第44章:魔王軍最上位貴族ロロンー1
神王獣クラスのバケモノに化けた、相棒とも呼べる最高の武具たち。
それを、血反吐を吐き、魂をすり減らしながらもなんとか鎮圧し、砦にようやく勝利の安堵の空気が戻りかけた。
誰もが一瞬だけ、本当に数秒だけ、肺に新鮮な空気を入れようと深く息を吐いた、その直後だった。
「ふぅ……。さ、気を取り直して。みんなボロボロじゃない。あたしが治癒力増強の回復バフを掛け――」
――ドサリ。
ザラの、艶やかで、大人の色気に満ちたその優しい声は。
最後まで紡がれることはなかった。
なんの音も。
風の揺らぎも、前触れも、気配すらもなく。
先ほどまで俺たちに極大のバフを掛け、絶望的な戦場を支配し、勝利の笑みを浮かべていたバル=ゼファルの特級冒険者が。
まるで、操り人形の糸を乱暴にハサミで断ち切られたかのように、何の前触れもなく、前のめりに石畳へと倒れ込んだのだ。
「……は?」
俺の口から、間抜けで、ひどく間の抜けた声が漏れた。
倒れ伏したザラの、露出の多い砂漠の衣装から覗く、美しい褐色の背中。
そこに、ぽっかりと。
背中から心臓、そして肺にかけてを、一切の抵抗を許さずに正確に抉り取られた、バレーボール大の穴が空いていた。
……ドプッ。
血すら、コンマ数秒遅れて噴き出した。
あまりにも早すぎる。鋭利すぎる。
人類最高峰の索敵能力を持つシンの目でさえも、その攻撃の軌道はおろか、相手の殺意すら、一切目視できていなかったのだ。
「ザラ……? おい、嘘だろ……ザラの姉ちゃん!?」
レイズが、自身の剣を放り出して呆然と呟き、倒れた彼女に駆け寄ろうとした、その直後。
俺たちの背後で。
背筋の凍るような、分厚い金属が限界を超えて引き裂かれる嫌な音が、砦全体に響き渡った。
――ギギギギギギギギィィィィィィッッ!!
それは、機巧神匠ガルドが、絶対防御を誇るように極限までチューンナップし、魔改造を施した異世界の遺物、アーティファクト・センシャから上がった悲鳴だった。
最も装甲が弱い部分とはいえ、大砲の直撃すら弾き返すその上部ハッチが。
まるで、熱してドロドロになった飴細工か。
あるいは、ただの薄い紙切れを剥がすように。
何者かの、目に見えない手によって、メリメリと強引に、そして容易くこじ開けられていたのだ。
「な、なんじゃ貴様ァッ!! ワシの、ワシの可愛いセンシャに、汚い手で触るなァァ――ギィヤアアアアアアアアアアアアアッ!?」
操縦席から響いたガルドの激昂が。
一瞬にして、鼓膜を物理的に裂くような絶望の悲鳴に変わり、そして、ゴボッ、という不快な水音と共に途絶えた。
こじ開けられたハッチの隙間から。
ドプッ、ドププッ、と。
大量の血と、原型を留めない肉片の混じったヘドロのようなものが、噴水のように宙へ吹き出し、センシャのオリーブドラブの車体を赤黒く染め上げていく。
「ガルド殿!!」
ミストが絶叫し、氷槍を構えるが、彼女の槍を向ける先がない。
敵の姿は、砦のどこを見渡しても、存在しないのだ。
「……ッ、ファッさん!! ふざけんな、気配すら読めねぇぞ!! いったいなんなんだよコレは!!」
リリアノートが、いつもの気怠げな態度を完全に捨て去り、顔中から大量の脂汗を流しながら、異形の鎌を構えて叫んだ。
彼女の目も、見えない恐怖に激しく泳いでいる。
「分かっているッ!! もはや規律もクソも、暗殺の美学もない! リリアノートォォ!! ここは我らスプリガンの、文字通りの死線だ!!」
バル=ゼファルの暗殺部隊の二人が。
人類の裏社会で暗躍してきた本物のバケモノたちが、目にも留まらぬ速度で同時に動いた。
クラファスの異常なまでの礼儀正しさが、完全に消え失せる。
あるのは、純粋な殺戮マシーンとしての冷徹な顔だけ。
彼が両手を、鼓膜が破れるほどの勢いで激しく打ち鳴らす。
砦の空間そのものを内側から破壊するほどの極大の致死音波が、見えない敵を探り当て、細胞レベルで粉砕するために、全方位へ向かってドーム状に放たれた。
同時に。
リリアノートの指先から、鋼鉄の防壁をも容易く切り裂く不可視の鋼線が幾万本も放たれ、広場全体を逃げ場のない死の結界、絶対の切断領域で覆い尽くす。
