上げて、楽しそうにラナの手から逃げ回る。
宿で用意してもらった、可愛らしいドレスアップをした二人の、平和で幸せそうなやり取り。
それを、静かに見つめていると。
復讐の狂気と、貴族どもへの殺意でささくれ立っていた俺の神経が、ほんの少しだけ、凪いでいくのを感じた。
「――おや。本日主役の英雄様は、ずいぶんと退屈そうで、まるでアンデッドのようなお顔をしていますね」
その時。
俺の背後から。
鈴を転がすような、どこまでも透き通った。だが、確かな芯のある美しい声がかかった。
声の主の気配に、俺の細胞が一瞬で警戒レベルを最大に引き上げる。
俺は、無言で、油断なく振り返った。
そして。
一瞬だけ、言葉を失った。
シャンデリアの眩い光を反射して、艶やかに、サラサラと揺れる漆黒のストレートロングの髪。
雪のように白い、透き通るような肌。
そして、夜空をそのまま閉じ込めたような、深く、静かな黒の瞳。
周囲で媚を売っている貴族令嬢たちのような、これ見よがしで下品な宝石の飾り気は、一切ない。
極めてシンプルな、身体のラインを美しく見せる紺色の夜会服を、ただ一枚纏っているだけなのに。
その、洗練された美しさと、空間そのものを支配するような圧倒的な存在感は、広間中のどの女よりも、どの権力者よりも、強烈に際立っていた。
年齢は二十ニ、三といったところか。
そして何より、その顔には、強い見覚えがあった。
「あんた……。昨日の夜、広場の中央で歌っていた……」
「ええ」
彼女は、俺の警戒を剥き出しにした視線を正面から受け止めながら、ふわりと、聖母のように微笑んだ。
「人からは輪廻の唄姫なんて、大層で面痒い二つ名で呼ばれていますけれど。……サーシャと言います」
サーシャ。
彼女は、悪戯っぽくクスリと笑い、愛嬌たっぷりに小首を傾げてみせた。
「……よろしくね、英雄さん」
間近で聞く彼女の地声は。
昨夜の広場を完全に支配したあの歌声と同じく。耳から直接、心臓の奥底を優しく、そして強引に撫でられるような。
修羅である俺にとっては、悍ましいほどの、心地良さと言う名の毒を孕んでいた。
タタタッ!
その時、軽い、まるで小鳥のような足音が大理石の床を弾き。
俺の黒い外套の足元に、シャリンが駆け寄ってきて、ギュッと抱きついてきた。
「おにいちゃーん! あのね、ケーキがね!」
シャリンは、俺を見上げて嬉しそうに報告しようとし。
そして、俺の目の前に立っているサーシャの顔を見上げると。
「あ……!」
鼻の頭に真っ白な生クリームをくっつけたまま、ポカンと口を開けて完全に硬直した。
「きのうの……すごく綺麗にうたってた、おねえさん……!」
「ふふっ。あら、なんとも可愛らしい英雄様パーティね」
サーシャは、シャリンをエルフと認識しても、微塵も顔をしかめることはなかった。
それどころか、周囲の貴族たちが汚らわしいエルフに近づくなんてとヒソヒソと顔をしかめる中。
彼女はふわりと紺色のドレスの裾を揺らし、一切の躊躇いなく、冷たい床に片膝をついて、シャリンと同じ目線にまで自らしゃがみ込んだのだ。
そして。
懐から取り出した、雪のように真っ白な最高級シルクのハンカチで。
シャリンの鼻の頭についたクリームを、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように、優しく、丁寧に拭き取った。
「昨日は、広場の一番前で。大きなお肉を一生懸命お口に詰め込みながら、すごくたくさん泣いてくれていたわね」
サーシャは、シャリンの翠色の瞳を真っ直ぐに見つめ、聖母のように微笑んだ。
