第44章:魔王軍最上位貴族ロロンー2
「貴様、今……時に干渉したな?」
――ッ!!
俺の全身の血が、一瞬で沸騰し、そして次の瞬間、絶対零度に凍りついた。
ばか、な。
この世界に降り立ってから、ただの一度として。どんな魔族であろうと、あのローディオでさえ、誰一人として正確に感知できなかった、ムラマサの因果律を書き換える絶対能力を。
こいつは、ただ一度見ただけで、完全に知覚し、感知したのだ。
神の領域の能力を。
「うおおおおおおッ!!」
「喰らえェェェェェェッ!!」
俺が戦慄に完全に凍りついたその一瞬。
後方から、俺の制止を無視して、ライーオの放った聖樹の怒りを込めた剛矢と、ジークのヒナワから放たれた極大出力の純白の熱線が、同時にロロンへと殺到した。
空間を切り裂く、必殺の二撃。
だが、ロロンは俺から視線を外すことすらなく。
飛んできた神速の矢と、あらゆるものを溶かす高熱の光を。
自らの周囲に展開した目に見えない空間障壁で、まるで飛んできたゴミでも払うかのように、呆気なく、無造作に叩き落としたのだ。
パラパラ……と、聖樹の矢が炭となって崩れ落ちる。
そして。
「……?」
俺の背後で。
信じられない、悍ましい音がした。
――ズッ……、ベシャァァァッ。
俺が全力で制止し。
その命を守るために、彼らの前に立ち、突撃を止めたはずの。
レイズと、ミスト。
「レイズ……? ミスト……?」
俺は、錆びついた機械のように、ギギギッと首を回して振り返った。
そこにいた二人の上半身が。
先ほど俺が巻き戻す前の世界で視た光景と、まったく同じように。
胸から上が、物理法則を完全に無視して消滅し、下半身だけが血の海の中に崩れ落ちていた。
「嘘、だろ……」
俺の制止など、何の関係もなかった。
距離も、タイミングも、過去への介入も、何の意味も持たなかったのだ。
ロロンが殺すと宣告し、確定した瞬間。
その死は、抗いようのない事象として、距離も時間も無視して、この現実へと冷酷に強制的に押し付けられるのだ。
因果関係などない。
死ぬという結果だけが、そこに発生する。
「ふざけるな……。ふざけるなッ! もう一度だ……もう一度……ッ!」
俺が血走った目で、発狂しそうになりながら、再び魔剣ムラマサの柄に手をかけようとした、その刹那だった。
――ガッ!!
「ガハッ……!?」
いつの間にか、俺の目の前。ゼロ距離に移動していたロロンの青白い片手が。
俺の首を強引に掴み上げ、空中に吊るし上げていた。
「これ以上の小細工は無用だ、転移者よ。時の理に縋るなど、脆弱な生物の証拠」
「ガハッ……アァァァァッ!!」
首の骨がミシミシと軋み、肺から空気が雑巾のように搾り出される。
視界が急速に白濁し、ブラックアウトしていく。
「オラァァァァァァッ!!」
「ハァァァァァァァッ!」
横から。
右腕を神王獣化させたソーと、光輝を纏った聖騎士カリナが、二人同時にロロンの死角から決死の特攻をかける。
俺を助けるため。仲間たちの仇を討つための、文字通り命を捨てた一撃。
「邪魔だ。這いつくばれ」
ロロンは、俺の首を片手で掴んだまま、もう片方の手を無造作に、ただ裏拳で一閃させた。
ただの裏拳。
だが、それが、ソーの神王獣の腕とカリナの光剣を、まるで重戦車が三輪車を撥ね飛ばすかのように、容易く粉砕して跳ね返した。
バキバキバキィィッ!!