彼らができる、最大にして最凶の暗殺陣。
空間そのものを切り刻み、すり潰し、そこにいるすべての生命を消し去る絶対の檻。
これに触れれば、どんな強靭な魔族であろうと、一瞬で微塵切りになるはずだった。
――ブチッ。ブチブチブチッ。
だが。
リリアノートの放った、鋼より硬く鋭い不可視の糸が、おそらく何かに触れた瞬間に。
張力を完全に失い、安い裁縫糸のように、呆気なく千切れた。
同時に、クラファスの砦を揺るがす致死音波が。
まるで凪いだ海に投げ込まれた小石の波紋のように、無音の分厚い壁に衝突して、フッ……と無残に掻き消えたのだ。
「なっ……オレのオリハルコン級の糸が、触れただけで……!?」
「馬鹿な……。私の音が、完全に吸収され――」
「……小賢しい。脆弱な糸遊びと、耳障りな羽音だ」
虚空から。
冷たく、そして感情の欠片もない酷薄な声が響いた。
次の瞬間。
「あ……」
「…………」
クラファスと、リリアノートの首が。
彼らの胴体から、刃物で切断されたのではなく、まるで最初から接着剤でくっついていたのが滑り落ちるように。
スリップして、音もなく、地面に転げ落ちた。
バル=ゼファルが世界に誇る、都市伝説レベルの最強の暗殺者二人が。
自分たちに何が起きたのかすら、誰に、どうやって殺されたのかすら理解できないまま。
自らの血の海に沈み、物言わぬ肉塊へと変わった。
「…………ッ!!」
俺の思考が、完全に停止しかけた。
心臓が警鐘を鳴らす限界を超え、氷の塊となって胃の腑に落ちる。
肺に空気が入らない。
違う。
こいつは、あのふざけた悪趣味な遊戯を仕掛けてきたギンじゃなない。
ギンのような人間で遊ぶという感情すら存在しない。
ただ呼吸をするように命を摘み取る。ただそこにある命を刈り取るためだけに作られた。
次元が違う、純粋な死だ。
「シン!! リクとショウを連れて、今すぐここから逃げろ!!」
俺は、魔剣ムラマサの柄を血が滲むほど握りしめながら、血を吐くような声で絶叫した。
「ふざけんな! 逃げるなんて、出来るわけ――」
「馬鹿野郎!! これは敗走じゃねぇ!! 未来を守るんだ!!」
俺は、シンの胸ぐらを掴む勢いで吠えた。
「ここで俺たちが全員……。 誰がこのクソみたいな世界を救うんだ!! あの聖剣のガキ共を、誰が守るんだ!! 頼む、機動力のあるお前しかいない!! 行けェェッ!!」
俺の悲痛な、そして祈るような叫びに。
シンは唇を噛み切り、顎からツーッと血を流しながら、深く、重く頷いた。
彼の目には、かつてないほどの悔し涙が浮かんでいた。
「離せよシン兄!! 俺たちも戦う!! 絶対なんとかするから!!」
リクが涙目で叫び、ショウも震える手で聖剣エクスを構えようとする。
「……クソッ!! 大人しくしろガキども!!」
シンが、暴れるリクとショウを両脇に無理やり抱え込み。
残存する海神の全魔力を解放した極大の波に乗って、砦の壁を越え、夜の魔境の荒野へと文字通り弾き飛ばされるように、超音速で逃走した。
「……絶対に死ぬなよ!!」
シンの声が、夜風に混じって消えていく。
その背中を見送った、直後だった。
ガルドの血で真っ赤に染まった、センシャの車体の上。
そこに、音もなく、前触れもなくそれは立っていた。
「……ほう。未来を守る、か。脆弱な人間にしては、中々どうして的確な判断を下す。褒めてやろう」
漆黒の、まるで喪服のような礼装を纏った、青白い肌の長身の魔族だった。
彼の手にはガルドとザラの血が滴っているが、顔に表情は一切ない。
魔力も、闘力も感じない。
ただ、そこに存在するだけで、周囲の世界が重圧でミシミシと軋み、空気が腐っていくような。
純粋で、圧倒的な死。
「我は最上位貴族が一柱、ロロン。……ギンが散らかし、殺し損ねた玩具を片付けに来た」
その言葉が、血に塗れた砦の石畳に落ちた、次の瞬間だった。
「……この、野郎ォォォォォォォォッ!!」
俺が動くより早く。
仲間の、友の無残な死に激昂したレイズの大剣と、ミストの氷槍が、完璧なシンクロでロロンへと挟み撃ちに襲いかかった。
二人の瞳には、これまで共に馬鹿騒ぎをしてきたザラやガルド、そして暗殺者たちの命を踏みにじられた、怒りの焔が猛烈に燃え盛っていた。
