第42章:不安の種ー1
血湧き肉躍る決起集会から、2日後。
分厚い赤黒い瘴気の雲に覆われた魔境に、血の色をした薄暗い朝が訪れた、その時だった。
――ズズン……ッ!!
砦の足元から、大地の奥深くで巨大な心臓が脈打ったような、内臓を直接鷲掴みにして揺さぶるような、極めて重く不快な震動が響いた。
東の谷底。
千年の蓋がついに決壊した大穴から、天を突くように吹き上がっていた漆黒の瘴気の柱が、突如として意思を持ったかのように凶悪な渦を巻き。
三つの巨大な影を、ドロリと地上へと吐き出したのだ。
ドスッ、ドスッ。
極めて重い、だが生気のない着地音。
そこに立っていたのは、人の形をしているが、人ではない異形だった。
肌は血の通っていない屍のように青白く、額には山羊のような歪な角が天に向かって生え、その瞳には、生命に対する慈悲など一切存在しない、昆虫のように冷酷で無機質な光が宿っている。
「……ほう。まさか、我らを待ち構えている羽虫の群れがいるとはな」
中央にふわりと重力を無視して浮遊する、長身の魔族が、防壁の上に立つ俺たちを見上げて薄く笑った。
「我らは、偉大なる魔王軍が誇る下位貴族。千年ぶりの人間界の美味い空気だというのに、まさか我ら三柱を、わざわざ出迎えている愚か者がいるとは」
「ひひっ、ちょうど千年ぶりに人間の生温かい内臓と、新鮮な脳髄を食いたかったところだ。あの黒い砦ごと、まとめてミンチにして食ってやろうぜ」
「同感だ。人間など、数秒で潰れるただの革袋と変わらん。踏み潰して終わりだ」
傲慢。圧倒的な油断。
そして、人間という種族に対する、絶対的で揺るぎない完全なる見下し。
かつて、強大な軍事力を持っていたグリンデル王国を。
ワーズという下位貴族たった一体と魔族四体が、一晩で地図から完全に消し飛ばしたのだ。
そのワーズと同じレベルの化け物が、今、最前線に三体も並んでいる。
普通の国の軍隊なら。いや、世界有数の冒険者たちであったとしても。
ここで絶望に足がすくみ、膝から崩れ落ち、ただ世界が終わる音を大人しく聞き入れる場面だ。
――だが。
「……随分と、我々も舐められたものですね。たかが下位貴族の三体で、我々の陣形を抜けると思っているとは」
砦の屋上で、天才軍師たるウルシア王国第二王子ギリーエが、冷たく、そしてひどく楽しそうに、残酷な口角を上げた。
「ザラ殿。……開演の合図を。奴らに、我々の挨拶を叩き込んでやってください」
「ええ、任せて。血の雨が降る、最高の舞台にしてあげるわ」
最前線から少し引いた、砦の中段の高台。
バル=ゼファルの特級冒険者ザラが、しなやかな褐色の脚を滑らせて、砂漠のステップを踏んだ。
彼女は、俺から預かった黒光りする二丁拳銃の片割れ、白の銃デザートを天に向けて華麗に抜き放つ。
「さぁ、限界を超えて踊り狂いなさいッ!!」
ザラが、一切の躊躇いなく、アーティファクトの引き金を引いた。
パァァァンッ!!
乾いた、しかし強大な魔力に満ちた銃声と共に放たれた見えない魔弾が、空中で無数の黄金の光の粒子に弾け。
前衛として配置についていた、レイズ、ミスト、ソー、リクの四人の身体へと、一斉に吸い込まれていく。
アーティファクト・デザート&イーグルの極限のバフ能力。
そこに、ザラの高度な広域バフの舞が、足し算ではなく乗算されて一気に膨れ上がる。
「う、おおおおおおッ!? なんだこれ、身体が羽根みたいに軽い!!」
オーシャンの少年、リクが、全身から無限に溢れ出す力に驚きの声を上げる。
前衛の四人の身体から、目に見えるほどの凄まじい魔力と闘力のオーラが、黄金の炎となって天を焦がすように立ち上っていた。
(……すげぇ。闘力と魔力が、五十倍……いや、百倍近いか……!)