「ステージから見ていて、なんだか、私まで愛おしくて、ステージを降りて抱きしめたくなっちゃったわ。……ケーキ、美味しい?」
「う、うん……!」
シャリンが、ぽっ、と両頬を熟れた林檎のように真っ赤に染めて照れる。
「おねえさん、すごくきれいで……お花みたいな、すごくいいにおいがする……」
「ありがとう。あなたも、お星さまみたいに綺麗な目をしているわ」
その、無垢で、あまりにも平和すぎるやり取りを前に。
俺の全身を硬く覆っていた、絶対に他者を信じないという頑固な警戒心すらも、毒気を抜かれて霧散しそうになる。
……この女、底抜けに優しい。
他者への、いや、世界そのものへの慈愛に満ち溢れている。
それが演技ではないことは、直感で理解していた。
だが。
だからこそ、だ。
俺の、死線と絶望を幾度も越えてきた敗残者としての直感は、彼女がただの優しい歌姫だけで終わる存在であることを、強烈に拒絶していた。
「……サーシャ」
俺は、彼女の頭上から、冷たく、だが鋭利な刃物のような声を落とした。
「あんた、ただのお抱えの歌手じゃないだろ」
俺の、すべてを見透かそうとする、刺すような視線。
それに射抜かれながらも、サーシャはゆっくりと立ち上がり、長い睫毛を揺らして、ふふっと楽しげに笑った。
その立ち振る舞いには、微塵の隙も、怯えもない。
「ええ、その通りよ」
彼女は、まるで「今日の天気」でも語るかのように、あっさりと肯定した。
「一応、これでもアリス王国の冒険者ギルドに籍を置く、現役のSランク冒険者なの。……ふふっ、驚いた?」
(広場のオッサンはホラ吹き野郎じゃなかったってことか)
俺は、目を細めた。
冒険者の最高峰、Sランク。それは、一騎当千のバケモノか、国を一つ落とせるほどの魔術師にしか与えられない称号だ。
だが、彼女の身体からは、戦士特有の闘力も、魔術師の膨大な魔力も、一切感じ取れない。
「その身体で、にわかには信じがたいがな。……どんなカラクリだ」
「私は、少し特殊なの。剣も振れないし、攻撃魔法も一つも使えない。私が使えるのは、唄の固有魔法だけ」
サーシャは、自身の細い指先を見つめながら、静かに告げた。
「私の唄はね。物理的な破壊も、神代級の超高密度の攻撃魔力も、世界のどんな理不尽な暴力も。
……すべてを等しく無効化する、この大陸における最高峰の防御魔法よ」
最高峰の、防御魔法。
世界のどんな力も、無効化する盾。
その言葉が、俺の鼓膜に飛び込んできた瞬間。
俺の脳内で、バラバラに散らばっていた復讐のパズルのピースが。
凄まじい速度で、カチッ、カチカチカチッ! と音を立てて、完璧に噛み合わさっていくのを感じた。
神王獣。
歩く天災。触れれば死ぬ、絶対的な自然の暴力。
俺の神王獣ヤマタノオロチの火力と、ラナの聖剣の力があれば、殺せるだけのダメージは通る。
だが、問題は相手の攻撃を、どうやって防ぐかだった。
それを、今、目の前のこの女が――最高峰の盾が、完全に埋めてくれたのだ。
「……なら、ちょうどいい」
俺は。
遠巻きからこちらを窺い、サーシャに近づこうと機を狙っていたハイエナのような貴族たちを。
ただの一瞥、本物の殺意を込めた睨みだけで、数歩後退させて完全に牽制し、空間を封鎖した。
「単刀直入に、仕事の話がしたい」
俺は、サーシャの深い黒の瞳を、真っ直ぐに、心臓を鷲掴みにするように見据えた。
「俺はこれから、王都の北西にある深淵の森へ行く。
そこに君臨する神王獣フェンリルを。……殺しに行く」
サーシャの瞳が、一瞬だけ、微かに見開かれた。
