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第48章:輪廻の唄姫ー2

 その騒動の直後だった。


――ワァァァァァァッッッ!!


 不意に、大通りの先にある巨大な中央広場の方から、地響きのような大歓声が上がった。


「な、なんだろう、あっちですっごく人が集まってるよ!」


 空気を読まないのか、あるいは意図的に変えようとしたラナが、シャリンの背中をさすりながら、目を輝かせて広場の方を指差した。


 見れば、広場の中央に急造された巨大な木組みのステージに。


 一人の女性が、ゆっくりと、まるで夜の闇から浮かび上がるように姿を現したところだった。


 透き通るような、星屑を散りばめたような瞳に綺麗な長い黒髪を夜風に揺らし。


 装飾の少ない、ゆったりとした純白と赤の動きやすそうなドレスローブを纏ったその女性は。


 熱狂し、狂ったように名前を叫ぶ群衆の喧騒を鎮めるように、そっと目を閉じ。


 そして――マイクも、声を拡張する魔導具も一切通さず、ただ静かに、口を開いて歌い始めた。


「――――」


 瞬間。


 王都の空気が、震えた。


 いや、震えたのは空気ではない。


 俺の、完全に凍りつき、魔族への復讐心だけで動いていた魂そのものだった。


 楽器の伴奏さえない、ただの肉声。


 なのに、その歌声は、俺の耳の鼓膜を容易く通り越し、脳髄の奥へと、鋼鉄で覆い隠したはずの心臓を、直接、温かい手で優しく撫でるように響き渡ったのだ。


(……な、なんだ、これは……?)


 温かくて、ひどく、懐かしいような。


 俺が今抱えている、真っ黒でドロドロとした絶望も。


 仲間を見殺しにして自分だけが生き残ってしまったという、取り返しのつかない重い罪悪感も。


 魔族を皆殺しにするためなら、どんな非道な手も厭わないと決めた、狂気に呑まれかけている醜い心も。


 その歌声は、俺のすべてを知った上で。


 それでも「それでいい。あなたは、十分苦しんだ。もう、生きていていい」と、全肯定してくれるような、圧倒的で、無条件の母性だった。


 刃のように研ぎ澄ませ、限界まで張り詰めていた俺の殺意の表面が。


 その歌声の波に優しく洗われ、ポロポロと、音を立てて崩れ落ちていく。


(……やめろ。……俺の中に入ってくるな……!)


 俺は、無意識に自分の胸ぐらを強く掴み、ギリッと奥歯を噛み締めた。


 精神操作の魔法か? 音を媒介にする魅了の魔法か?


 いや、違う。ステージ上の彼女から、いかなる魔法の波動も感じ取っていない。


 これは、ただの……歌だ。


 現象としては、ただの空気の振動が、修羅と化した俺の精神を、根底から溶かそうとしている。


 完全に心を奪われ、石像のように立ち尽くす俺の隣で、異音がした。


「う……うぁぁぁぁん……っ、おいじぃよぉ……がなじぃよぉ……っ……!」


 見ると、シャリンが両手に持ったままの巨大な肉串を口いっぱいに詰め込んだまま、ボロボロと大粒の涙を流して号泣していた。


 先ほどの恐怖からの解放と、最高の飯の味、そして歌声による魂の浄化が同時に押し寄せ、幼子の脳の感情キャパシティが完全にバグを起こしているのだ。


「……あぁ、見える。見えるよ相棒。川の向こうで、綺麗なお花畑が広がってるよ。見知らぬお爺さんが手招きしてる……あたし、行くね……さようなら……」


 反対側では、ラナが恍惚とした、完全に悟りを開いたような表情で天を仰ぎ、肉体を持ったままサラサラと光の粒子になって昇天しかけていた。


「成仏すんな馬鹿。お前は昨日肉体得たばっかだろ。あと知らねぇジジイについて行くな」


 俺は、全身の鳥肌を無理やり抑え込みながら、ラナの首根っこをガシッと掴んで強引に現実に引き戻した。


 周囲を見渡せば。


 広場に集まった何百、何千という群衆が。


 日々の重税と労働に疲弊しきった町人も。


 裏路地で他人から金を奪って生きていそうなガラの悪いゴロツキも。


 全身に生々しい傷跡を持つ、血に飢えた歴戦の傭兵たちでさえも。


 皆一様にその場に武器を下ろして立ち尽くし、ポロポロと、まるで親とはぐれた子供のように大粒の涙を流しながら、その歌声に聞き入っていた。


 すすり泣く声すら立てるのを惜しむような。


 異様な、狂気的なまでに圧倒的な平和の光景。


「……すげぇな、こりゃあ」


 俺が、無意識のうちに呟くと。


 隣で、ボロ布で涙と鼻水を豪快に拭っていた見知らぬ隻眼の男が、なぜか自分の手柄のように得意げに鼻を鳴らした。


「ああ、すげぇだろ? でもな、兄ちゃん。すげぇなんてもんじゃねぇんだよ。


 彼女は輪廻の唄姫サーシャ様だ。あの歌声を聞けば、どんな極悪人だろうが、血に飢えた狂戦士だろうが、母親の腕の中にいる赤子のように涙を流し、剣を捨てるって言われてる。


