第48章:輪廻の唄姫ー1
アリス王国の王都。
この薄極彩色の空の下にそびえる、白亜の三重城壁に囲まれた要塞都市は、俺がかつていたウルシア王国の王都よりはやや小さく。その友好国であり、聖剣ラナとの死闘の舞台になったミリアの王都よりは、一回りほど大きい規模だった。
だが、俺の知るかつてのイーリス大陸のどの都市とも、決定的に違うものがあった。
それは、街全体を重く、不気味に覆い尽くしている異様な熱気と狂騒だ。
魔族という、人間の理を根本から否定する絶対的なバケモノの脅威が、この世界を確実に侵食している。
今日、この日、この瞬間も、どこかの辺境の村が炎に包まれ、アリス王国の人間や他国や他種族たちが血の海に沈み、悲鳴を上げながら内臓を引きずり出されているというのに。
高く分厚い城壁に守られたこの王都の内側は、まるで。
「明日、その城壁が崩れて自分たちが喰われるかもしれないのだから。今夜はすべてを忘れて狂って踊ろう」
とでも言うかのように。
刹那的で、享楽的で、空虚な狂騒に酔いしれることで、首筋に常に突きつけられている鋭い剣を、強引にアルコールと嬌声で忘れようとしているようだった。
「――明日の夜。王城の白百合の間にて。貴殿を、西の村を救った大英雄として、国王陛下に謁見し紹介するための大規模な晩餐会が開かれる。……どうか、主賓としてご出席いただきたい」
俺たちが案内されたのは、王城の目と鼻の先にある、王都でも最高級とされるVIP専用の宿屋だった。
足首まで沈み込むほどに分厚く柔らかな深紅の絨毯が敷かれ、壁には金糸で精巧に刺繍された美しいタペストリーが何枚も飾られた、目が眩むほどに豪華なスイートルーム。
その部屋の中央で。
俺たちをここまで連れてきたアリス軍の部隊長ヴェインは、まるで自国の王に対するかのように、恭しく、そして額を絨毯に擦り付ける勢いで深く頭を下げていた。
正直に言おう。
反吐が出るほど、面倒くさかった。
こんな小さなエルフの少女を迫害するような村がある国。腐りきった王族や貴族どもの好奇の目に晒され。
戦功を立てた見世物の猿のように扱われ、薄っぺらい賛辞と、金と権力に塗れた下劣な腹の探り合いに付き合わされる。
そんな吐き気を催すような茶番劇が待ち受けているのは、火を見るより明らかだった。
俺の目的は、このアリスの国で英雄としての名誉を得ることでも、金貨の山に埋もれて安楽に暮らすことでもない。
この狂った世界に蔓延る魔族のトップ。ボーゲン、魔王といった連中を根こそぎ引きずり出し。
俺の大切な仲間たちが味わった以上の絶望を与え、魔剣ムラマサで微塵切りにして殺し尽くすための絶対的な力と情報。
俺が欲しいのは、ただそれだけだ。晩餐会の極上の肉やワインなど、今の俺にとっては泥水程度の価値しかない。
「……悪いが」
俺は、微塵の興味もないという冷たい眼差しで、頭を垂れるヴェインを見下ろし。
氷の刃のような断りの言葉を、無造作に口から投げ捨てようとした。
その、時だった。
「……」
ふと視界の端で。
部屋の片隅に鎮座する、最高級の絹のシーツと羽毛布団が掛けられた、巨大な天蓋付きベッドを。
シャリンが、信じられないもの、いや、神が遣わした奇跡でも見るかのように、翠色の大きな目をまん丸にして見つめているのが見えた。
エルフの集落で不幸を呼ぶ呪いの子として理不尽に迫害され。
まともな家も与えられず、ボロ布のような冷たく硬い寝床しか知らなかった彼女にとって。
それは、まるでおとぎ話の絵本の中でしか見たことのない、お姫様のお城のベッドに見えたのだろう。
彼女は、泥と擦り傷だらけの自分の汚れた素足を見て、その神聖なベッドに近づくことすらためらい。
ただ、両手を胸の前でギュッと握りしめて、呼吸をするのすら忘れたように、憧れだけでそこを見つめていた。
