第46章:見知らぬ世界ー2
耳障りな、人間を、命を嘲笑うような笑い声を上げながら、防衛線を文字通り踏み潰して侵攻してきていた。
迎え撃つのは。
このアリス王国の正規軍らしき、青い外套と鉄の鎧を纏った歩兵部隊と。
村にたまたま滞在していたと思われる、冒険者たちの混成部隊。
だが、その戦況は、戦いと呼ぶのもおこがましいほどの一方的な屠殺だった。
「くそォォッ! 前衛の重装盾兵が、また一瞬で砕かれた!」
「後衛の魔法兵、早く迎撃魔法を撃て! 火力を集中させろ!!」
「ダメです隊長! こいつら、魔力抵抗が高すぎる! 俺たちの火炎魔法じゃ、傷一つ、足止めにすらならずに弾かれます!!」
「う、うわあああああああッッ!?」
アリス軍の兵士たちが、魔族の巨大な、そして不潔な鉤爪によって、鎧ごと容易く切り裂かれ。
空中に、生温かい血飛沫と内臓を撒き散らしながら、次々と赤土の上へと倒れ伏していく。
防衛ラインは、完全に決壊していた。
返り血と、そして己の部下たちの血で顔を真っ黒に染めた、アリス軍の隊長らしき男が、絶望に目を血走らせ、剣を握る手を震わせて、覚悟を決めた最後の叫びを上げた――その、瞬間だった。
「――ゴミ共が」
その声は。
戦場のあらゆる喧騒、悲鳴、肉が引き裂かれる音、そして魔族の耳障りな咆哮のすべてを。
真っ二つに切り裂いて、冷酷に響き渡った。
「な、なんだ貴様はッ!? 民間人は邪魔だ、早く後ろへ逃げろ!!」
アリス軍の隊長が、目を見開き、驚愕と混乱の表情で、俺の姿を振り返った。
だが、俺は歩みを止めなかった。
泥だらけの靴で、一歩、また一歩と、赤土を踏みしめて前へ進む。
俺の視線の先には、血に飢えた目で、新たな獲物を見つけて、下品に口の端から粘液を垂らす魔族どもの姿があった。
「……魔族。……やはり、お前たちか」
俺は、腰のベルトのバックルへと、そっと、静かに右手を当てた。
俺の持つ異能【武装化】。
それは、倒したモンスターの死骸を、武具や防具、あるいは一部を装飾品に変えて身に纏い、その特性を己の力として操る能力。
元の世界――イーリス大陸にいた頃であれば。
腰防具への変形と、最大でも、自身を八人に分身させる能力を引き出すのが、俺の肉体と、周囲の薄い魔力の中では限界だった。
だが。
この、息をするだけで肺が満ちるほどの、異常な魔力濃度を誇るこの世界では。
勝手が、違いすぎた。
大気中に満ち満ちている環境魔力が、俺の、憎悪と殺意に呼応してなのか、牙を剥くように暴れ狂う。
「ヤマタノオロチ……武装化」
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォォォッッッ!!!!!
瞬間。
俺の腰のベルト――かつてシルアの森で死闘を演じた、伝説の神王獣ヤマタノオロチの核たる装飾品から。
禍々しい、そして暴力的なまでの深緑の瘴気が、火山が爆発したかのような、圧倒的な勢いで噴き出した。
大気中の、莫大な環境魔力を貪欲に、飢えた獣のように急速に吸い込んだ瘴気は。
俺の全身を、包み込み、硬質化し、そして超高速で編み上げられていく。
バキバキバキバキバキバキィィッッ!!!
それは。
前の世界で見せたような、一部の武装などでは、決してなかった。
俺の全身を、指先から、爪先、そして頭部まで。
一切の隙間なく、重厚かつ、悍ましい、神王獣の鱗と骨を模した深緑の全身装甲へと、完璧な、そして真なる顕現を果たしたのだ。
ギィィィィンッ!