残念ながら、闘力0、魔力0の俺には一切何の効果もない。
だが、俺の横で前衛陣が放つ異常な覇気だけで、砦の前の空間がミシッと悲鳴を上げてガラスのようにひび割れた錯覚すら覚えた。
「……な、なんだ貴様ら、その異常な魔力の膨張は――ッ!?」
下位貴族たちの余裕の笑みが、一瞬にして完全に凍りついた。
彼らの昆虫のような瞳が、千年ぶりに味わう明確な恐怖で見開かれる。
「遅ぇよ、クソゴミどもが。クソ寝起きで頭がクソ回ってねぇのか?」
空気を裂いて。
ソーの悪の人格が、獲物を見つけた猛禽類のような極悪な笑みを浮かべて、先陣を切って飛び出した。
魔剣オボロの黒い刃が。
百倍の闘力を乗せて、空間ごと、理不尽なまでの暴力で横薙ぎに切り裂く。
「ガァァァッ!?」
防御魔法を展開する間も、瞬きをする暇すら与えない。
右にいた魔族の腕と胴体が、まるで柔らかい豆腐のように半ばからズレて、無惨に吹き飛ぶ。
「ヒュー!さっすが! ぃよぉーし! オレらも派手に行こうぜミスト!! 消し炭クッキングの時間だ!!」
「言われなくても。……灰すら残さないわ」
ソーが完全に怯ませた、その一瞬の隙。
百倍の闘力を持ったカエサルの双竜が、それを見逃すはずがない。
レイズの極大の炎竜の大剣と、ミストの絶対零度の氷槍が、魔族の眼前の空中で完璧なタイミングで激突する。
相反する属性が、ザラの異常なバフを乗せて完璧に融合し、超圧縮された極大の水蒸気爆発となって、右の魔族を完全に飲み込んだ。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
「ギャアアアアアッ――!!」
断末魔の叫びすらも数万度の熱と圧力で瞬時に蒸発し、下位貴族が一瞬にして、肉片一つ、跡形もなく消し飛んだ。
「ば、馬鹿なッ!? 人間ごときが、我ら貴族を――ッ!?」
中央の長身の魔族が、事態を全く理解できず、恐慌状態に陥りながら咄嗟に上空へ逃れようと羽ばたく。
だが。
「スプリガン序列2位、クラファス。……スプリガンのご命令により、美しき解体の時間です!」
上空。
いつの間にか、音速を超越した跳躍で逃げ道のさらに上へ先回りしていた暗殺者クラファスが。
満面の狂気的な笑みで、魔族の頭上に両手をかざした。
彼の指先から放たれた極超音波の音魔法が、魔族の硬質な頭蓋骨を直接共鳴させ、内部の脳髄を一瞬で液状に破壊する。
「あー、うるせぇ。耳障りなんだよ、ファッさん。さっさと終わらせるぞ」
脳を破壊されて落下してくる魔族の真下で、リリアノートが気怠そうに、だが極めて正確に指先を弾く。
シャンッ、という微かな弦の音。
彼女が空中に目に見えないほどの密度で張り巡らしていた、不可視の鋼線の網。
そこを通過した魔族の巨体が、数十の均等な正四面体のサイコロステーキ状の肉片となって、地面にボトボトと美しく降り注いだ。
開戦から、わずか十数秒。
かつて一体で大国を滅ぼした下位貴族、その三体が。
文字通り、防壁に触れることすら許されずに瞬殺された。
華麗に、そしてあまりにも一方的に下位貴族の三体を葬り去ってから、一週間。
砦の守備隊は、初戦の完全勝利という熱狂を胸に抱えつつも、盤上の王ギリーエの徹底したシフト管理によって、決して浮き足立つことなく、研ぎ澄まされた集中力を維持していた。
だが。
その日の午後は、それまでの一週間とは決定的に違っていた。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォォッッ!!
