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第45章:転調の唄ー2

 俺は、ゆっくりと上体を起こし、実体化したラナを改めて見た。


 透き通るような肌。


 泥だらけになってもなお美しい銀糸の髪。


 心配そうに俺を見つめる、深い蒼の瞳。


 あの、エドラ王国の剣聖カシアンによる非道な裏切りの悲劇以降。


 ずっと胸元のペンダントから声だけを聞いていた、俺のたった一人の大切な相棒が。


 今、こうして目の前に確かな実体を持って存在し、また直接触れ合うことができる。


 それは、本来ならば、飛び上がるほど嬉しい、奇跡のような出来事のはずだった。


 だが。


「……ッ、う、ああああ……」


 彼女の生温かい体温を。


 その生きた証を感じれば感じるほど。


 俺の脳裏に、あの砦に残してきた、仲間たちの冷たさが。


 鮮明な、あまりにも鮮明な痛みとなって蘇ってくるのだ。


「俺は……」


 俺は、両手で顔を覆った。


 泥だらけの指の間から、止めどなく、熱い涙が溢れ出す。


 声は、肺の底で押し潰されたように、ひどく、無様に震えていた。


「俺は、救えなかった……。あんなに、あんなに最強の奴らが揃って、絶対に勝てるって信じて……。


 なのに、あんな……手一つで全部消されるような、あんなバケモノの前に……俺の力は、力なんて、何の役にも立たなかった!!」


 ダンッ!!


 俺は地面を、血が滲むほど強く拳で叩いた。


 乾いた赤茶けた土が舞い、拳の皮が破れて血が流れるが、心の痛みに比べれば全く何も感じなかった。


「みんな、死んだ。俺が……俺だけが、あそこで……。


 俺だけが、あいつらを見捨てて、ここに逃げてきたんだ……ッ!! こんな命に、何の意味があるんだよ!!」


 俺を慰める言葉など、この世のどこにも存在しない。


 俺は、取り返しのつかない絶対的な敗北を喫し。


 友たちの死体を踏み台にして、この見知らぬ土地に、ただ生き恥をさらしに来ただけなのだ。


 すると。


 ラナがそっと近づき。


 俺の背中に、その小さく、だが驚くほど力強く温かい腕を回した。


「……相棒のせいじゃない。誰にも、そんなこと言わせない」


 俺の背中に顔を埋めた、ラナの声も。


 微かに、だが確かに震えていた。彼女だって、共に過ごしたカリナやジークたちの死が、辛くないはずがないのだ。


「悔しいけど……あたしたちは、あいつに完敗した。でも、相棒。あたしたちは生きてる。あの光が何だったのかは分からないけど、世界が相棒を、まだ生かしたの」


 ラナの腕に、力がこもる。


「……だから、お願い。自分を責めて、心まであいつに負けないで」


 俺は、ラナの言葉に、声を出して赤ん坊のように慟哭した。


 荒野の片隅。吹き抜ける毒々しい風の音に紛れるように。


 俺たちはただ静かに、引き裂かれた魂の痛みに耐え続けた。


 どれくらい、そうして絶望の泥の中に沈んでいただろうか。


 陽が傾き、プリズムのように歪んでいた極彩色の空が、血と毒を混ぜ合わせたような薄紫に染まり始めた頃。


 不意に。


 カサリ、と。


 背後の荒野の枯れ草を踏む、極めて慎重で、だがどこかたどたどしい足音がした。


「……本当に、あの森から、人間が生きて出てくるなんて……」


 ――ッ!!


 ハッとして顔を上げた俺は、涙で濡れた顔のまま、反射的に腰の魔剣ムラマサの柄を握りしめた。


 先ほどまで絶望に沈んでいた心が、一瞬にして殺意と生存本能へと切り替わる。


 新手か。それとも、エルフの追っ手か。


 俺は油の切れた膝を無理やり跳ね上げ、音のした方角――数メートル離れた大きな岩の陰へ向けて、ドス黒い殺気を叩きつけた。


「誰だッ!!」


 俺の咆哮に。


「ひ、ひいぃっ!!!」


 岩の陰から、ひどく怯えた、小さな小さな悲鳴が上がった。


 そこに立っていたのは。


 先ほど森で俺たちを容赦なく追い立て、毒矢を放ってきたエルフたちと同じ、長く尖った耳を持つ一人の少女だった。


 だが、その外見は、森の暴漢たちとはあまりにも異なっていた。


 透き通るような、銀に近い金色の髪。


 そして、人間で言うとまだ五歳かそこらにしか見えない、ひどく痩せ細った小さな体躯。


 身に纏っている貫頭衣のような粗末な服は、あちこちが木の枝で破れて泥で汚れ、その大きな翠色の瞳には、森のエルフたちが抱いていた凶暴な敵意は微塵もない。


 あるのは、小動物のような怯えと。


 そして、どこか切実な興味が混じったような、純粋な光だけだった。


「お前は……さっきの、あの森の連中の仲間か?」


 俺は柄から手を離さず、いつでも首を刎ねられるように重心を低く保ったまま、低く唸った。


 今の俺は、仲間をすべて殺され、神経が完全に焼き切れている。子供だろうが女だろうが、敵対するなら一瞬で斬り捨てる。それだけの狂気が、今の俺の目には宿っていたはずだ。