兜の奥で、俺の瞳が、どす黒い怒りを映して、赤く、妖しく発光する。
神王獣の真の力そのものを、完全に肉体へと定着させた、最強最悪の防具。
さらに。
その深緑の装甲を纏った俺の身体が、空間をねじ曲げるようにしてブレ、瞬時に、八つの完全な質量を持つ八人の俺へと、一斉に分かれた。
「な、なんだ、あいつらはァァッ!?」
「人間か……? いや、あれは、あれも魔族なのか……!?」
侵攻していた魔族やアリス軍の兵隊たちが。
突如として目の前に現れた、深緑の重装甲を纏った八人の男を見て、その全身から放たれる、得体の知れない底なしの殺意に本能的な恐怖を覚え、一斉に進軍を止めて、後退しようとざわつき始めた。
ただ、眼前の敵を、呪い、噛み砕き、屠るためだけに練り上げられた、純粋な暴力と殺意の奔流。
だが、彼らが逃げようとするには。
あまりにも、遅すぎた。
「――皆殺しだ」
俺の、喉の奥から、静かに吐き出された。
冷酷極まりない、ただ一つの命令。
その言葉の、終わりの一瞬を待たず。
八人の俺が、同時に、赤茶けた大地を爆音と共に蹴り砕いた。
右手には、空間を侵食するように漆黒の魔力を放つ魔剣ムラマサが握られている。
アリス軍の魔法を容易く弾いた、魔族の自慢の硬質な外殻装甲など。
完全顕現した神王獣ヤマタノオロチの怪力と、魔剣ムラマサの斬撃の前では、濡れて腐った紙切れと同義だった。
「ギャアアアアッ!?」
「ヒィィィッ!! た、助け――」
命乞いなど、聞く耳を持ち合わせてはいない。
ヤマタノオロチの圧倒的な身体能力で、戦場を縦横無尽に蹂躙する八人の俺。
逃げようと背を向けた魔族の首元へ、俺の一人が音もなく背後から回り込む。
漆黒の閃刃が交差するたび、魔族の巨体が抵抗の感触すら一切残さず、斜めに、綺麗に真っ二つにズレて崩れ落ちていく。
首が飛び、腕が舞い、ドス黒い紫色の血が、雨のように荒野の赤土へと降り注ぐ。
仲間を失った怒りと憎悪に、その身のすべてを委ねた俺の殺戮は、もはや戦いとも、防衛とも呼べなかった。
ただの、機械的で一方的な蹂躙だった。
八人の俺が戦場を黒い嵐のように駆け抜け、逃げ惑う魔族を魔剣ムラマサで的確に捉え、両断し、微塵切りにしていく。
ものの、数分だった。
先程まで村を脅かし、アリスの兵士たちを玩具のように喰い殺していた数十体の魔族の軍勢は。
ただの一体として、生者の形を保つことなく、完全に、余すことなく全滅した。
後に残されたのは、原形を留めない魔族の肉塊の山と、悪臭を放つ紫色の血の海。
そして。役目を終えた分身を静かに解き、深緑の装甲を煙のように解除しながら、刀身に付着した不浄な血を無造作に振り払い、魔剣ムラマサを鞘に収める、俺の姿だけだった。
「…………ッ」
アリス王国の正規軍の生き残りたちは、自分たちの常識を、世界のルールを根底から覆すあまりの惨劇に声すら出せず、武器を構えたままの姿勢で、ただ呆然と、恐怖に身を震わせて立ち尽くしている。
カチャリ、と。
静寂を取り戻した荒野に、俺が完全に刀を収めた金属音と、冷たい風の音だけが虚しく吹き抜けた。
「あ、あの……!」
やがて、完全に我に返ったアリス軍の隊長が、カチカチと歯の根を鳴らし、震える足取りで、まるで神か悪魔でも見るかのような目で俺の元へ歩み寄ってきた。
彼は血に塗れた己の剣を地面に捨て、俺の前に深く、最大の敬意と畏怖を込めて両膝をついた。
「感謝いたします……! あなたのおかげで、辺境の村は、我々アリスの民は救われた! 単身で、これほどの魔族の軍勢を、あそこまで容易く滅ぼすなど……英雄だ! どうか、どうか名をお教え願えないだろうか」
英雄。
その言葉が、俺の胸に鋭い棘となって、チクリと、あまりにも不快な痛みを伴って深く刺さる。
ふざけるな。
仲間一人として救えなかった無能な俺が、英雄なものか。俺はただの、生き残ってしまっただけの無様な敗残者だ。
「俺は……ただの、魔族を殺す者だ」
低く、一切の感情の乗らない声で短く答えて立ち去ろうとする俺に、隊長は土下座をするように額を地面に擦り付け、必死に食い下がった。
「どうかお待ちを! これほどの武勲を立てた御仁を、このままお帰しするわけにはいかない! 我がアリス国の王都へ、どうか国賓としてお越しいただけないであろうか! 必ずや、最高の歓迎と、望む限りの報酬をお約束いたそう!」
王都。国賓。
