第43章:魔王軍最上位貴族ギンー1
「あっはは。君たちじゃ、まだ魔王くんはやれないと思うよ〜」
その、間延びした、あまりにも日常的で平和ボケしたような場違いな声が。
死地にある砦の喧騒の中で、俺たちの鼓膜に直接届いた、その瞬間。
この場にいる人類最高戦力の化け物たちの中で。
最も早く、そして生物として最も正しく動いたのは、声のすぐ隣の席に座っていた、カエサルの火竜レイズだった。
歴戦の竜騎士の、研ぎ澄まされた生存本能。
相手の魔力も、闘力も、気配すらも一切感じない。だが、彼の背筋を駆け上がった悪寒は、過去に対峙したどんな相手よりも強烈だった。
レイズは、振り返って相手の顔を確認するような愚かな真似はしなかった。
思考よりも、驚愕よりも先に、彼の鍛え上げられた肉体は最適解を弾き出していたのだ。
ズォォォォンッ!!
手元に立てかけてあった愛用の大剣を。
腰の捻りと、強靭なバネをフル稼働させ、振り返りざまに全力の横薙ぎに振り抜く。
上位貴族の強固な胴体すらも容易く一刀両断する、殺意と闘力のみを極限まで圧縮した、一切の容赦がない必殺の軌道。
空間が、布のようにビリッと裂ける音がした。
確実に、首を飛ばした。
誰もがそう思った。
だが。
――ガシッ。
火花も散らず。
鋼鉄が砕ける音でもなく。
乾いた、ひどく間の抜けた鈍い音だけが、砦の沈黙を切り裂いて響いた。
「……は?」
大剣を全力で振り抜いたレイズの顔が、そのままの捻った姿勢で、信じられないものを見るように驚愕に引きつった。
雪のような白い髪の青年は。
右手でフォークに刺した魔獣の肉を、モグモグと呑気に咀嚼したまま。
もう片方の左手の、人差し指と中指の二本だけで。
レイズの全力の大剣の刃を、まるで上から落ちてきた枯れ葉でも摘まむように、ピタリと止めていたのだ。
刃は、微塵も揺れていない。
指から血の一滴すら流れていない。
それどころか、レイズの一撃から生じるはずの莫大な風圧すら起きていなかった。
青年が、大剣の持つ運動エネルギーという物理法則そのものを、指先だけで完全に殺し尽くした、何よりの証拠だった。
「おっと、危ないなぁ」
青年が、口の端にソースをつけたまま、困ったように眉尻を下げた。
「いきなり乱暴しないでよ。せっかくの美味しいお肉に、埃がついちゃうだろ、赤毛の君」
青年が、大剣を摘まんだ二本の指先で、軽く、本当に軽く。
ピンッ、と。
大剣の刃の腹を、弾いた。
たったそれだけの、子供の悪ふざけのような、無邪気な動作。
――ドガァァァァァァァァンッッッ!!!
その瞬間。
大剣の刃を通じて、巨大な隕石の直撃でも受けたかのような衝撃波が、レイズの両腕から全身へと駆け抜けた。
「ガァッ、ハァァッ!?」
レイズの強靭な体が、まるで暴風雨に煽られた枯れ葉のように、何の抵抗もできずに容易く空中に弾き飛ばされた。
数十メートル先の砦の黒鋼の石壁に、ドスゥゥゥンッ!!と激突し、全身の骨が軋む音と共に、大量の血を吐き出して崩れ落ちる。
「レイズッ!?」
ミストが、普段の冷静さを完全に失い、悲鳴に近い声を上げて氷槍を構えた。
その音と声に反応し。
砦の中庭で祝杯を挙げていた強者たちが、一斉にジョッキを放り投げ、それぞれの武器を抜いて、青年を取り囲んだ。
「……動くなァッ!!!」
広場に、海神のシンの、張り裂けるような、血を吐くような怒声が轟いた。
どんな死地に立たされても常に余裕を崩さず、飄々としていたあのシンの顔が。
かつてないほど青ざめ、全身の毛穴から滝のような冷や汗を吹き出しながら、必死に俺たちを制止している。
「こいつは……さっきの下位貴族でも、上位貴族でもねぇ……! 波が、深すぎて全く底が見えねぇんだ。全員、絶対に不用意に近づくな!! 瞬きする間に殺られるぞ!!」
シンの絶叫に近い警告に、全員の背筋に鋭い氷柱を直接ねじ込まれたような悪寒が走った。
あのシンが、闘う前から格が違うと白旗を揚げているのだ。
俺は既に抜刀を完了した魔剣ムラマサの柄を強く握りしめていたが、その手にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
こいつは、かつてグリンデル王都で遭遇した八咫烏のカラスと同等か、それ以上。
魔力的な威圧感など全くない。ただそこに座っているだけで、存在の質量が重すぎて、周囲の空間がグニャリと歪んでいる錯覚すら覚える。
「あはは、正解。キミ、なかなか目がいいねぇ」
青年が、パチパチと楽しそうに拍手をした。
「ボクは魔王軍最上位貴族の一体、ギン。……よろしくね、人間さんたち」
ギンと名乗った青年は、ゆっくりと立ち上がり、ペロリと指先の脂を舐めとった。
そして、周囲を取り囲む人類の最高戦力たちの顔を、まるでショーケースの玩具を品定めするように、ぐるりと見渡し――。
俺の顔で、ピタリと視線を止めた。
「……あーー」
ギンが、歪な三日月のように目を細めて、心の底から嬉しそうに笑った。
「キミかぁー。ボクと同じ転移者は」
