第47章:各地の王
アリス王国の正規軍が引く、豪奢な黒塗りの馬車。
その車輪が赤土を噛む単調な揺れは、先ほどまでの、荒野を紫色の血と肉塊で赤黒く染め上げた狂気とは対照的なほどに、あまりにも静かで、そして平和だった。
辺境の村を魔族の軍勢から救った英雄への、国賓待遇。
本来ならば国の騎士階級以上しか座ることの許されない、高級の赤いビロードのシートに深く腰を下ろし、俺はただ無言で、窓を流れる極彩色の荒野の景色を、硝子玉のような虚ろな目で見つめていた。
だが。
馬車の周囲を固めるように、幾重にも陣形を組んで並走している数十人のアリス軍の兵士たち。彼らの眼差しに宿っているのは、村や仲間を救われたことへの感謝などでは、決してない。
俺という、たった一人で数十体の魔族の軍勢をミンチに変えた、得体の知れないバケモノに対する、圧倒的な未知への畏怖。
そして。
この男は、本当に人類の味方なのか。機嫌を損ねれば、次の瞬間に自分たちの首が、あの魔族たちのように宙を舞うのではないかという、剥き出しの恐怖だった。
カチャ、カチャリ。
馬の歩みに合わせて鳴る、兵士たちの鎧の擦れる音すら、どこかひどく強張っている。
彼らは俺を護衛しているのではない。
いつ暴走するか分からない、猛獣の檻を、外から必死に監視しているだけだ。
「……で。改めて、聞かせてもらえないか、英雄殿」
馬車の窓のすぐ横。
並走するように馬を走らせる、部隊長のヴェインが、引きつった頬の痙攣を無理やり笑顔で取り繕いながら、探るような視線を窓越しの俺へ投げかけてきた。
「あんた、一体どこから来たんだ?」
道中。
ヴェイン、そして命知らずな何人かの兵士たちは、隙あらば俺を質問攻めにしてきた。
どこで、その人間離れした剣術を体得したのか。
あの、魔族の硬質な外殻すら紙のように両断した、漆黒の剣はどこで手に入れたものなのか。
そして何より。
一瞬にして魔族の軍勢を単機で蹂躙し尽くした、八つに分身するあの異形の深緑の鎧は、いかなる魔法理論で構築されているのか、と。
正直に言って。
彼らの恐怖を和らげるために適当な嘘を吐くのも、この見知らぬ世界の常識に合わせて整合性を取るのも。
今の俺にはひどく億劫で、無駄なカロリー消費にしか思えなかった。
俺の心は、すでにあの絶望の砦の、仲間の血の海の中で死に絶えているのだ。
今、ここで呼吸をして動いているのは、魔族を皆殺しにするという、ただ一つの復讐プログラムだけを入力された、冷たい肉の塊に過ぎない。
「……言ったはずだ」
俺は、窓枠に肘をついたまま、相手の顔を見ようともせず。
一切の感情を削ぎ落とした、砂を噛むような乾いた声で、ただの事実だけを投げ捨てた。
「俺は、別の世界から来た。それも、お前たちの尺度で言えば異世界ってところだ」
「い、異世界……?」
案の定。
ヴェインは困惑したように顔を引きつらせ、隣を走る副官とヒソヒソと視線を交わした。
「はは……なるほどな。そういうことか。どこぞの国の、秘匿義務のある暗部組織の出身か。あるいは、口にするのも憚られるような血塗られた故郷ってわけだ。……無粋な真似をした。もう、深くは聞かないよ」
彼らは、俺が教える気がない、あるいは重すぎる暗い過去を隠すための比喩なのだと勝手に解釈し、それ以上踏み込んでくるのをやめた。
それでいい。
真実というものは、時に、どれだけ精巧に作られた嘘よりも。
他人の理解を、強烈に、そして残酷に拒絶する。
「……お前たちの、くだらない質問の時間は終わりだ」
