第45章:転調の唄ー1
「――起きて! ねえってば、相棒ッ!!」
バッシバシに、遠慮のない力で両頬を叩かれる鋭い痛み。
そして、金属で硬い甲殻を無理やり叩き割ろうとするような、「キンッ、キンッ!」という甲高く焦った音が、深い泥の底に沈んでいた意識に強引に響き渡った。
急速に意識が浮上する。
鉛のように重く、血で張り付いた瞼を、歯を食いしばってこじ開けた。
視界に飛び込んできたのは――。
あの、すべてを飲み込む漆黒の絶望でもなければ、砦の石畳を赤く染め上げていた血の海でもなかった。
砦の空を覆い尽くしていた、赤黒い瘴気など、一切存在しない。
そこにあるのは、むせ返るような濃密な緑の匂いと、瑞々しい木漏れ日が立ち込める、果てしなく深い森の光景だった。
「やっと気づいた!? 相棒! 寝てる場合じゃない、動けるなら今すぐ動いて! ここ、ヤバいよ、逃げるよ!!」
俺の顔を、文字通り鼻先が触れ合うほどの至近距離で覗き込んでいたのは。
酷く懐かしい。そして、今の今まで、俺の命を物理的に一つに共有していたはずの、銀髪の少女だった。
透き通るような、白い肌。
月光をそのまま紡いで絹糸にしたような、美しい銀の髪。
そして、深い海のような蒼い瞳。
少女は、その小柄で華奢な体を、俺の上にすっぽりと覆い被せるようにして。
右手に握った、純白の魔力の塊のような光の剣で、四方八方から飛んでくる何かの攻撃から、俺を懸命に庇っていたのだ。
「お前……」
俺の掠れた声が、喉の奥から漏れる。
夢か。いや、幻覚か。
「なんで、体が……! ラナ……!」
「そうだよ! 私だよ! 感動の再会と、この状況の説明は後!! 来るよッ!!」
――ヒュンッ!!
ラナが悲鳴のように叫んだ直後。
空気を裂く、鋭く嫌な風切り音と共に。俺たちの顔のすぐ横、太い木の幹に、毒々しい紫色の羽根がついた矢が、ドスッ!と深く突き刺さった。
鏃の先端からは、ジュウウウ……と、木の皮を瞬時に腐らせるほどの強烈な酸性の猛毒が溶け出している。
弾かれたように俺は身を捩り、視線を矢の飛んできた方向へ向けた。
鬱蒼とした木々の隙間。影に溶け込むようにして、弓を構えた複数の影が展開している。
長く尖った耳を持つ、エルフ。
だが、彼らの瞳は、かつて共に戦い、背中を預けたあのライーオのような、誇り高き森の民が持つ気高いものではなかった。
獲物を見るような。いや、家に突然現れたゴキブリを見るような、ひどく野蛮で、排他的で、殺意と嫌悪を剥き出しにして、こちらを睨みつけていたのだ。
『■■■■■!! ■■■■■■■!!』
木の上に潜むエルフの一人が、未知の言語で何かをヒステリックに叫んだ。
発音も、文法も、これまでイーリス大陸で聞いてきたどんな言葉とも、根本的に違う。
耳障りな不協和音。金属を擦り合わせるような、威嚇の音声。
だが、数瞬遅れて。
その言葉の意味が、俺の脳内に直接日本語として変換され、はっきりと理解できた。
『どこから入った、人間! この神聖なる森は、穢れた人間が足を踏み入れていい場所ではない! その汚い肉を、串刺しにして聖樹の肥やしにしろ!』
(……わかる。……言葉が、わかるぞ)
かつて。
俺が現代の日本から、あの理不尽なイーリス大陸へ放り出された時に、唯一と言っていいほど初期に備わっていた、転移者特有の自動翻訳。
それが、この全く見知らぬ土地でも、正常に機能している。
ということは。ここは、死後の世界なんかじゃない。
俺は確かに生きていて、別の土地へまた、転移したのだ。
『出ていく! 出ていくから! だから、これ以上攻撃しないで!』
ラナが、光剣でエルフたちが執拗に撃ってくる猛毒の矢を「キンッ!キンッ!」と弾き落としながら、必死に叫んだ。
