第46章:見知らぬ世界ー1
ほんの少しだけ毒々しいような、歪んだ極彩色の空の下。
ひび割れ、乾ききった赤茶けた荒野を無言で歩き続けて、すでに数時間が経過していた。
「……ハァ……ッ、ハァ……ッ、くすん……」
俺の背中で、小さなエルフの少女シャリンが、熱を帯びた、荒く細い息を吐いている。
エルフの集落から、不幸を呼ぶ呪いの子として理不尽に追い出され、何日もまともな食事も摂らずに、ただ死を待つように彷徨っていたのだ。
俺たちが出会った時、すでに彼女の小さな足は、泥と、無数の枝による擦り傷でズタズタに塗れていた。
そして先ほど、ついに限界を迎えて崩れ落ちた彼女を、俺は無言で背負い、ただひたすらに前だけを見て、一歩、また一歩と、重い足取りで歩を進めている。
大気中に、まるで目に見えない砂でも混ざっているかのように。
息をするたびに、肺の奥が重く、粘り気のある何かで満たされる。
かつてイーリス大陸の東の魔境で感じたそれを、何倍も濃くしたような、この世界の圧倒的な環境魔力。
その重圧が、疲弊しきった俺の五臓六腑を内側から締め付けていた。
「相棒、見て。……あそこ」
隣を歩くラナが、細く、だが確かに生きた温もりを持つ指先で、遥か前方を指差した。
小高い赤土の丘の向こう。
そこに、粗末な石造りの煙突から細く立ち上る、いくつかの人間の生活の煙が見えた。
「やっと人里だ……。シャリン、聞こえるか? もう少しで休めるぞ」
「う、うん……! お兄ちゃん、わたし、重くない……? が、がんばって、もっと我慢するから……だから、お願い、捨てないでね……」
シャリンが、熱っぽい吐息と共に、俺の首にしがみつく小さな小さな手に、ギュッと、ちぎれんばかりの力を込める。
その、爪が食い込むほどの必死さに。
俺は、胸が張り裂けるような、やり場のない痛みを覚えた。
呪いの子として故郷を追われた彼女の幼い心には。
「役に立たなければ捨てられる」「荷物になれば殺される」という、この理不尽な世界のルールが、すでに血肉となって刻み込まれているのだ。
「馬鹿言うな。お前は重くない。羽根を背負ってるようなもんだ」
俺は、シャリンの細い足を抱え直し、感情を押し殺した声で短く言った。
「それに、俺はな。一度拾ったものは、最後まで手放さねぇ主義だ。俺の背中で寝てていいぞ」
「……うん……お兄ちゃん……」
シャリンが、小さく安堵したように、俺の肩に額を預ける。
俺は、周囲への警戒を限界まで高めながら、目の前の、人間の境界の村へと足を踏み入れた。
村の作り自体は、俺のよく知るイーリス大陸の辺境の開拓村と、それほど変わらなかった。
だが、決定的に、そして致命的に違うものがある。
すれ違う、村人たちの目だ。
そこにいる大人も、そして泥に塗れた子供でさえも。
その瞳には、常に死と隣り合わせのような、明日の命すら諦めているような。
重苦しく、そしてひどく鋭い、排他的な疲弊と怯えが、濃く滲んでいた。
「……おい、見ろよ。……エルフのガキだぞ」
「チッ、不吉な。こんな時期に、他種族の厄介事を持ち込みやがって……」
「石を投げろ。村長を呼んで、厄介事を持ち込まれる前に、さっさと追い出せ」
ヒソヒソと、だが隠す気もない、悪意を孕んだ声が、四方八方から耳に障る。
俺は、歩みを止めた。
そして。
背負っているシャリンを、その小さな頭を、ラナがそっと自分の体で隠すようにして庇う中。
俺は、首を回して、声の主たちを、その瞳の奥を、底冷えのするような殺意を込めた眼差しで、ギロリと、ただ一瞥した。