俺は、ここで初めてゆっくりと視線を上げ。
窓越しに、ヴェインの瞳を、文字通り心臓ごと射抜くように冷たく、暗く見つめた。
「ッ……!!」
その眼光の鋭さと、俺の毛穴から無意識に漏れ出したドス黒い重圧に。
ヴェインが思わず「ヒッ」と短く息を呑み、手綱を握る手をガタガタと震わせる。その恐怖が伝染したのか、乗っている軍馬までがヒヒィンッと怯えたいななきを上げ、歩みを乱した。
「次は、俺が聞く番だ」
俺の、喉の奥から這い出るような、絶対的な命令。
「魔族は、いつからこの世界にいる。奴らの生態、目的、戦力……知っていることを、すべて教えろ」
ヴェインは、まるで王の前で処刑宣告でも受けたかのように、ゴクリと大きく喉を鳴らし、ひどく重い口を開いた。
「……魔族という存在は、近年まで、ただのおとぎ話や、神話の世界の住人だった。それが、この世界に公に、姿を現し始めたのは、ここ数年のことだ」
「数年、だと?」
「ああ。東の果て。人類が誰も足を踏み入れたことのない、世界の最果てにあるとされる魔境にいきなり現れたんだ。 魔界と繋がる扉が。……そこから奴らは、まるで下水から泥水が溢れるように、突如として湧き出してきたらしい。
その時からだ、この世界の色が変わり、空気に魔力が満ち満ちている。」
「ならほどな。 扉、か……。それは、自然に現れ開いたのか? 何かの地殻変動か、星の周期か。……それとも、誰かが意図して作り、開けたのか」
俺の追及に、ヴェインは憎々しげに顔を歪め、唾を吐き捨てた。
「……いや、自然現象なんかじゃない。世界中のすべての国々で、人間も、他種族も関係なく、指名手配されている、最悪にして最凶の魔術師ボーゲン。
……奴が、人間世界への何らかの悪意を持って、失われた禁忌の術で扉を作り、その扉を魔界へと意図的に繋げ、強引にこじ開けたと言われている。」
「……ボーゲン」
俺は、その名前を、血の味がする舌の上でゆっくりと転がした。
そして。
脳の最も深い、最も冷酷な憎悪と殺意の記憶を保管する引き出しの、一番手前に、その四文字を深く、深くナイフで刻み込んだ。
最悪の魔術師、ボーゲン。
俺の世界を地獄に変え、ロロンやギンといった、あの最上位貴族のような種族を招き入れた、この世界での元凶。
そいつは。
必ず、俺の手で。
俺の魔剣ムラマサで、一寸刻みにして、思いつく限りの最も惨たらしい方法で殺害しなければならない。
「奴の本当の狙いや、魔族側の思惑は、各国の情報部が死に物狂いで探っても、未だに深い闇の中だ。
……だが、たった一つだけ、はっきりしていることがある。奴らが、人間を、他種族を、この世界の生類すべてを、自分たちの餌か娯楽の玩具としか見ていないことだけは、事実だ」
ヴェインの言葉に、俺は無言で、柄に置いた指先にギリッと力を込めた。
「……一つ、疑問がある」
俺は、静かに、だが確かな論理の矛盾を突いた。
「それほどのバケモノの軍勢が、数年間も魔界から現れ続けているなら。
……なぜ、アリスのような、中規模の国が、まだこうして地図の上に存続できている?」
俺の問いは、残酷なまでに世界の核心、そして本質を突いていた。
「俺は、奴らのトップ……最上位貴族の、あのデタラメすぎる強さを知っている」
俺の脳裏に、退屈そうに腕一つでレイズやミストを削り取った、ロロンの無機質な瞳がフラッシュバックする。
そして、武器を神王獣クラスのバケモノに変態させ、人類の最高戦力たちを盤上のオモチャのように弄んだ、ギンの悪趣味な笑顔。