「道中、そして戦闘中。俺の背後を完璧にサポートし、守り切れる、死を恐れない腕利きの冒険者を探していたんだ。
……あんた。俺と来ないか?」
狂っている、正気の沙汰ではない、いっそ滑稽ですらある提案。
神王獣とは、この大陸において、地震や台風と同じ天災と同義だ。
人間が立ち向かう討伐の対象などでは決してない。触れてはならない、近づくことさえ許されない、禁域。
普通の冒険者なら、「頭がおかしくなったのか」と笑い飛ばすか。
あるいは、俺の底知れぬ狂気に顔を引き攣らせて、すぐに警備兵を呼んで逃げ出す場面だ。
だが。
このSランク冒険者の唄姫、サーシャは。
長い、美しい睫毛を、二度、三度とパチパチと瞬かせた後――。
「くすっ……」
と、可憐に吹き出し。
やがて、その細い肩を激しく震わせて、周囲の貴族たちが目を丸くするほどに。
心底、心の底から楽しそうに、鈴を転がすような声で笑い始めたのだ。
「神王獣を、殺す……? ふふっ……あははっ! あはははははっ!!」
彼女の笑い声は、狂気と絶望に満ちた俺の心を、なぜか心地よく波立たせた。
「あなた、本当に面白くて……最高に、最高に狂っているのね!」
「……本気だぞ、俺は。大の男が、冗談でこんな退屈な晩餐会へ来るわけがない」
俺が、少しだけ眉をひそめてドスを効かせると。
「ええ、分かっているわ」
サーシャは、笑い涙を指先で拭いながら、俺の目を、極めて真剣な、深い夜空の瞳で覗き込んできた。
「あなたのその目。……冗談や嘘を言うような、そんな安っぽい目じゃないもの。
真っ暗で、冷たくて、今にも世界のすべてを斬り裂いてしまいそうな……」
彼女は、ふと、哀しげに目を伏せた。
「でも、今にも大声で泣き出しそうな……すごく、すごく悲しい目」
「――――ッ」
俺は、息を呑んだ。
サーシャの透き通るような声が。俺が頑なに、何重もの鋼鉄の鎖で蓋をしていた、心の奥底の暗闇を。
いとも容易く、見透かすように真っ直ぐに響いたからだ。
彼女は、俺のその動揺から視線をそらさず。
どこか挑戦的な、底知れぬ強者としての笑顔を向けた。
「いいわよ。……私、あなたについて行くわ」
「……いいんだな? 相手は神王獣だ。一歩間違えれば、骨すら残らず消し飛ぶ。お前も、死ぬかもしれないぞ」
俺が、最後の確認として、冷酷な脅しをかけると。
「自分で聞いといてなによそれ。 死なないし、絶対に死なせないわよ」
サーシャは、自身の白い人差し指を、艶やかな唇の前にピンと立てて。
俺に向かって、最高にチャーミングなウインクをしてみせた。
「言ったでしょう? 私の唄は、この世界のどんな攻撃だろうと。神様の力だろうと、絶対に破らせないもの」
そして、彼女は、まるでピクニックにでも行くかのような、無邪気な声で付け加えた。
「それに。あの偉そうな神王獣に喧嘩を売るなんて……最高に、楽しそうじゃない?」
(……はっ。なんだ。この女も俺と同じで、根っこは相当イカれてやがる)
絶世の唄姫にして、大陸最高峰の絶対の盾。
圧倒的な優しさと、聖母のような愛嬌の裏に。生と死の境界線を鼻で笑うような、冒険者としての狂気的な胆力と実力を隠し持つ女、サーシャ。
この混沌と狂乱の異世界において。
初めて、俺の隣に並び立つに足る、まともな、そして最強の戦力を手に入れた瞬間だった。
魔族をすべて、一匹残らず屠り、世界を地獄に変えるための。
第一の神王獣討伐の、イカれたパーティーの結成。
「……間違いない、これが第一歩になる」
俺の唇の端が。
この世界に来てから初めて。
心底からの獰猛な愉悦に歪み、醜く、そして鋭く吊り上がった。