 ……さらに驚くことに、あのお方は、あんなに美しくて慈愛に満ちてるのに、自ら最前線で魔族と戦う、現役のSランク冒険者でもあるんだぜ」


「……冒険者?」


 俺は、ステージの上で目を閉じて歌う彼女の姿を、改めて見つめた。


 この、人間が他種族を奴隷とし、血で血を洗い、魔族が命を刈り取る狂った世界で。


 あれほどの、他者の魂を根底から揺さぶり、すべての憎悪を癒やしてしまう歌を歌う女が。


 自ら武器を手に取り、血生臭い戦場の最前線にも立っているというのか。


 やがて。


 ステージの上のサーシャが、最後のフレーズを、夜空の星屑に溶かすように静かに歌い終えた。


 一瞬の、数千人が同時に息を止めた、完全な静寂。


 その直後。


 ワァァァァァァァァァァァッッッ!!!


 爆発的な、大気を揺るがすような拍手と歓声が、アリス王都の夜空を物理的に劈いた。


 サーシャは、その熱狂と涙の渦の中で優しく微笑み、群衆に向かって深く、美しい一礼をする。


 その時。


 顔を上げた彼女の、深い夜空のような穏やかな瞳が。


 ふと、何千という群衆の中に立っていた俺たち――いや。


 俺の、どす黒い殺意を無理やり抑え込んでいる瞳と。


 ほんの数秒間だけ、真っ直ぐに交差したような気がした。


 だが、彼女はすぐに視線を外し、護衛らしき重装の騎士たちに囲まれながら、ステージの裏へと静かに降りていった。


 サーシャがステージから姿を消した後も。


 王都の祭りの熱狂は、夜の底が抜けたように、さらに狂乱の度合いを増していつまでも続いていた。


 だが、俺たちは明日の夜に控える白百合の間でのクソ面倒な晩餐会に備え、適当なところで切り上げて、早めにVIP専用の宿屋へと戻ることにした。


「すぅ……、すぅ……、おにく……おいちい……」


 帰りの道中。


 歩き疲れと、極限の感情の起伏、そして限界まで膨れた胃袋によって、完全にシャットダウンしたシャリンを。俺は行きと同じように、背中に負ぶって歩いていた。


 彼女の小さな手は、まだ半分残った串焼きの棒をしっかりと握りしめたままで、時折俺の黒い外套に香ばしいタレをなすりつけているが、どうでもよかった。


 どうせ、すでに魔族の紫色の血と、返り血の悪臭が染み付いている外套だ。


「……ねえ、相棒」


 隣を歩くラナが、いつになく静かな声で、ぽつりと呟いた。


 彼女は、王都の薄極彩色の夜空――イーリス大陸とは全く違う星の並びを見上げながら、まだ夢の中にいるような、恍惚とした表情を浮かべていた。


「あのサーシャって人の歌。すごかったね。


 ……あたし、胸の奥の、師匠に殺された時の痛かった記憶とか、苦しかった記憶がさ。あの歌を聴いてたら、ポカポカして、全部どうでもよくなっちゃった。……もう、誰も憎まなくていいんだよって、頭を撫でられたみたいだった」


「……そうか」


 俺は、短く応えた。


 ラナが、過去の凄惨なトラウマから少しでも解放されたのなら、それは喜ぶべきことのはずだ。


 だが、俺の口から出た声は、自分でも驚くほどに低く、そして警戒に満ちて、ひどく強張っていた。


 宿屋の、目も眩むような豪華なスイートルームに到着する。


 ふかふかの、それこそ子供がそのまま溺れて窒息してしまいそうなほど、巨大で柔らかな天蓋付きベッド。


 そこに、背中で完全に脱力しているシャリンをそっと降ろして寝かしつけると。


 彼女は、シーツのあまりの心地よさに「ふにゃぁ……」とだらしない声を漏らし、数秒で、この世のすべての不幸から切り離されたような、幸せそうな寝息を立て始めた。


「ふわぁ……。あたしも、限界かも。……おやすみ、相棒。あんまり、怖い顔して夜更かししちゃダメだよ」


 ラナも、実体化した肉体の疲労には抗えなかったのか。


 隣の部屋のベッドへとふらふらと歩いていき、泥のように眠りについた。


 二人の、無防備で、そして確かな生を感じさせる寝顔を確認した後。


 俺は一人、部屋の魔石の明かりを落とし。


 薄暗い部屋の窓辺に立ち、微かに開けたガラス窓から、王都の煌びやかな夜景を、無言で見下ろしていた。


 冷たい、異世界の夜風が、俺の頬を撫でる。


 だが、その風よりもずっと冷たくなければならないはずの俺の心は。


 今夜に限って、ひどく、不快なほどに熱を持っていた。


(……輪廻の唄姫、サーシャ、か)