彼女の口から発せられた言葉も、エルフたちの未知の言語に自動で変換されて伝わっているようだった。
かつて命を奪われ、俺の武装化の核として魂だけになったラナ。
彼女がなぜ肉体を得ているのかは謎だが、俺と魂を共有しているからか、実体化した彼女自身も俺の自動翻訳の恩恵を受けているらしい。
だが。
言葉が通じたところで、彼らの放つ殺意の矢は、一本たりとも止まらなかった。
『問答無用!! 穢れた人間は、生かしてはおけない! 侵入者には、死あるのみ!!』
エルフたちの憎悪に満ちた瞳は微塵も揺るがず。
交渉の余地など一切ない、見つけ次第駆除する害獣だと言わんばかりに、再び十数本の弓がギリギリと引き絞られる音が、森中に響いた。
「クソッ……言葉が通じても、対話する気はゼロかよ! ここのエルフは、シルアよりもずっと野蛮で閉鎖的だな!」
俺は、全身の骨がバキバキと軋むような激痛を堪え、無理やり身体を叩き起こした。
自身の身体を見下ろす。
ボロボロだ。俺の肉体を守り、限界を突破させていたはずの【クリスタルワイバーン】も【アークサーペント】も【黒竜】も、武装化はすべて砕け散り、跡形もない。
体力も完全に底を突いている。
ただ一つ。
俺の腰にぶら下がる、因果律を書き換える黒い刀――魔剣ムラマサだけが、頼りだった。
そして、俺の命を限界まで絞り尽くして起動した神王獣ヤマタノオロチのベルトも、今はただの古びた革ベルトのように沈黙している。
「いくよ! 相棒! 戦える状態じゃない! とりあえず走るよ! こっち!」
「あ、ああ……ッ!!」
ラナの小さな、だが驚くほど力強く、そして温かい手が、俺の泥だらけの手首をガシッと掴む。
彼女に手を引かれるまま、俺は鬱蒼とした見知らぬ森の奥へと、無様に駆け出した。
ヒュンッ! ドスッ!!
背後から容赦なく飛んでくる毒矢の雨を、太い木々を盾にして、泥を這うようにしてやり過ごす。
死に物狂いで走りながら。
俺の頭の中は、現状の理解を拒むような、凄まじい情報の濁流に完全に呑み込まれていた。
ここは、どこだ。
俺はいったい、どうなったんだ。
そして――あの時。砦で、何が起きた?
そこまで思考が回った瞬間。
精神崩壊を防ぐため、俺の防衛本能が脳の奥底に分厚く蓋をしていた数刻前の記憶が。
残酷なまでに鮮明なフラッシュバックとなって、俺の脳髄を、内側から直接焼き焦がしたのだ。
――『私が既に、貴様以外のすべての塵を葬っていることにすら、気づけないとはな』
最上位貴族ロロンの。
退屈そうな、作業を終えた清掃員のような、死の概念そのもののような冷たい瞳。
俺の脳髄を、極彩色の映像と、生々しい血の匂いが駆け巡る。
視界の端で、無惨に砕け散っていた純白の騎士剣。
無敵を誇った、あのカリナが。俺に背中を預けてくれた、第四王子ソーが。
冷徹に弓を引いていたライーオが、震える足で必死に立ち向かっていたジークが。
そして。
上半身を根こそぎ削り取られたレイズとミスト。
首を落とされた、クラファスとリリアノート。
鉄の棺桶の中で挽肉にされたガルド。胸に大穴を開けられたザラ。
砦の広場に広がっていた、巨大な血の海。
そこに沈む、誰のものかも分からない肉塊の山。
俺の命と魂を削って発動した全武装化すらも、ロロンの前ではただの微風に過ぎず、虚しいチリとなって消え去った。
「あ、ああ……アァァァァッ……!」
走りながら、俺の口から、獣が喉を潰したような、血の混じった呻き声が漏れた。
胃の内容物が、強烈な拒絶反応と共に逆流しそうになるのを、奥歯を噛み砕くほどの力で必死に噛み殺す。
あの絶体絶命の瞬間。
ロロンの手刀が振り下ろされ、俺の首が飛ぶ直前に、俺を包み込んだ白い光。
やはりあれは、別の世界への転移だったのだ。
ロロンの攻撃の直前、運良く。
いや、運良く、ではない。