「――――ッ!!」
俺の、かつて数え切れないほどの死地を潜り抜け、ヤマタノオロチの神王獣の威圧すらも無意識に漏れ出させた、その眼光。
ただそれだけで。
すれ違った村人たちは、まるで自分の喉元に刃物を突き立てられたかのように「ヒッ……!!」と短い悲鳴を上げ、顔を真っ青にして、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
「シャリン、フードを深く被れ。耳を隠すんだ」
「ご、ごめんなさい……わたしのせいで……また、お兄ちゃんたちを、困らせちゃって……」
「全くもって困っていないし、謝るな、と言ったはずだぞ」
俺は、村の中央にある、小さく、だが比較的頑丈そうな石造りの宿屋へと、土足で押し入るようにして転がり込んだ。
「……お前は何一つ悪くない。悪いのは、このクソみたいな世界と、臆病な大人共だ」
バタンッ!!と、宿屋の扉を乱暴に閉めると。
そこは、油と、安酒と、そして焦げた安肉の匂いが充満する、暗い空間だった。
カウンターの奥。
顔に、野獣にでも引っかかれたような大きな刀傷のある、恰幅の良い店主が、俺たちの姿を見るなり、あからさまに不快そうに舌打ちをした。
「なんだ、ただのくたびれた親子かと思えば、エルフのガキなんか連れてやがるのか。随分と、物好きな冒険者だな、兄ちゃん」
店主は、拭いていた汚れたグラスを置き、鋭い目でシャリンのフードの隙間を睨みつけた。
「ここはアリス王国でも、最も貧しい辺境の村だ。他種族、特にエルフの連中とは、国境付近で昨日まで殺し合ってたばかりなんだぜ?
そいつがその耳をしっかり隠してなきゃ、宿に泊めるどころか、今すぐ自警団を呼んで、その首を切り落とすよう通報しなきゃならねぇんだ。……分かってんのか?」
「悪いが、身の上話をしに来たんじゃない。飯と、情報を買いたい。……これで足りるか?」
俺は、カウンターの上に。
かつてイーリス大陸で、俺の装備たちが砕かれた際、服の隙間に引っかかって残っていた。
元の世界のウルシア王国で支給された最高品質の魔力鋼の欠片を、無造作に放り投げた。
コロンッ、と。
それは、粗末な木製のカウンターの上で、重く、そして美しい銀色の鈍い光を放った。
「……ッ!!」
店主の、顔の刀傷が、驚愕でピクリと跳ね上がった。
それを指先でつまみ上げ、歯で噛み、魔力の含有量を確かめると。
その目が、見る見るうちに金に飢えた獣のそれへと、露骨に豹変した。
「へへッ……。こいつは、とんでもねぇ上等な魔鉄だ……。この辺じゃ、お目にかかれねぇシロモノだぜ。
……さあ、座りな、旅の旦那! 最高の、温かい肉のシチューと、今朝焼き上がった麦パンを、これでもかってくらい出してやるよ!!」
金。
この世界でも、いや、どの世界であっても、力と並んで絶対の価値を持つ共通概念。
俺は、奥の円卓に腰を下ろし、背中からシャリンをそっと下ろした。
ラナが、すぐに彼女の隣に座り、その冷えきった小さな手を、自分の両手で包み込んで、温めるようにして擦っている。
「ほら、シャリン。遠慮しないで、いっぱい食べな。お腹が空いてたら、未来を視るどころか、明日の自分の姿すら見えなくなっちゃうからね」
「あ、ありがとう、ラナおねえちゃん……! あ、あったかい……! おいしいよぉ……!」
数分後。
並べられた、湯気を立てる温かい野獣の肉のシチューと、少し硬いが香ばしい麦パン。
シャリンは、まるで宝物でも口に運ぶかのように、ポロポロと、シチューの皿に大粒の涙をこぼしながら、必死にスプーンを動かしている。