 目を閉じれば、耳の奥で、いや、脳髄の奥深くで。


 まだ、あの女の歌声が微かに反響している。


『――もう、戦わなくていい』


『――あなたは、生きているだけで許されている』


 言葉にすれば、そんなありふれた、薄っぺらい陳腐な慰めだ。


 だが、彼女の歌声には、それを物理的な救済の波として他者の魂にねじ込む、圧倒的な力があった。


 俺は、ギロリと、無意識に強く握りしめていた自分の両手を見た。


 今日、数十体の魔族をヤマタノオロチの剛力で引き裂き、無残に切り刻み、紫色の不浄な血で赤黒く染め上げた手。


 俺は、この手が、どれほど洗おうが、二度と落としきれないほどドロドロに汚れていることを知っている。


 そして。


 これから先、さらに魔族を殺すために。あのアリスの貴族を利用して自らを強化していく情報を得るためにさらに真っ黒に、醜く汚していくことも。


 仲間をすべて失い、復讐という業火に身を投じ。


 魔族を殺すための、ただの感情のない刃と化した俺の心を。


 ほんの一瞬とはいえ、間違いなく溶かし、激しく揺さぶった、あの異常なまでの温もり。


「……毒だな、ありゃ」


 俺の口から、呪詛のような声が漏れた。


 そうだ。あの歌は、俺のような人間には、致死量の猛毒だ。


 極寒の吹雪の中で、凍傷で手足が腐り落ちようとしている人間に。


 無理やり、熱く燃え盛る暖炉の前に引きずり出せばどうなるか。


 急激な温度変化で、細胞は破壊され、心臓はショックで破裂し、死に至る。


 今の俺は、それと同じだ。


 俺の心は、あの砦で、仲間たちの血の海の中で、完全に凍りついた。


 いや、自ら凍結させたのだ。


 そうしなければ、あの絶望と、取り返しのつかない罪悪感で、俺の精神は一秒と持たずに完全に崩壊して、狂っていただろうから。


 俺という壊れた人間の形を、ギリギリで繋ぎ止めている接着剤。


 それは魔族への憎悪であり、復讐という狂気だ。


 あんな、母親の腕の中のような温かさに触れてしまえば。


 俺の復讐の刃が、錆びついてしまう。


 仲間たちを守れなかった俺の重すぎる罪悪感を、「もういいんだよ」と、勝手に許されてしまえば。


 俺は、魔族を殺す理由を、前に進むためのエネルギーを失ってしまう。


 俺は、許されてはいけない。


 俺は、癒やされてはいけない。


 俺は、彼らの死に報いるために。すべての魔族の首を刎ね、ボーゲンの心臓を握り潰すその日まで。


 永遠に、血の涙を流して、怒り狂っていなければならないのだ。


「……待ってろよ、バケモノども」


 俺は、窓枠に置いた右手にギリッと力を込め、堅い木を無意識に握り潰しながら。


 夜闇の向こう、まだ見ぬ魔界の扉へと向かって、血を吐くような静かな宣戦布告を落とした。


「あの歌で、俺が救われるとでも思ったか。


 俺の憎悪は、こんなもんじゃない。地獄の底だろうが、世界の果てだろうが、這いつくばってでも追い詰めて。一匹残らず、殺してやる」


 明日。


 あの見下ろすような白亜の王城で開かれる、白百合の間の晩餐会。


 そこで、どんな腹黒い貴族どもが、どんな下劣な思惑と罠で待ち受けていようと、俺のやることは何一つ変わらない。


 奴らの懐に土足で入り込み。


 利用できるものは、金も、権力も、兵士も、すべて利用し尽くし。


 魔族と神王獣の情報を引きずり出し、俺の武装化の力を限界の底の底まで高め、すべてを斬り裂く。


 俺は、静かに、だが鋼鉄の決意を込めて窓から離れ、冷たい床に横たわった。


 だが。


 この絶望と狂気しかない狂乱の異世界で。


 偶然出会ってしまった、あの輪廻の唄姫の歌声と、俺を真っ直ぐに射抜いた深い夜空のような瞳だけは。


 俺がどれほど憎悪を燃え上がらせようとも。


 どうしても、俺の頭から完全に離れてはくれなかった。

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