下位貴族が現れた時とは比較にならない。もはや物理的な暴力と呼ぶべき、泥のように濃密な瘴気が、大穴の底から爆発的に吹き上がった。
空は赤黒さを通り越して、光の存在を一切許さない無の漆黒へと染まっていく。
重力が歪むようなその空間の底から、ゆっくりと浮上してきたのは、四体の魔族。
「……上位貴族が二体。それに、下位貴族が二体か」
防壁の上で、海神のシンが初めて少しだけ目つきを鋭くし、愛用の大槍の柄をギリッと握り直した。
上位貴族。
魔王軍の頂点に君臨し、わずか七体しか存在しないとされる、ある文献では天災以上と形容される規格外のバケモノ。
「ほォ……。我らが先陣の愚か者どもを、片付けたか。脆弱な人間にしては、中々面白い見世物を見せてくれるではないか」
上位貴族の一体が、背中の六枚の漆黒の翼を大きく広げ、冷酷に笑った。
彼がそこに存在し、空気を吸って吐く。ただそれが放つプレッシャーだけで、砦の黒鋼の防壁がミシミシと悲鳴を上げ、普通の兵士なら立っていることすら不可能な重圧が場を支配する。
「だが、遊びは終わりだ。死ぬがいい、羽虫共。――落ちろ」
上位貴族が、面倒くさそうに上へ向けた指を下に振り下ろす。
刹那。
上空の漆黒の雲が丸く割れ、この砦の数十倍はあろうかという巨大な隕石が顕現した。
空そのものが落ちてくるような、絶対的な絶望。
それが、空気を焼き焦がす凄まじい轟音と質量を伴って、砦のド真ん中へと落下を始める。直撃すれば、砦はおろか、周囲の山脈ごと地図から完全に消し飛ぶ。
「……五秒、戻すべきか?」
俺が腰の魔剣ムラマサの柄を握り込み、世界を五秒巻き戻す能力を発動させようとした、その時だった。
「ガァッハッハッハッハ!! 遅い、遅い! 遅すぎるわい!! ワシの可愛いセンシャちゃんの火力を舐めるなァ!!」
砦の屋上で、機巧神匠のガルドが狂ったように笑いながら、魔力炉と直結させた巨大なレバーを力任せに引き降ろした。
神匠クラスの手によって、古代の理に現代の神業で極限まで性能が向上した、異世界の兵器。
センシャの主砲が、空間そのものを震わせる凄まじい駆動音と共に火を噴いた。
――ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!
放たれたのは、砲弾ではない。極太の光の奔流だ。
それが、天から迫る絶望の炎の隕石を、まるで子供の投げた水風船を撃ち抜くように、呆気なく、そして残酷なまでに美しく貫通した。
隕石は内部の核を破壊され、空の彼方でただの火の粉となって四散する。
「なっ……私の極大魔法が、人間の小細工に打ち消され――!?」
上位貴族が、自らの最強の魔法が完全に消滅した光景に、己の目を疑い、呆然と呟いた。
それは、実力伯仲の戦闘においては、絶対にあってはならない一瞬の硬直。
「もらったァッ!!」
俺は、各種武装化に意識を全集中させた。
クリスタルワイバーンの絶対防御。
アークサーペントの紫電を纏った雷のクナイ。
そして、黒竜の絶大な推力を同時展開。
『行くよ、相棒ッ!!』
胸元のペンダントから、ラナの二十倍の身体・武装化能力強化バフが注ぎ込まれ。
さらに後方から、ザラの踊りによる限界突破の強化バフを全身で受け止める。
俺の肉体が、完全に音速の壁を何度もぶち抜き、空中に白い衝撃波のリングを残しながら、上位貴族の懐へ一気に潜り込んだ。
「グルルルルルッ!! 調子に乗るなァ人間ッ!!」
だが、さすがは上位貴族。
圧倒的な速度で接近する俺に対し、咄嗟に空気を切り裂く六本の巨大な爪を振り下ろしてきた。
空中で回避不能の距離と速度。俺の首が確実に飛ぶ、完全に確定した敗北の軌道。
俺の視界が斜めにズレ、首の骨が断ち切られる熱い激痛が――。
(――戻れぇッ!!)