「奴らが本気で侵略を行えば。あのクラスの化け物が直接手を下せば、アリス王国のような国など、一週間もかからずに、一息に飲み込めるはずだ。……なぜ、魔族はそれをしない? なぜ、辺境の村をチマチマと襲うような、手ぬるい真似をしている?」
先ほど俺が皆殺しにした数十体の魔族など、あの最上位貴族どもから見れば、靴の裏の泥以下のカスでしかない。
魔王軍がその気になれば、この国など一瞬で更地になっているはずなのだ。
俺の鋭すぎる指摘に。
ヴェイン隊長は、ひどく苦渋に満ちた、そして人間としての限界を突きつけられたような屈辱的な表情で、窓の外の北の空を仰ぎ見た。
「……人間だけじゃない。エルフも、獣人も、ドワーフも。単独の種族じゃ、魔界から現れる魔族の侵攻は絶対に止められない。それは、疑いようのない事実だ。俺たちも、それは嫌というほど理解している」
ヴェインが、手綱を握る拳を白くなるほど強く握りしめる。
「……だが、この世界には。奴ら魔族の侵略の足を、強引に、そして物理的に止めている絶対の抑止力が存在するのさ」
「抑止力……?」
「ああ。……神王獣と、十王だ」
「――ッ!?」
その言葉が、馬車の中に重く落とされた瞬間。
俺の隣に座っていたラナの身体が、ピクリと小さく跳ね、俺と彼女の視線が空中で激しく交差した。
「神王獣、だと……?」
俺の声が、微かに、だが確かに低く唸った。
「ああ。神王獣とは、この巨大な大陸の各地の魔境に君臨する、文字通り神の如き力を持った、超常のモンスターの総称だ。
奴らに知性があるのかないのかは分からん。だが、とにかく己の縄張りを侵すものを、奴らは絶対に許さない」
ヴェインは、まるで嵐や地震といった自然災害を語るかのように、深い畏怖を込めて言葉を紡ぐ。
「魔族が、人間国を一息に滅ぼそうと一度に大軍を動かせば。それは必然的に、大陸中に点在する神王獣の逆鱗に触れることになる。結果として、奴らが、意図せずして我々人類の巨大な盾になっているのさ……。
皮肉な話だがな。魔王軍とて、大陸すべての神王獣を同時に敵に回すほどの無茶は、いくらなんでもできないだろう。だからこそ、奴らは軍勢を分散させ、神王獣の縄張りを避けながら、ジワジワと世界を侵食するしか手がないんだ」
――この世界にも、神王獣はいた。
それも、俺の以前いたイーリス大陸のように、おとぎ話レベルのモンスターとして眠っているのではない。
今、この瞬間に。世界の均衡を保つための、生ける神獣の王として、各地の生態系の頂点に君臨しているのだ。
「なら、もう一つの十王ってのは何だ?」
俺が重ねて問うと、ヴェインはさらに声を潜め、神仏を崇めるような念を隠そうともせずに語り継いだ。
「それぞれの種族を代表する、十人の王さ。
この世界全体の種族間の条約や、世界のあり方の根底を決める、絶対の権力者たち。我ら人族の代表には、比類なき剣技で空間すら両断すると謳われる剣王アリル様や、戦場そのものを支配する戦王ミッド様がいらっしゃる」
「エルフ族の代表には……森王ユジン様が、いるよ」
それまで、俺の背中の後ろで小さくなって黙っていたシャリンが。
ぽつりと、どこか寂しげな、そしてひどく怯えた震える声を漏らした。
かつて自分を不幸を呼ぶ呪いの子として容赦なく追い出した故郷の、その頂点に立つ者の名を。
「ねえねえ、その十王の人たちって、そんなに強いの?」
ラナが、この重苦しい空気を少しでも和らげようとしたのか、いつもの調子を無理やり取り戻したように、瞳を輝かせてヴェインに質問を投げかけた。