さらに、窓辺では。
この世界の異常な環境魔力によって実体化したばかりのラナが。
分厚いガラス越しに見える、王都の煌びやかで華やかな夜の景色に、顔をパァッとひまわりのように輝かせて、子供のようにはしゃいでいる。
「うわぁ……! 相棒、見て見て! あそこですごく大きい火が燃えてるよ! なんだろう、お肉焼いてるのかな!? それともお祭り!? ねえ、このベッドもすごく柔らかいよ! 雲みたい!」
その、純粋すぎる二人の姿を見た瞬間。
俺の肺の奥にタールのように詰まっていた、冷たい断りの言葉が。
スッと、ほんの少しだけ、熱を持って溶けて消えた。
(……まぁ、そりゃそうだよな)
俺は、誰にも気づかれないように、内心で自嘲気味に息を吐いた。
ずっと孤独で最底辺の扱いを受けていたエルフの子と若くして命を奪われ装飾品として魂のみの存在となった若き勇者。
俺が晩餐会への出席を断れば、この部屋への滞在も、この国賓としての待遇も、最悪取り消されるかもしれない。
仲間を救えなかった無能な俺が、誰かの笑顔を気にする資格などない。
今まで、血と泥と絶望の地獄しか見てこなかったあの二人に。
腹いっぱいの美味い飯と、安全で温かいベッド、そして豪華な王都の催しくらい、見せてやるのも悪くはないかもしれない。
失った仲間は、もう二度と戻らない。
俺の異能力は、彼らの死を、あの血の海を覆すことはできなかった。
だが、今ここで。俺の背中に隠れて震えているこの小さな命たちを、これ以上不幸にすることだけは、絶対に避けなければならないのだから。
「……わかった。出よう」
俺が短く、ため息混じりに快諾の言葉を落とすと。
ヴェインは、大げさに「ホッ」と肩を撫で下ろし、命拾いをしたとばかりに顔を輝かせた。
「お、おお……!! ありがとうございます、英雄殿!! 国王陛下も、貴殿の来臨を心よりお待ちしておりますぞ! それでは、明日の夜、迎えの馬車を手配いたしますので、今宵はどうか、ごゆっくりと王都の夜をお楽しみください!」
ヴェインは、深々と、何度も額を擦り付けるように一礼をし、逃げるように足早に豪華な部屋を後にした。
バタン、と重いマホガニーの扉が閉まる音。
静寂が戻った部屋の中で、俺は窓辺に立ち、夕闇に沈みゆく王都の街並みを見下ろした。
この狂乱の、人間至上主義の腐敗したアリス王国。
その中枢である王城の、貴族や王の懐に強引にでも入り込み、魔族に関する機密情報を引きずり出す。
利用できるものはすべて利用し、絞り尽くす。
それが、魔族殲滅という絶対の目的に到達するための、最も効率の良い最短ルートだ。
明日、あの場所でどんな腹黒い連中が待ち受けていようと、俺のやることは何一つ変わらない。
「相棒、相棒! 外、行こ! シャリンも! すっごくいい匂いがするよ! あたし、お腹と背中がくっつきそう!」
ラナが、俺の黒い外套の袖を引っ張って、弾むような声で急かしてくる。
「お兄ちゃん……こんなに綺麗な部屋、初めて……。ほんとに、シャリンみたいなエルフが、ここにいていいの……?」
シャリンが、自分の薄汚れた服の裾をギュッと握りしめ、おずおずと、捨てられるのを恐れる小動物のように見上げてくる。
「……ああ。ここは、今日から俺たちの陣地だ。誰にも文句は言わせねぇよ」
俺は、シャリンの銀に近い金髪を、少し乱暴に、だが精一杯の優しさを込めて撫でた。
「ほら、行くぞお前ら。……どうせ明日はクソ面倒な腹の探り合いだ。今夜くらいは、王都の祭りで、腹が破けるくらい美味い飯でも食いに行くか」
「やったー!! お肉! お肉!」
「う、うん……!!」
俺の瞳の奥で、常に赤黒く燃え盛っている復讐の炎。
それは、二人の無邪気な声によって、ほんの少しだけ、隠された。