温かい食事。
そして、自分を排斥しない、確かな他人の体温。
それが、孤独な子供にとってどれほど大きな救いになったか、その泣き顔がすべてを物語っていた。
俺は、熱い野草茶を啜りながら、カウンター越しに、店主から話を聞き出していた。
「……店主。ここから、ウルシア、あるいはオーシャンの方角はどっちだ?」
俺が元の世界、イーリス大陸の地図を思い浮かべながら尋ねると。
「はぁ? ウルシア? オーシャン?」
店主は、グラスを拭く手を止め、怪訝な顔で首を傾げた。
「なんだい、そりゃ。どこの辺境の、潰れた開拓村の名前だ? そんな国も、土地も、聞いたこともねぇな。兄ちゃん、東の向こうの、言葉も通じねぇ未開の土地からでも来たのか?」
「……イーリス大陸の、国々の名前だ。知らないのか?」
「イーリス? ますます分からん。
この世界は、一つのデカい陸がどこまでも、どこまでも繋がってるだけだ。海の多い地方はあるかもしれんが、基本的には、アリス王国、エルフの森、獣人の山岳、ドワーフの地下都市……どの種族も、この巨大な一続きの陸地を奪い合って、四六時中、どこかしらの国境で、お互いの首を切り合ってるのさ。
昨日まで不可侵条約を結んでた味方の国が、今日は平気で寝首を掻きにくる。裏切りと略奪が日常茶飯事。そういう、救いようのない時代だよ」
店主の言葉に。
俺は、心の奥で、小さく息を吐いた。
(……やはり、そうか)
ウルシアも。オーシャンも。カエサルも。バル=ゼファルも。
ここには存在しない。一つの、巨大な、そして絶え間ない争いの中にある全く別の世界。
歴史も、地形も、根本的に違う。
俺は、あの最上位貴族ロロンの手が振り下ろされる直前。
あの白い光によって。
完全に別の世界へ、ただ一人だけが、弾き出されたのだ。
逃がされたのだ。
「まあ、今は他種族との国境での小競り合いより、もっと、もっと厄介な連中が、そこら中で暴れ回ってるせいで、どこの国も他国の寝首を掻く余裕すら、なくなってきてるがな……」
店主が、重い、そして心底嫌そうなため息をつきながら。
カウンターの下から、別の汚れたグラスを取り出した。
「厄介な連中?」
俺が、何気なく聞き返すと。
店主の口から、こぼれ出た。
「ああ。ここ数年の間で、どこからか、それとも別の世界からか、ポツポツと湧き出して、知性があるのかないのか、見境なく村や砦を襲って、人間も他種族もまとめて貪り喰らって暴れ回ってる、この世のバケモノ共さ。
……魔族って呼ばれてる、連中だよ」
――ピキッ。
俺の中で。
限界まで張り詰めて、かろうじて理性という名の錆びた鎖で押さえ込んでいた何かが。
完全に、音を立てて、弾け飛んだ。
「……おい、どうしたんだい兄ちゃん。急にそんな怖い顔して――」
恰幅の良い宿屋の店主が、俺のただならぬ気配を察して言葉を詰まらせた。
だが、その声すら、今の俺の耳には雑音としてすら届いていなかった。
――ピシ、ピシシシシッ……!
俺が握りしめていた分厚い木製のマグカップが、俺の無意識の握力によって悲鳴を上げていた。
指先が、掌が、みしみしと音を立てて木肌に食い込んでいく。
店主の言う「魔族」という言葉。それが、俺の脳髄に直接、赤く熱せられた鉄の杭を打ち込んだかのように、狂暴な火花を散らした。
「……いるのか。この世界にも」
声。それは、自分でも驚くほど低く、地の底から這い上がってきたかのように掠れていた。
「おい、兄ちゃん? そ、そのコップ、割れちまう――」
バキィィィンッッ!!!
