第49章:神王獣への手がかりー1
翌朝。
ほんの少しだけ毒々しさを残した、極彩色の朝日が王都の空を染め始める頃。
VIP専用の宿屋の前に待機していたアリス王国軍の兵士たちは、昨夜までの怯えを必死に隠し、顔の筋肉を硬直させた妙に恭しい態度で俺たちを迎え、迎えの馬車へと案内した。
「――城内は、王族の私室や最重要防衛区画などの特別区画を除いて、ご自由に見学していただいて構いません。わが国の村を救っていただいた大英雄殿の便宜を、最優先で図るよう、国王陛下より直々に仰せつかっておりますので」
馬車を降り、巨大な石造りの正門の前でそう言って、深々と、まるで神像に祈るかのように頭を下げる兵士長。
俺は、その頭頂部を冷めた目で見下ろしながら、周囲の城壁や城内の構造を、ただの観光客としてではなく、明確に品定めするような目で見渡した。
(……悪くない)
俺が前の世界、イーリス大陸で拠点としていた、あのウルシア王国の王城と比べると。
このアリス王国の居城は、豪華絢爛さや、芸術的な彫刻などの装飾という点においては、著しく見劣りする。
だが、それは決して欠点ではない。
俺の目は、この城の真の価値を正確に読み取っていた。
異常なほどに分厚く、さらに幾重にも魔法の耐性コーティングが施された、質実剛健で無駄のない石造りの防壁。
死角を徹底的になくすように配置された監視塔と、魔力砲台の砲門の角度。
それは、このアリス王国という国が。いや、この世界そのものが、常に他国や他種族、そして魔族との終わりのない実戦の戦争状態にあることを、雄弁に、そしてひどく血生臭く物語っていた。
虚飾よりも、防御。
芸術よりも、効率。
ただ生き残ることだけに特化して造られた、殺風景だが極めて実用的な要塞。それが、この白亜の王城の正体だ。
「おい、兵士長」
俺は、案内しようと前を歩き始めた男の背中に、冷たく声を投げた。
「見学なんていう、呑気な観光気分の真似事は後でいい。……そんな無駄な時間はない」
「え……?」
兵士長が、戸惑ったように振り返る。
「俺は、この大陸の神王獣と魔族に関する、すべての情報が欲しい。……今すぐ、俺を城の大書庫へ案内してくれ」
俺の、一切の愛想を削ぎ落とし、ただ目的のためだけに発せられた要求。
その氷のように冷たい声音と、全身の毛穴から微かに漏れ出た威圧感に。
兵士長は、一瞬だけ背筋に氷柱を突き立てられたようにビクッと肩を揺らし、顔から完全に血の気を引かせた。
「……は、はっ! か、畏まりました……ッ! こちらへどうぞ……!」
彼はすぐに顔を引き締め、言葉を飲み込んで深く頷くと、逃げるように踵を返して早足で歩き始めた。
王城の地下深くに位置する、巨大な大書庫。
そこは、埃と古い羊皮紙、そして独特のインクとカビの匂いが立ち込める、冷たくて、不気味なほどに静かな空間だった。
天上は遥か高く、どこまでも続く巨大な本棚が、まるで迷路のように入り組んで並んでいる。
アリス王国の歴史、魔術の理論、大陸の地理、そして無数の戦争の記録。人間の持つ知識のすべてが、ここに死蔵されている。
「ラナ。俺は役に立ちそうな本を片っ端から漁る。……シャリンの面倒を見ててくれ。目を離すなよ」
俺は、背中に背負っていたシャリンをゆっくりと床に降ろすと、ラナに向けて短く指示を飛ばした。
「りょーかい、相棒! ここはあたしに任せて!」
ラナは、ドンと頼もしく自分の薄い胸を叩くと、きょろきょろと周囲を見回しているシャリンの手を引いた。
「ほらシャリン、こっちに面白そうな絵本があるよ! アリス王国の英雄譚だって! 相棒が小難しい顔で本読んでる間、あたしたちはこれ読もっか!」
「わぁっ……! ほんとだ! えーっとね、これ……えいゆー、けんを、ふ……ふりしたし……?」
小さなエルフの少女は。
実体化したラナの膝の上にちょこんと座り、自分の顔よりも大きな分厚い絵本を膝に乗せ。
たどたどしい言葉で、一生懸命に文字を指差しながら読もうとしている。
「あはは! 惜しい! 『ふりしたし』じゃなくて『ふりおろし』だよ! でもすごい、シャリン、一人で字が読めるんだね!」
「えへへ……むらのおじいちゃんが、すこしだけ、おしえてくれたの!」