俺たちは、薄極彩色の空から夜の闇へと変わりゆく王都の街へ、狂騒のるつぼへと足を踏み出した。
アリス王都の中央大通りは、まるで狂気と欲望を一つの大鍋で煮詰めたような、むせ返るほどの熱気に包まれていた。
今日、西の辺境で俺が魔族の軍勢を一人でミンチに変えたことに対する戦勝祝いの報せが届いたのか。それとも、ただ死の恐怖から逃れるための定期的な乱痴気騒ぎなのか。
ともかく、石畳の広い通りには所狭しと無数の屋台が立ち並び、街中は赤や黄色に発光する安価な魔石の眩い光と、アルコールで脳を麻痺させた酔客たちの下品な笑い声で埋め尽くされていた。
「お、お兄ちゃん……! これ、すごくいい匂いがする……!」
「相棒! あたしあの串焼き食べたい! すっごくデカいお肉のやつ! あと、あっちのクレープみたいな甘いやつも! 全部、全部食べたい!」
幼いエルフの少女と。
そして、かつて命を奪われ、俺の胸元で装飾品として魂を繋ぎ止めていたが、この世界の異常な魔力環境によって久しぶりに肉体と味覚を取り戻した少女。
シャリンは、初めて見る人間の王都の祭りの空気に完全に当てられていた。
テンションが限界を突破し、右手に巨大な獣肉の串焼き、左手に甘い果実の菓子を抱え込み、目をキラキラと輝かせながら屋台の間を縫うように駆け回っている。
俺は、部隊長ヴェインから手付金として押し付けられた、ずっしりと重い金貨の袋を揺らしながら、ため息交じりに彼女たちの後ろを一定の距離を保って歩いていた。
(……平和だな。まるで、あの地獄が嘘みたいだ)
脳裏にこびりついて離れない、仲間たちの血の匂い。
あの砦の石畳を滑るほどに赤く染め上げた、絶望の血の海。
それが、この祭りの熱狂的な喧騒と、香ばしい肉の焼ける匂いによって、ほんの少しだけ、薄められたような気がした。
だが。
そんな束の間の平和な錯覚は、人間の持つ醜悪な本性によって、いとも容易く打ち砕かれる。
ドンッ!
「あッ……!」
人混みの中で、はしゃいで前を歩いていたシャリンの小さな肩が、前から歩いてきた恰幅の良い人間の男――身なりの良い、酒に酔った商人らしき男の巨体にぶつかり、尻餅をついた。
その拍子に、シャリンが深く被っていたフードがふわりと風でめくれ上がり、彼女の長く尖ったエルフの耳が、周囲の光の下に晒されてしまった。
「いてぇな! どこ見て歩いてやがる……ん? おいおい、なんだあこりゃあ」
商人の男は、シャリンの耳を見るなり、顔を真っ赤にして不快げに鼻を鳴らした。
周囲を歩いていた人間たちも、立ち止まり、冷ややかで、明確な侮蔑を含んだ視線をシャリンへと向け始める。
「エルフのガキじゃねぇか。おいおい、どこの奴隷商の管理ミスだ? こんな神聖なアリスの祭りの夜に、劣等種がうろちょろしてんじゃねぇよ!」
「汚らわしい。近寄るな、病気がうつる」
「おい、自警団を呼べ。路地裏に引きずり込んで、躾け直してやれ」
ヒソヒソと、だが隠す気もない悪意。
それが、四方八方から言葉の石礫となって、幼い少女へと容赦なく降り注ぐ。
「ご、ごめんなさい……! ごめんなさい……っ!」
シャリンは、落とした肉串を拾うこともできず、ただ両手で自分の耳を必死に隠し、ガタガタと震えながら石畳にうずくまった。
故郷のエルフの森でも呪いの子として迫害され、人間の街でも劣等種として石を投げられる。彼女の世界には、逃げ場などどこにもないのだ。
「チッ、謝って済むかよ。俺の高級な服が、テメェみたいなケダモノのせいで汚れちまったじゃねぇか。どう落とし前つける気だ、あぁ!?」
商人の男が、醜く顔を歪めながら、右足を高く振り上げた。
うずくまるシャリンの細い脇腹を、力任せに蹴り上げようとした――その、瞬間だった。
ガシィッ!!!