この異常な環境魔力で実体化した彼女の無邪気さは、この血生臭い馬車の中で、唯一の異質な光だった。
「ああ、お嬢ちゃん。彼らの強さは、おとぎ話の英雄なんて生易しいレベルじゃない。文字通り、神がかっているのさ」
ヴェインが、深く息を吐き出す。
「噂では、彼ら十王の一人一人の戦闘力が。あの災厄たる神王獣にすら、単独で匹敵すると言われている。
……まぁ、彼らは超然としすぎていて、我々人間同士の小競り合いや、種族間の国境の戦争には、ほとんど口出ししないんだがね。我々のような凡人からすれば、雲の上の存在だ。
だが、魔族という世界共通の敵が現れた今、彼ら十王の動向に、世界中の注目が集まっているんだ」
(十王、そして、神王獣……)
俺は無言で、腰のベルト――ヤマタノオロチの装飾品に、そっと指先で触れた。
この世界には。
俺がさきほど完全武装化させた、あの神王獣ヤマタノオロチに匹敵するバケモノたちが、まだ大陸のあちこちで息づいている。
そして、それらと単独で並び立つ十王という、十人の超越者たち。
地形も、国の名前も違う、完全な別世界。
十の王が世界を治め、種族間の戦が絶えず、神王獣が各地に跋扈し、最悪の魔術師が魔界の扉をこじ開けた、狂乱と混沌の時代。
(……好都合だ)
俺の口角が。
この世界に来て初めて、獰猛に、そしてひどく醜く吊り上がった。
「……相棒?」
ラナが、俺のその笑顔を見て、ゾクッと背筋を凍らせたように身を引いた。
無理もない。
今の俺が浮かべているのは、希望を見出した勇者の笑みなどではない。
極上の餌を見つけた、飢えた肉食獣のそれだ。
これほど強者が溢れ、大気中に異常な魔力が満ちている世界なら。
俺の異能、武装化で、俺自身が強くなるための素材には、事欠かない。
神王獣だろうが、十王だろうが、魔王軍だろうが。立ち塞がるなら、すべて喰らってやる。
魔族を皆殺しにするための絶対的な力を蓄える舞台としては、これ以上ないほど、おあつらえ向きの地獄じゃないか。
「シャリン」
俺は、背中で小さくなっているエルフの少女を、硝子玉のような冷たい目で見やった。
「視える未来に、これから王都へ向かう俺たちは、どう映っている?」
シャリンは、俺のその温度のない声音にビクッと肩を震わせ。
俺の袖を握る手にキュッと力を込めると、絞り出すような声で答えた。
「……わからないの」
「分からない?」
「うん。お兄ちゃんの周りだけ、いつも、視界が真っ暗で、何も視えないの。未来が、ないみたいに……。
……でもね」
シャリンの翠色の大きな瞳が、何か恐ろしいものを覗き込んでいるように、激しく揺れた。
「その暗闇の、ずっと、ずっと奥のほうから。
すごく怖くて……血の匂いがして……でも、どこか懐かしい音が、ずっと聞こえるの」
「懐かしい音、か……」
俺は前を見据えた。
その音が、俺を地獄へ引きずり込む魔族の怨嗟の声か。それとも、かつての仲間たちが残した呪詛なのかは分からない。
いや、そもそも今の俺に懐かしいと感じる感情など、もう残されてはいない。
ガタゴトと、馬車の車輪が刻む単調な音の先に。
薄極彩色の夕闇を切り裂くようにして、アリス王国の王都の、巨大な城壁の影が、俺たちの頭上を重く、圧迫するように覆い隠し始めていた。
復讐の刃を、さらに鋭く、狂気的に研ぎ澄ますために訪れる、始まりの都。
そこで待ち受けているのが、復讐への手がかりか、それとも人間の底なしの腐敗か。
どちらでも構わない。
今の俺の殺意は、もはやどんな鞘にも収まりきらないほどに、冷たく、鋭く、そして静かに、狂い始めていたのだから。