ラナが、銀色の髪を揺らして明るく笑いながら、シャリンの頭を優しく撫でる。
その無邪気な声が、冷たく静まり返った大書庫に、暖かな波紋のように広がっていく。
……平和な光景だ。
つい昨日の、あの荒野での、魔族の肉が引き裂かれ、血と内臓の匂いに満ちた地獄。それとの落差があまりにも激しすぎて、脳がバグを起こしそうになる。
二人の、屈託のない笑い声を聞いていると。
張り詰めて、限界まで研ぎ澄まされていた俺の神経が、不思議なほどに落ち着き、溶けていくのを感じた。昨夜の、サーシャの歌を聴いた時と同じように。
(……だが、浸っている暇はない)
俺は、無意識に緩みかけた自分の頬を、力任せにバチンと叩いた。
その温もりに浸って、立ち止まるわけにはいかないのだ。
俺の胸の奥深くには、仲間たちを理不尽に惨殺された真っ黒な絶望と。
魔族どもに対する、ドス黒い殺意のマグマが。今この瞬間も、休むことなくコポコポと、俺の魂を焦がしながら煮えたぎっているのだから。
俺は、兵士長に案内された危険生物指定区画という、物々しい鎖で封鎖された棚の前に立ち。
そこにある重厚な文献や、禁書の類を、物理的に片っ端から引きずり出し、大きな長机の上に山のように積み上げた。
パラパラパラパラッ……!!
凄まじい速度でページを捲り、視線を走らせ、情報の海へと深く潜っていく。
俺が探しているのは、たった一つだ。
魔族を。あの理不尽の化身たるロロンやギンたちのような、世界の法則すら捻じ曲げる最上位貴族を。
小細工や奇策ではなく、完全に、真っ向から物理的暴力の質量だけで叩き潰すための。
絶対的な力の所在。
(……あった)
数時間後。
文字通り、数百冊に及ぶ文献の山から目を通し、頭の中の情報を整理した結果。
俺は、この大陸に点在し、世界の抑止力として君臨する神王獣に関する、極秘の調査記録を抽出することに成功した。
現在、この大陸で人類がその存在を明確に確認し、他種族も含めて国を挙げて監視している神王獣クラスのモンスターは、全部で九体。
俺がいたイーリス大陸では、数千年の歴史の闇に消え、巨大な死骸や、風化した骨の残骸としてしか記録に残っていなかったような、神話のバケモノたちが。
この時代には、確かな血肉を持った生ける天災として、各地の魔境に君臨しているのだ。
その九体の中で。
生態、能力、過去の被害規模、そして何より殺意の質を読み解き。
俺が俺自身の異能、武装化のターゲットとして、確信を持って目をつけたのは、以下の四体だ。
――神王獣フェンリル。
王都の北西、何者をも逃さない深淵の森を支配する、すべてを喰らい尽くす暴食の神狼。過去の記録では、ただ咆哮を上げただけで、前線の砦が三つ、衝撃波で消し飛んだとある。
――神王獣テュポーン。
天を突く天の川山脈に鎮座する、百の羽と尾を持つとされる、嵐と雷の巨神。その羽ばたきは、一国をまるごと飲み込む規模の竜巻を引き起こす。
――神王獣スルト。
南の大陸を分断する地獄の釜と呼ばれる火山地帯を悠然と歩く、燃え盛る炎の剣を振るう灼熱の巨人。奴が通った跡は、数百年草木が生えないマグマの海と化す。
――神王獣ヨルムンガンド。
東のある島に身を潜める、猛毒を放つ超巨大な蛇。その毒は、触れただけで生物を即座に死に至らしめる。
本に記された断片的な伝承と。
過去に奴らが一瞬だけ動いた際に生じた、地図の地形を丸ごと書き換えたという天災の記録。
そこから推測するに。
この四体から得られる武装化の能力は、俺が前の世界で得た他のモンスターたちとは、根本的に次元が違う。
比較にならないほどに凶悪だ。
今の俺には、あの時、この世界の異常な魔力濃度に当てられて奇跡的に成功した、神王獣ヤマタノオロチの完全顕現という強力な切り札がある。
あれを出せば、並の魔族など数千体いようがゴミのように蹂躙できるだろう。
だが。それだけでは、最上位貴族には、絶対に届かない。
それは、仲間がゴミのように削り取られ、塵にされたあの絶望の中で。
魂に焼き付けられるほど、散々思い知らされた。
(だが……もし)
俺は、古い羊皮紙を握りしめ、顔を伏せた。
(もし、この四体の神王獣を。俺の手で完全に殺して。その圧倒的な能力を奪い、ヤマタノオロチと並行して同時武装化できれば……!)