――ドクン。
俺の心臓が、早鐘を打つのを忘れて、数秒間完全に停止した気がした。
周囲の空気が、喧騒が、シンと俺の二人だけ、完全に凍りつく。
「お前……」
俺の喉から、ヤスリをかけたようなかすれた声が漏れた。
こいつも、杉林や初代の聖剣の造り手たちと同じ。
俺と同じ世界から、この世界に喚ばれたというのか。魔王軍のトップとして。
「ボクね、実は魔族と人類の数千年越しの戦争とか、魔王くんの野望とか、ぶっちゃけどうでもいいんだよね」
ギンは、あくびを噛み殺しながら、気怠そうに言った。
「ただ、この退屈なファンタジー世界で、自分の好きなように楽しめればそれでいいの。でもさぁ……」
ギンは、俺から視線をスッと外し、再び周囲を取り囲む連合軍の面々を見渡した。
「いくらなんでも、あんな弱い下位貴族や上位貴族を、よってたかって袋叩きにするのは、ただのイジメだと思うんだよね。ボク、そういう一方的なクソゲーって、見ててすっごく退屈で嫌いなんだー」
「……何を、ふざけたことを……! 魔族が今まで何をしてきたか……!」
カリナが、純白の光を纏わせた騎士剣を構え、怒りに満ちた目でジリッと間合いを詰める。
「だからさ。少しだけ、ゲームのバランス調整をしようと思って」
ギンが、カリナの怒りを完全に無視し、右手の親指と中指をすり合わせた。
パチン、と。
最高に楽しそうに、指を鳴らした。
――瞬間。
カリナの構えていた騎士剣が。
ドクンッ!!と。
まるで生物の心臓のように、醜く、脈を打ったのだ。
「え……?」
カリナが、自分の手の中の純白の騎士剣を見て、信じられないものを見るように目を丸くした。
ドクンッ、ドクンッ!!
脈打ったのは、カリナの剣だけではない。
壁際で、血を吐きながらも立ち上がろうとしていたレイズの炎竜の大剣。
ミストが構える、絶対零度を誇る白銀の氷槍。
さらには、シンの身につけていた海竜の鱗の防具までもが。
まるで、無機物の金属に突如として肉と血管が与えられたように、グチャグチャと醜い音を立てて蠢き始めたのだ。
「な、なんだこいつはッ!?」
レイズが、自身の剣から生え出した気味の悪い血管のような触手に驚愕し、手を離そうとする。
「剣が、手に……張り付いて……ッ!? 離れないわ!!」
カリナが悲鳴を上げた。
柄から伸びた光の触手が、彼女の華奢な腕に絡みつき、強引にその魔力と生命力を吸い上げようとしている。
「あははっ、いい反応だねぇ」
パニックに陥る人類の最高戦力たちを眺めながら、ギンがクスクスと、本当に腹の底から楽しそうに喉を鳴らして両手を広げた。
「何かを守るため。あるいは、何かを殺すため。君たち人間のそういう強くて純粋な意思が込められた愛用の武器や防具って……ボクの能力の苗床として、すごく良い感じなんだよね」
「……能力の、苗床だと?」
俺は、あまりの気味の悪さに背筋を凍らせながら、魔剣ムラマサを構え直した。
「そう。ボクの能力はね――君たちのその武具に込められた意思に命を与えて、ボクの可愛い使い魔として反逆させてあげること」
バキバキバキバキィィッ!!
ギンのその宣告と共に。
カリナの声が響き、彼女の腕を吸い尽くそうとしていた騎士剣が、限界まで膨張して弾け飛んだ。
空中で光が強引にねじ曲げられ、骨格が組み上がり、肉が膨れ上がる。
そして、カリナの純白の剣は、巨大な光の顎を持つ四足歩行の牙獣へと、完全に変態した。
それだけではない。
レイズの大剣は、周囲の空気を焼き焦がす灼熱の炎を纏う四つ足のドラゴンへ。
ミストの槍は、空間そのものを凍結させる氷の龍へ。
シンの防具は、砦の石畳をドロドロに腐食させる深淵の海を纏う不定形の怪物へと、それぞれが禍々しい産声を上げた。
「マジ……かよ……」
俺は、目の前で起きた理不尽すぎる現象に、絶望に目を見開いた。
カリナ、レイズ、ミスト、シン。
彼らは間違いなく、人類最高峰の強者たちだ。
その彼らと長年連れ添い、何千何万という戦闘の中で、彼らの莫大な魔力と闘力のすべてを限界まで吸い込み続けてきた最高の相棒たち。
それが変態したモンスターたちが放つ絶望的な威圧感は。
かつてシルアの森で死闘を演じた、あの神王獣ヤマタノオロチに完全に匹敵するほどの圧倒的な圧を放っていた。
「ガァァァァァァァァッ!!」
「ギュルルォォォォォォォォォォッ!!」
生まれ落ちた四体の神王獣クラスのバケモノたちが、一斉に鼓膜を破るような咆哮を上げ。
かつての主であったカリナやレイズたちへ向かって、一切の躊躇いなく、容赦のない殺意の牙を剥いた。
「くそったれがッ! 俺がやる!! 光の牙獣を止めろ!!」
俺は、武装化をフル稼働させ、理不尽な変態を遂げた光の顎を持つ獣へ向かって、真っ先に斬りかかろうとした。
丸腰になったカリナが、一瞬で食い殺されてしまう。
だが。
その一歩を踏み出すより早く、背後で再び、あのギンの気の抜けた、だがこの世の何よりも不気味な声が響いたのだ。
「……やっぱり面白いねぇ、キミ」