 その殺気に当てられ、少女は腰を抜かし、慌てて両手を顔の前に突き出して、ブンブンと激しく首を横に振った。


「ち、違う! シャリン、戦えない……! 武器も持ってないもん……! それに、あいつらとは……あの森のやつらとは、もう仲間じゃないから……!」


「…シャリン…… 仲間じゃない?」


 俺が訝しげに眉をひそめると、隣で警戒していたラナが、スッと光剣を下げ、穏やかな表情を作って少女へと一歩歩み寄った。


「仲間じゃないって、どういうこと? あなた、エルフでしょ?」


 少女は、ラナの優しい声に少しだけビクッと肩を震わせた後。


 寂しそうに目を伏せ、自分の尖った耳を、まるで恥ずべき忌まわしい傷跡であるかのように、そっと両手で隠そうとした。


「昨日、追い出されたの……」


「追い出された?」


「名前、シャリン。……シャリン、少しだけ未来が勝手に視えちゃうの。でも、里では……その能力のせいで、不幸を呼び寄せる呪いの子だって言われて……。昨日、長老様に二度と戻ってくるなって、森の外に放り出されたの」


 未来が、視える。


 その言葉を聞いた瞬間だった。


 俺の心臓に、錆びたナイフを根元まで突き立てられたような痛みが走った。


 未来を視る能力。


 俺の脳裏に、あの砦の宴の夜が鮮烈に蘇る。


 焚き火の前で、前髪をいじりながら、未来への希望を語っていた、オーシャンの若き戦士、ショウ。


 彼もまた、未来を視る聖剣エクスの力で、相棒のリクと共に、幾度となく仲間の命を救ってくれた。


 知的で、大人びていて、ジークに優しく接していた、あのショウの賢明な横顔。


 ……その彼は、今、どうなっている?


 シンは、ちゃんとあの二人を逃がせただろうか。


 アイツのことだ、念には念を入れ、命をかけてでも少しでも逃げる可能性が上がるように盾になっているだろう。


「あ……くそっ……」


 俺は、柄から手を離し、心臓を強く押さえてその場にうずくまった。


 フラッシュバックが止まらない。


 救えなかった命の重さが、言葉の端々から連想ゲームのように蘇り、俺の精神を徹底的に破壊しにかかってくる。


「さっき……」


 シャリンが、うずくまる俺を見て、おずおずと、消え入りそうな声で言葉を紡いだ。


「森の境界に、すごく不気味で、でも……すごく悲しい光を纏った人間が逃げてくる未来が、視えたから。……気になって、つい、見に来ちゃった。ごめんなさい」


 シャリンの大きな瞳が、申し訳なさそうに揺れている。


 彼女の未来視に映った、俺の姿。


 それはきっと、この世の終わりのような顔をして、仲間を見捨てて尻尾を巻いて逃げ出した、ただの惨めな敗残者の姿だったに違いない。


「……謝る必要はない」


 俺は、自身の情けなさを隠すように、血の味がする口内で自嘲気味に吐き捨てた。


「お前の視た通りだ。俺たちは、ただ道に迷って、すべてを失って逃げてきただけの、無様な敗残者だ。ここがどこなのかも、これっぽっちも分かっちゃいない。……お前の不幸を払ってやれるような力なんて、残っちゃいないんだ」


 俺の卑屈な言葉に。


 シャリンは、なぜか少しだけ、本当に少しだけ、ホッと安堵したような、柔らかい顔をした。


「帰る場所が、ない。……シャリンといっしょ」


 帰る場所がない。


 その言葉が、薄紫の空の下に、ぽつりと落ちた。


 俺とラナは、無言で顔を見合わせた。


 仲間の死を悼み、悲しみに暮れて、過去の絶望に浸っているだけでは、この魔力に満ちた見知らぬ世界で野垂れ死ぬだけだ。


 生き延びてしまった以上。


 この呪わしい命を、ラナが間一髪で繋いでくれた奇跡を無駄にしないためには。


 這いつくばってでも、泥水をすすってでも、前へ進むしかない。


 まずは、ここがどこなのか。あるいは、本当に別の世界なのか。この世界を知る必要がある。


「なあ、シャリン」


 俺は、震える膝に力を入れ、ゆっくりと立ち上がった。


 そして、岩の陰で小さくなっている幼いエルフの少女へ向けて、泥と自分の血で汚れきった右手を、不器用な手つきでスッと差し出した。


「俺たちはこれから、人が住んでいる街や村を探して歩こうと思う。……もし、お前が行くあてがないなら、俺たちと一緒に来るか?」


 俺のその言葉に。


 シャリンの、絶望と孤独に沈んでいた翠色の瞳が。


 パァッと、暗闇にランプの火が灯ったように、弾けるように明るく輝いた。


「い、いいの……!? 魔力も弱いし、足手まといになるかもしれないのに……! それに、呪いの子だよ!?」


「気にするな」


 俺は、無理やり唇の端を吊り上げ、引きつった笑みを作った。


「俺も今、心が粉々に折れかけててな。一人でいると、自分の弱さと過去の罪悪感に押し潰されて、狂いそうなんだ。誰かの声が、前を向くための理由が……今の俺には、必要なんだ」


「相棒……」


 ラナが、嬉しそうに、そしてどこか誇らしげに目を細めて微笑んだ。


「……うんッ!!」


 シャリンが、小さな両手で、俺の血まみれの大きな手を、ギュッと力強く握り返した。


「よろしくおねがいします、お兄ちゃん!!」


 その手の温かさが、完全に凍りついて死にかけていた俺の心臓に、ほんの少しだけ、熱を与えてくれた。


 すべてを失い、それでも絶望の底でもがく、異世界からの転移者。


 環境魔力によって奇跡的に肉体を得た、かつて命を奪われた相棒、ラナ。


 そして、未来視の能力ゆえに故郷を追われた、孤独なエルフの少女、シャリン。


 失ったものの重さを背負った、奇妙で、いびつな三人組は。


 見知らぬ世界の、毒々しい夕日に染まる荒野を。


 新たな、そして想像を絶する過酷な運命の待つ先へと。


 今はただ当てもなく、ゆっくりと歩き始めた。

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