ギリッ……!!!
俺の奥歯が、砕けそうなほど強く鳴った。
あまりの底なしの殺意と狂気に、俺の口角が、人間のものとは思えないほど醜く吊り上がった気さえした。
勝てる。
いや、最上位貴族だけじゃない。その背後にいる魔王も、魔界の扉を開いたというすべての元凶、最悪の魔術師ボーゲンも。
この世界に湧き出したすべての魔族を、一匹残らず根絶やしにできる。
あの時、俺を絶望のドン底に突き落とした、圧倒的な理不尽を。
俺自身が、奴らを遥かに超えるさらに理不尽で凶悪なバケモノになることで、上から物理的に、完膚なきまでに叩き潰すのだ。
「……まずは、一つ目だ」
俺の、血の気のない冷たい指先が。
長机の上に大きく広げた、古い羊皮紙の大陸地図のある一点を、トントンと静かに叩いた。
アリス王都から、北西に位置する未開の地。
日光すら木々の葉に遮られ、常に夜の闇に閉ざされているとされる深淵の森。
そこを絶対的な縄張りとする、神王獣フェンリル。
最初のターゲットは決まった。
だが、相手は俺がかつてシルアの森で死闘を演じ、死に物狂いで倒した神王獣ヤマタノオロチと同格。いや、この狂った世界の豊富な環境魔力を吸い上げている分、それ以上の理不尽なステータスと質量を持ったバケモノであることは間違いない。
今の、ヤマタノオロチの完全顕現を使える俺の力と、ラナの聖剣としての力。
それだけでは、いかに不意を突こうと、確実にノーダメージで殺し切れる保証はどこにもない。
万が一にも相打ちになれば、あるいは俺が重傷を負って動けなくなれば、魔族への復讐はそこで完全に終わる。
(……明日にでも、冒険者ギルドへ行ってみるか)
俺は、無意識に腕を組み、頭の中で計算を始めた。
前衛の囮でも、後衛のサポートでも、あるいは使い捨ての駒でもいい。
腕の立つ、死を恐れない命知らずの冒険者を数名、王からもらう予定の金か、ヴェインから貰った金貨で雇えるかどうか、確認する必要がある。
魔族を根絶やしにするための、狂気に満ちた、果てしなく血生臭い復讐のロードマップは、今、俺の目の前に明確に敷かれた。
「お兄ちゃん、本読めたよ! 英雄がね、悪いモンスターを、ドカーンってやっつけたの!」
不意に。
背後から、シャリンの弾むような声がして、俺の思考が現実へと引き戻された。
振り返ると、シャリンが分厚い絵本を両手で掲げ、えっへんと胸を張って、誇らしげな笑顔を俺に向けていた。
その後ろで、ラナが「すごいでしょー!」と自分のことのようにドヤ顔をしている。
「……そうか。ドカーンと、な」
俺は、読んでいた重厚な禁書をパタンと静かに閉じ。
歩み寄って、シャリンの髪を、そっと優しく撫でた。
「えへへ……」
シャリンが、目を細めて、子猫のように俺の手のひらに頭を擦り付けてくる。
この小さな温もりだけは、絶対に守り抜く。
そのためなら、俺は神王獣でも、世界の理でも、なんだって殺して、喰らってやる。
その日の夜。
王城の最上層に位置する、王族専用の巨大な大広間白百合の間では。
西の辺境の村を救った俺たちを歓迎する、盛大な晩餐会が催されていた。
天井から無数に吊るされた、巨大な最高純度の魔石シャンデリアが、夜の広間を昼間のように煌々と、悪趣味なまでに照らし出している。