俺は少しだけ足を止め、血の海の向こう、ラナとシャリンが待つ村の方角を振り返った。
この、地形も国の名も違う、見知らぬ異世界で。
効率よく魔族に関する情報を集め、魔族を殲滅するには――一国の中心部、中枢の権力に食い込むのが一番手っ取り早い。
紫色の不浄な血が赤土に吸い込まれ、むせ返るような死臭が漂う中、俺はアリス王国軍の隊長――ヴェインと名乗った男とともに、酒場へと戻ってきた。
「お、お兄ちゃん……ッ!」
宿の扉を開けた瞬間。
不安で泣きはらした目を真っ赤にしたシャリンが、弾かれたように飛びついてきた。
「よかった、よかったぁ……! 外から、すごく怖い音がして、お兄ちゃんが死んじゃったかと思って……っ!」
俺の腰にしがみつき、ボロボロと涙をこぼすエルフの少女。
だが。俺は、その小さな頭を撫でてやることも、安心させる言葉をかけることもしなかった。
「……相棒?」
奥で待機していたラナが、息を呑むのが分かった。
彼女の蒼い瞳が、俺の顔――正確には、俺の目を見て、微かに震えていた。
俺自身、分かっている。
今の俺の瞳には、かつてイーリス大陸で仲間たちと笑い合っていた頃の光など、残っていない。
魔族の血を浴び、脳裏で何度も何度も、仲間が惨殺される光景を反芻し続けた結果。俺の心は完全に焼き切れ、ただ殺戮の効率だけを計算する、冷たい機械のような何かに変質していた。
「……ヴェイン隊長。馬車の用意はどうなっている」
俺はシャリンの頭越しに、背後に控えるアリス軍の小隊長へと、抑揚のない声で尋ねた。
「すでに付近の騎士駐屯所で最も頑丈で、馬の足が速い馬車を徴発いたした。 もちろん、英雄殿の連れの方々も、最高の待遇で王都まで安全に送ろう」
ヴェインは、隊長の威厳を残しつつも明らかな恐れが宿っていた。
無理もない。つい数分前まで、俺が八人に分身し、笑いながら魔族を細切れにする狂気の沙汰を、彼は最前線で見ていたのだから。
「……ラナ、シャリン。行くぞ。少しはまともに休めるはずだ」
俺は短く言い捨て、宿屋の外に横付けされた、黒塗りの豪奢な馬車へと乗り込んだ。
馬車の中は、辺境の村には不釣り合いなほど、最高級の赤いベルベットの布地で覆われ、柔らかなクッションが敷き詰められていた。
ガタゴトと、車輪が荒野の赤土を踏みしめて進む音が響く。
向かいの席には、俺の一挙手一投足に過剰なまでに怯え、冷や汗を流しながら背筋を伸ばして座る隊長のヴェイン。
隣の席には、ラナと、俺の袖をギュッと強く握りしめたまま、不安そうに下を向いているシャリンが座っていた。
「……ねえ、相棒」
沈黙に耐えかねたように、ラナがそっと俺に耳打ちをしてきた。
「その、あのアリスの王都って……シャリンが行っても、本当に大丈夫なの?」
ラナの懸念はもっともだった。
宿屋の店主が言っていた通り、このアリス王国は極端な人間至上主義の国だ。他種族であるエルフのシャリンが、しかも呪いの子として追放された身で、のこのこと人間の王都のド真ん中に乗り込めば、どうなるか。
俺は、視線を窓の外の極彩色の空に向けたまま、静かに口を開いた。
「おい、隊長さんよ」
「なんでありましょうか、英雄殿」
ヴェインが、バネ仕掛けの人形のように背筋を跳ね上がらせた。
「俺は、王都で魔族を殺すための情報と権限を要求する。その対価として、お前たちの国に群がる魔族を、一匹残らず皆殺しにしてやるつもりだ」
「お、おお……! それは、国王陛下もさぞお喜びになられるかと……!」
「ただし」
俺は、ゆっくりと首を回し。
氷のように冷たく、そしてドス黒い殺意の底を覗かせる瞳で、ヴェインを真正面から見据えた。
「俺の隣にいるこのエルフの子と、女。この二人に、指一本でも触れるような真似をする奴がいたら。……それが、貴族だろうが、お前たちの崇める国王だろうが」
ゴッ……。
俺の全身から、意図的にヤマタノオロチの威圧を、ほんの一握りだけ解放する。
それだけで、馬車内の空気が物理的に軋みを上げ、赤いベルベットの座席に霜が降りた。
「首を切り落として、王城の門に吊るす。……アリスの王に、そう伝えておけ」
「……!! わ、分かった! 心して、そのように手配いたそう!」
ヴェインは、激しく頷いた。
「お、お兄ちゃん……」
シャリンが、俺の袖を握る手に、さらにギュッと力を込める。
その翠色の瞳には、恐怖ではなく、不器用な俺の守り方に対する、かすかな安堵の光が宿っていた。