店主の言葉が終わるより早く、木製のマグカップが、耐えかねたように完全に粉々に砕け散った。
中に入っていた熱い野草茶と、鋭い木片が、俺の掌からボタボタとテーブルに、そして床へとこぼれ落ちる。
だが、熱さも痛みも、何も感じなかった。
脳髄を埋め尽くしていたのは、ただ一つ。
あの、すべてを奪われた砦の、血の海の光景だ。
ロロン。ギン。
あいつらが。
俺の大切な戦友たちを。
レイズを、ミストを、シンを、ザラを、ソーを、ジークを、カリナを。
ゴミのように、ただの玩具として蹂躙し、切り刻み、喰らい尽くした。
あの、殺しても、殺しても、どれだけ地獄に堕としても足りない、忌まわしきバケモノども。
「魔族」
その二文字が、俺の胸の奥で燻っていた生き残ってしまった罪悪感という名の残り火を、一瞬にして、すべてを焼き尽くす真っ黒な復讐の業火へと、爆発的に変貌させたのだ。
「相棒……ッ!」
ラナが、ハッとして俺の顔を覗き込んだ。
彼女の蒼い瞳が、見たこともないほどの驚愕と、そして深い懸念に揺れている。
俺の全身から、無意識のうちに漏れ出していた。
神王獣ヤマタノオロチの、そして俺自身の魂が削り出した、濃密で、ドロドロとした異常なまでの殺気。
それが、宿屋の狭い空間を、物理的な圧力となって埋め尽くしていたのだ。
ガタガタガタガタッ!!
シャリンが、持っていたスプーンを落とし、小さな体をさらに縮こまらせて、激しく震え出した。
店主は、顔の刀傷をガタガタと震わせ、恐怖のあまり声も出せないまま、カウンターの奥へと、腰を抜かすようにして後ずさっていく。
「……ああ。いる。いるんだな、ここにも」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
瞳の奥から、悲しみも、迷いも、すべての人間らしい弱さが、嘘のようにスッと抜け落ちていく。
代わりに。
ドス黒い、底なしの殺意が、全身の血管を高速で駆け巡り始めた。
その、俺の内に宿る悪魔が、完全に目覚めようとした、まさにその時だった。
――ズドォォォォォォォォォォォンッッッ!!!!!
村のすぐ外、西の境界線の方角から。
大気を、そして大地を根元から激しく揺るがすほどの、巨大な爆発音が轟いた。
「キャアアアアアッ!?」
「何事だッ!?」
外から、一瞬にして、何百人もの悲鳴と絶叫が湧き上がる。
宿屋の頑丈な石造りの窓ガラスが、外から押し寄せた見えない衝撃波によって、ビリビリと不快な音を立てて細かくひび割れた。
「ヒッ……! ま、また来やがった!! こんな真昼間から、防衛線を破って……!」
店主が、完全に腰を抜かしたまま、カウンターの下に頭を抱え込んで絶叫した。
「魔族だ!! 魔族の軍勢が、またこの村を、俺たちを喰いに来やがったんだァァッ!!」
その声を聞いた瞬間。
俺の体は、思考よりも早く、出口へと向かって動いていた。
「ラナ! シャリンを見ててくれ」
俺は、腰の魔剣ムラマサの柄に、そっと、静かに右手を当てた。
振り返ることはしなかった。
声は、自分でも驚くほど冷たく、完全に凪いでいた。
「相棒! あたしも行く! 今の相棒は、冷静じゃない!」
「いい。ここにいろ」
俺は、宿屋の重い木製の扉に手をかけた。
「……俺一人で、十分だ。これは……俺の、戦いだ」
ガシャァァンッ!!
俺は、宿屋の扉を蹴り破るようにして、外へと飛び出した。
悲鳴と、怒号と、そして大気を焦がす火薬と瘴気の匂いが、鼻腔を暴力的に突き刺す。
俺は、その絶望が渦巻く爆音の方角へと向かって、一直線に、地獄の蓋をこじ開けるために、大地を蹴って疾走した。
外へ飛び出した俺の視界に、瞬時に飛び込んできたのは。
凄惨という言葉すら生温い、文字通りの地獄絵図だった。
村の外れに広がる、開けた赤茶けた荒野。
そこには、数十体にも及ぶ、異形、魔族の軍勢が。
耳障りな、人間を、命を嘲笑うような笑い声を上げながら、防衛線を文字通り踏み潰して侵攻してきていた。