「――――あ?」
商人の男の動きが、空中で、完全に停止した。
いや。停止させられたのだ。
振り上げた男の太い右足を。
オレは男の懐に音もなく入り込んでいた、左手一本で、万力のような力で鷲掴みにしていた。
「な、なんだテメェは……! 離せ! 俺を誰だと――」
ミシィッ……!!
俺が、左手の指先に、ほんの数ミリだけ力を込めた。
ただそれだけで、男の太い足の骨が、肉の奥で悲鳴を上げ、亀裂の入る嫌な音が周囲に響いた。
「ぎぃぃぃぃぃッ!?!? あ、足ッ!? 足が砕け……ッ!!」
「……おい、豚」
俺の声は。
祭りの喧騒を完全に凍りつかせるほどに、一切の熱を持たず、ただ絶対零度の死を孕んでいた。
「その薄汚い足を、誰に向けて振り上げた? ……二度と歩けなくしてやろうか」
「ひッ……!?」
俺の、前髪の奥から覗く、底なしの殺意を宿した瞳。
それと完全に目が合った瞬間。商人の男は、蹴り上げようとしていた怒りなど一瞬で消え飛び、顔面を紙のように真っ白にして、白目を剥きかけた。
俺は、男の足を無造作に、ゴミでも捨てるように横へ弾き飛ばした。
バランスを崩した男は、無様に石畳を転がり、屋台のゴミ箱に頭から突っ込む。
「次、そいつに触れようとした奴がいたら」
俺は、周囲を取り囲み、シャリンを侮蔑の目で見ていた群衆たち全員を、ゆっくりと見回した。
腰の魔剣ムラマサからは、俺の殺気に呼応するように、微かにチリチリと黒い魔力の火花が漏れ出している。
「腕でも、足でも、首でも。……好きなところから斬り落として、野犬の餌にしてやるからな」
「ヒィッ……!?」
「バ、バケモノ……!!」
俺の全身から放たれる、本物の死線を越えてきた修羅のプレッシャー。
それに当てられた群衆は、蜘蛛の子を散らすように、悲鳴を上げながら慌ててその場から逃げ出していった。
静まり返った通りの片隅。
俺は、うずくまって震えているシャリンの前に、片膝をついた。
「お兄、ちゃん……っ」
シャリンが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、俺の黒い外套の胸元に、小さな頭をこすりつけてボロボロと泣きじゃくった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お兄ちゃん……。わたしのせいで、また、お兄ちゃんが怖い思いをして……怒らせて……っ」
「……馬鹿野郎」
俺は、シャリンの頭を、少し乱暴にポンポンと叩いた。
「俺は、お前に怒ってるんじゃないし、怖くなんてないぞ。あんなクソみたいな豚共に腹を立てただけだ。
……お前は、俺が拾ったんだ。お前は俺の背中に隠れていればいい。誰にも、指一本触れさせねぇよ」
「……う、うわぁぁぁぁぁん……っ!!」
シャリンは、俺の言葉に、ついに堪えきれなくなったように声を上げて泣き始めた。
それは、恐怖からの涙ではない。
この狂った世界で、初めて自分を所有し、保護してくれる絶対的な存在を見つけた、安堵の涙だった。