運悪く、生き延びてしまった。
俺だけが、あの血みどろの地獄から、無様に逃げ出してしまったのだ。
最悪の敵から逃れられたという安堵など、微塵も存在しない。
ただ、仲間を守れなかったという絶対的な無力感と。
あの世界を、あいつらを置き去りにして、自分だけが助かってしまったという罪悪感が。
冷たく、巨大な手となって、俺の心臓を鷲掴みにし、グチャグチャに握り潰してくる。
「相棒、しっかりして! 今は走って! 呑まれちゃダメ!!」
ラナの小さな手が、俺の腕をさらに力強く、強引に引っ張った。
その、確かな体温。
人間としての、柔らかい肉体の感触。
狂いそうになる意識を、俺はギリギリのところで、彼女のその手の温もりだけに縋り付き、現実に繋ぎ止める。
俺は今、ここで立ち止まって絶望に呑まれる権利すらない。
命を散らした仲間たちに対する、それは最大の裏切りだからだ。
数十分後。
肺が焼けるような熱を帯び、心臓が肋骨を内側から突き破らんばかりに早鐘を打つ中。
俺たちはようやく、鬱蒼と茂る死の森の境界を抜け、赤茶けた大地が果てしなく広がる、開けた荒野へと転がり出た。
ザザザッ!と、乾いた土煙を上げて地面を滑る。
背後を振り返るが、追っ手のエルフたちは、森の外までは追ってこないようだった。
彼らは境界線の手前、影の落ちる木々の暗がりから、忌々しそうに、そして外の世界の何かに怯えるような視線でこちらを射抜くと。
弓を下ろし、音もなく森の奥へと消えていった。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ……ガハッ!」
俺は、その場に仰向けに倒れ込み、胃の底からせり上がる血の混じった唾と胃液を、赤茶けた土の上に吐き出した。
呼吸をするたびに、喉から血の味がする。
そのまま、力なく空を見上げた。
そこにあるのは、イーリス大陸の防衛砦で見慣れた、あの青空ではない。
大気中の異常な魔力が乱反射しているのか。ほんの少しだが、プリズムのように歪んだ、どこか毒々しささえ感じる極彩色とも言える、不気味な空だった。
隣では、ラナも膝に手をつき、激しく肩で息をしながら、草の上にへたり込んでいる。
「ラナ……お前、どうして……。なんで、体が。お前は……命を失ったはずじゃ……」
荒い息を整えながら。
俺は、震える泥だらけの指先で、隣にいる彼女の、白く細い肩にそっと触れた。
……温かい。
脈を打っている。
確かに、そこに命がある。
ラナは、自分の白く小さな手や、地面を踏みしめる素足を、まるで初めて手に入れた精巧な人形を検分するように、不思議そうに見つめ、コテンと首を傾げた。
「……わからない。でもね、相棒。……気づいてる? この世界、魔力濃度が異常に高いの。イーリス大陸の、魔族復活の大穴から吹き出してたあの瘴気なんて、ただの微風に思えるくらいにね」
ラナは、その場で深呼吸を一つした。
ただそれだけで、彼女の全身から、純白の魔力の粒子がキラキラと、蛍の光のように美しく溢れ出した。
「息をするだけで、身体の中に魔力がパンパンに詰まっていくみたいな感じ。……たぶん、この異常なまでの環境魔力が、魂だけになってたあたしに、強引に肉体を与えてるんだと思う。
相棒のペンダントに引きこもって装飾品でいるよりも、こうして実体化したほうが、魔力効率がいいくらい、この世界が魔力で満ち満ちてるの」
「魔力濃度が……」
確かに言われてみれば。
立ち上がろうとすると、全身を水圧の強い深海の中に沈めたような、独特の重みを肌で感じる。大気そのものが、粘り気を持っているような感覚だ。
イーリス大陸のどの魔境、どの聖域すら比較にならない。
ここは、魔術的な理が根底から全く異なっている、正真正銘の別の世界だ。