ソーの神王獣化した巨大な右腕から、嫌な骨の砕ける音が響き、カリナの光剣が粉々に砕け散る。
二人は弾丸のような速度で後方の建物の石壁へと吹き飛ばされ、深く陥没して血を吐いた。
「……くっ、ソー!! カリナ!!」
ロロンの手から、ゴミのように投げ捨てられるように逃れた俺は、石畳を転がり、激しく咳き込みながら必死に距離を取る。
頭の中で、最悪のカウントダウンが鳴り響いていた。
一、二、三、四、五。
(……レイズ。ミスト……)
五秒、経過。
魔剣ムラマサの、巻き戻しの限界点。
もう、この世界が、二人の生存をやり直すことは。
二度と、絶対に、叶わない。
「あ、あああ……アァァァァァァァァッ!!!」
俺の目から、沸騰したような熱い血の涙が溢れ出し。
絶望と、そして無力な自分自身への極限の殺意を込めた、獣のような叫びが喉を裂いた。
「殺す……絶対にお前を、ここで殺すッ!! ラナ! よこせッ!! 全部だ!! 俺の命も、魂も、全部持っていけェェェッ!!」
血の涙を流す俺の絶叫に。
ペンダントの中で、ラナもまた、友を殺された悲しみと怒りに震えながら応えた。
『了解、相棒!! ……いくよ、全武装化ッ!!』
俺は、持てるすべての力を、己の命と魂を燃料にして解放した。
【クリスタルワイバーン】の絶対防壁が、血塗られたガラスのように俺の両腕と胸部を覆う。
【アークサーペント】の紫電の雷刃が、大気をプラズマ化させてバチバチと荒れ狂う。
【黒竜】の禍々しい漆黒の魔力が、ジェットとなって俺の背中で爆炎を上げる。
さらに――。
俺の腰に巻かれた、神王獣の力を宿すベルトのバックルが、獲物を狙う蛇の眼のようにドス黒く赤く発光し、狂気的な瘴気を放って展開した。
「喰らい尽くせェェェッ!! ヤマタノオロチ!!!」
瞬間。
俺の身体が、物理的な限界と細胞の理を超越して、八つにブレ、完全に分裂した。
神王獣ヤマタノオロチの武装化。
それは自身の魔力と存在そのものを均等に分割し、八つの首の如く八人の俺を完全に顕現させる最強の能力。
そこに、ラナの二十倍バフを受けた、フル武装の八人の俺。
その圧倒的な殺意の圧が、血の海と化した砦の広場を完全に埋め尽くした。
「いけぇぇぇぇッ!!」
ボロボロになりながらも立ち上がったソーと、折れた剣の柄を握りしめるカリナ。
彼らと共に、八人の俺が、死の螺旋を描きながら、決死の猛攻をロロンへと叩き込んだ。
紫電の雷刃が空を斬り裂く。
ソーの神王獣の腕が、石畳ごと大地を叩き潰す。
カリナの残された僅かな光の魔力が、死角から舞う。
上空からは、ライーオの聖樹の矢と、ジークのヒナワの熱線が、雨霰と降り注ぐ。
閃光と衝撃波が、砦を物理的に解体し、大地を深く抉る。
命を燃やし尽くす、文字通り人類の限界を超越した、全方位からの完全包囲殲滅攻撃。
これで死なない生物など、この世に存在してはならない。
――だが。
「……数だけを増やしたところで、羽虫の群れに変わりはない」
ロロンは。
絶対的な死は。
涼しい顔で、そのすべての攻撃を、ただの腕一つで、あるいは最小限の足運びだけで、嘲笑うように捌き、逸らし、弾き落としていく。
ドゴォォォッ!!
一人の俺の分身が、見えない一撃で腹に風穴を開けられ、消滅する。
バキィィッ!