床には、足首まで沈む白銀獣の毛皮の絨毯。
長大なテーブルには、見たこともない色鮮やかな果実、高級な飛竜の丸焼き、そして血のように赤い極上のワインが、滝のように惜しげもなく注がれ続けていた。
そこに集まっているのは。
きらびやかなドレスや、宝石を散りばめた豪奢な礼服で、己の醜い脂肪と野心を着飾った、百名はいようかというアリス王国の貴族や有力者たちだ。
彼らは、グラスを片手に優雅に談笑するフリをしながら。
チラチラと、遠巻きから、王座の隣に立つ俺の姿を、ねっとりとした視線で観察していた。
辺境の村を救った英雄への感謝? そんなものは、ただの表向きの建前、安っぽいメッキに過ぎない。
彼らの脂ぎった瞳の奥で蠢いているのは。
突如として歴史の表舞台に現れた、この正体不明の男に対する冷徹な値踏みと、自分の派閥に引き込めるかどうかの利用価値の有無を探る、醜い欲の色だけだった。
「――おお、お見事な手腕だったと伺っておりますぞ、英雄殿」
一人の、恰幅の良い、顔に白粉を塗りたくった貴族が、媚びへつらうような笑みを浮かべて近づいてきた。
「我が軍の精鋭をまったく寄せ付けなかった魔族の軍勢を、わずか数分で、しかも単機で完封されたとか……。して、英雄殿はどちらの国、あるいはどこの隠れ里で、その驚異的な剣術を修められたのですかな?」
「……異世界だ」
俺は、手元のグラスのワインを一口も飲まずに、氷のように冷たく答えた。
「ははは! これはまた、ご冗談を! 英雄殿はユーモアのセンスも抜群のようだ!」
貴族は、大げさに腹を揺らして笑い声を上げたが、その目は少しも笑っていない。
「……して、英雄殿がお召しになっていた、その異形で禍々しい全身鎧……いえ、素晴らしい魔導具の出所はどこですかな? あのような規格外の魔導具は、我がアリスの王立魔術工房でも見たことがありませんが」
次から次へと、にこやかに、だが確実にこちらの懐を探ってくる下卑た質問の連打。
俺は、無表情のまま、男の顔をギロリと睨み下ろした。
「倒した化け物の死骸の皮を、そのまま剥いで身に纏ってるだけだ」
「は……? し、死骸の、皮?」
「あぁ。……そんなに俺の防具の出所が知りたいなら。次はお前のその脂肪まみれの皮を剥いで、新しく俺の防具でも作ってやろうか? 少しは耐久力がありそうだからな」
「ひッ……!!」
俺の、冗談でも比喩でもない。
底冷えする、本物の殺意が100%混じった眼差しに。
貴族は、みるみるうちに白粉の下の顔を青ざめさせ、「し、失礼いたしました……ッ!」と悲鳴を噛み殺しながら、ワインをこぼして逃げるように去っていった。
「……チッ。どいつもこいつも、くだらねぇ豚ばっかりだ」
俺は、逃げていく男の背中を見送りながら、深く、忌々しげなため息をついた。
反吐が出るほどつまらない、無駄な空間だ。
やはり、レイズやソーたちのような、命を懸けて背中を預け合える仲間がいない世界は。
どこまでも退屈で、ただ煩わしいだけだった。
ふと、周囲の鬱陶しい視線から逃れるように視線をずらすと。
大広間の隅。
貴族たちの派閥争いから最も遠い、目立たない場所に用意されたテーブルで。
ラナとシャリンが、山のように積まれた豪勢な宮廷料理に囲まれ、さながら天国にでもいるかのような顔をしていた。