それは、ザラのバフを失ってなお、彼らが積み上げてきた死線の経験が導き出した、最速、最強、最善の合撃。
レイズが空気をプラズマ化させるほどの極大の炎の渦を放ち、ミストが絶対零度の氷の結界でロロンの退路を完全に塞ぐ。
相反するエネルギーがぶつかり合い、中心点にいるロロンを、分子レベルで消し飛ばす超圧縮の爆発を引き起こす。
「消え去れェェ! バケモノォォォォォッ!!」
「塵すら残さねぇぇぇッ!!」
赤と青の、双竜の咆哮。
人類最強の竜騎士二人が放った、文字通り命を削った必殺の一撃。
だが。
ロロンは退屈そうに、まるで顔の周りを飛ぶ邪魔な羽虫を追い払うかのように。
右手だけ、横にスッと振った。
ただ、それだけの、余りにも軽い、戦闘とは到底呼べない日常の動作。
「……?」
レイズとミストの動きが。
極大の炎も、絶対零度の氷も。
すべてが、空中でピタリと、ビデオの映像を一時停止したかのように静止した。
そして、次の瞬間。
二人の上半身が。
刃物で切断されたわけでも、魔力で吹き飛ばされたわけでもなく。
その胸から上の空間ごと、根こそぎ消しゴムで消し取られたかのように――一瞬にして、消滅したのだ。
ドサ、ドサッ……。
意志を失い、重力に従って地面に崩れ落ちる、二人の下半身。
プツンと切断された断面から、一秒遅れて、信じられないほど大量の血の噴水が吹き上がり、砦の石畳を赤く、絶望の色に染め上げていく。
「ぁ…………」
俺は、息をすることすら忘れた。
目の前で起きた事象が、脳の処理速度を完全に超えている。
防御も、回避も、何の意味も持たない。ただ手を振られただけで、空間ごと存在を消し取られた。
『相棒ッ!!! 五秒戻して!! 早くッ!!!』
胸のネックレスの中で、ラナが悲鳴に近い、耳をつんざくような叫びを上げた。
その声が、俺の完全に凍りついた思考を、強引に再起動させる。
(――戻れぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!)
俺は弾かれたように魔剣ムラマサを抜き放ち、魂を削るような凄まじい衝撃と共に、能力を限界まで起動した。
視界が激しくブレる。
音が逆再生され、血の雨が天へと昇り、世界の色が反転しながら五秒前の過去へと強制的に逆行していく。
脳髄に、焼けた鉄串を突っ込まれたような激痛が走る。
――ガツンッ!!
「……この、野郎ォォォォォォォォッ!!」
巻き戻った、五秒前。
ザラたちが殺され、激昂したレイズとミストが、まさにロロンへ向かって飛び出そうとする直前のタイミング。
「行くなッ!! 二人とも止まれェェッ!!」
俺は全力で二人の間に飛び込み、立ち塞がった。
ラナの武装化した力を両腕と足に込め、その無謀な突進を、自分から体当たりするようにして力任せに制止した。
ドグッ!!
俺の体に、レイズとミストの凄まじい踏み込みの衝撃が直撃し、あばら骨が何本か軋む音を立てる。
「てめぇ、急に前に出て邪魔すんじゃねぇ!! どけ!! そいつが、ザラを!!」
「退いて!! あいつを殺すわ!!」
レイズが怒鳴り、ミストが俺を突き飛ばそうとする。
だが、俺は絶対にどかなかった。俺には見えている。あのまま行けば、数秒後、二人が一瞬で無に帰す、あの悍ましい未来が。
(よし……止めた! 突撃はさせなかった!)
俺が、最悪の未来を回避できたことに、冷や汗を流しながら一瞬だけ安堵しかけた、その時だった。
「……ほう」
アーティファクト・センシャの上に立つロロンが。
俺を、ひどく面白そうに、まるで珍しい実験動物でも観察するかのように、見下ろしていた。
その、感情の一切なかった口角が、ほんのわずかに、吊り上がる。
「貴様、今……時に干渉したな?」
――ッ!!
俺の全身の血が、一瞬で沸騰し、そして次の瞬間、絶対零度に凍りついた。
ばか、な。
この世界に降り立ってから、ただの一度として。どんな魔族であろうと、あのローディオでさえ、誰一人として正確に感知できなかった、ムラマサの因果律を書き換える絶対能力を。
こいつは、ただ一度見ただけで、完全に知覚し、感知したのだ。