また一人が、目視すらできない不可視の蹴りで、肉体を粉々に粉砕される。
「ガァァァッ!!」
ソーの神王獣の腕が、ロロンの掌底一つで根本から引き千切られ。
「きゃああっ!」
カリナが、不可視の衝撃波で再び壁に叩きつけられる。
ロロンは、汗一つかいていない。息すら乱れていない。
人類の最強たちが。
能力のすべてを注ぎ込んだ決死の反撃が。
神の如き魔族にとっては、ただの微風にすらなっていなかった。
「ガハッ……ハァ……ッ、ハァ……ッ」
数分間の、一方的な殺戮の末。
本体以外の7人いた分身はすべて霧散し、本体である俺はついに両膝をつき、肺の奥からせり上がってきた血の混じった唾を、地面に吐き捨てた。
気力も、体力も。
もはや一滴も残っていない。視界が真っ赤に染まり、指先一本動かすことすら地獄のような苦痛だった。
「……みんな、逃げろ……!! ここは、俺が…! 時間は、俺が稼ぐから……早く、行けッ!!」
俺は、後ろを振り返ることもできず、喉からドクドクと血を流しながら、掠れた声で叫んだ。
ソー、カリナ、ライーオ、ジーク。
彼らだけでも、生き延びてくれれば。
だが。
――何の、返事もなかった。
あるのは、重苦しい静寂。
そして、魔境の冷たい夜風の音だけが、虚しく俺の耳を通り過ぎていくだけ。
「……おい みんな……」
「貴様、夢中になりすぎだ。目の前の私と。……そして、己の身の丈に合わない怒りにな」
ロロンの、ひどく冷たい、哀れみすら含んだような無機質な声が、俺の頭上から降ってきた。
「私がすでに、貴様以外のすべての塵を葬っていることにすら、気づけないとはな」
「…………え?」
俺は、恐ろしさに身体をガタガタと震わせながら、ゆっくりと。
油の切れた、錆び付いた機械のように、ギギギッと首を回して、背後を見た。
俺の、眼に映ったのは。
カリナ。ソー。ライーオ。ジーク。
そこにいた、俺の信じた仲間たちの全員が。
首を。
腕を。
胴体を。
あるいは、その存在すべてを。
無残に、物言わぬ肉塊として切り離され。
砦の広場に拡大し続ける巨大な血の海の中に、沈んでいた。
誰一人として、動く者すら、いない。
「あ…………ぁ…………」
言葉にならない音が、ただ口からこぼれる。
その事実を。俺の脳が現実として認識し、理解するのに、たった五秒が必要だった。
だが、その絶望の五秒間の間に。
限界を超えて酷使され続けた『クリスタルワイバーン』、『アークサーペント』、『黒竜』の武装化は、その役目を終えるように、サラサラと虚しいチリとなって風に消えていった。
ただ一つ、腰のベルトという形をとった『ヤマタノオロチ』だけが、ボロボロにひび割れながらも、かろうじて俺の腰に残っている。
俺は、力なくその場に、血の海の中へと崩れ落ちた。
意識が、急速に遠のいていく。
何も、残っていない。
勝てるわけがなかった。
希望など、最初からこの世界には無かったのだ。
見下ろすロロンの瞳には、怒りも、愉悦すらなかった。
ただ、ひたすらに、邪魔なゴミの掃除という作業を終えた後のような、冷たい光があるだけ。
「ふむ……これが聖剣と魔剣を有した者たちの末路か。一抹の可能性、魔王様に届きうる牙かと思い、警戒した自分が心底嫌になる。……全くの、時間の無駄だったな」
ロロンが、ゆっくりと右手を高く上げる。
絶対的な、死の宣告。
「散れ、転移者。……塵に混じるがいい」
ロロンの手が、一気に振り下ろされた。
「あああああァァァァァァァッッッ!!!」
俺の、喉をかき毟るような、悲痛で、惨めで、どうしようもない絶叫が魔境の夜に響き渡る。
俺の首が飛ぶ。
世界が、漆黒に染まり――。
――カッ!!
その瞬間。
視界のすべてを、いや、世界そのものを奪い去るほどの、眩しすぎる白い光が弾けた。
想像していた、肉体が削り取られるような、首を断ち切られる痛みはない。
代わりに、急速に意識が浮上し、先ほどまでの濃厚な血の臭いと、瘴気の匂い、魔境の凍えるような温度が、するりと皮膚から消え去っていく。
(……この、感覚……)
忘れるはずがない。
かつて。
俺が現代の日本から、この見知らぬ異世界へと放り出された時と、全く同じ感覚。
空間が歪み、世界が反転するような浮遊感。
光が収まる中、俺の意識は、温かく、そして底なしの暗闇へと、ゆっくりと沈んでいった。




