第41章:反撃の狼煙ー1
大陸最東端。名もなき魔境の夜は、本来であれば、いかなる生命の存在をも許さない深い死の静寂と、骨の髄まで凍りつくような冷気に包まれるはずだった。
決壊寸前となっている千年の封印。
大地にポッカリと空いたように真っ黒な大穴からは、常人であれば一呼吸しただけで内臓がドロドロに爛れ、数分で気が触れて発狂しそうなほどの、超高濃度のドス黒い瘴気が、間欠泉のように絶え間なく立ち昇り続けている。
外の世界は、間違いなく地獄そのものだった。
だが。
その地獄の釜の口から、わずか一キロほどしか離れていない場所。
機巧神匠ガルドと五人の上級職人たちが、すべての技術を注ぎ込んで組み上げた黒鋼の防衛砦の内側だけは。
まるで、各国の王都で年に一度開かれる建国祭の夜を思わせるような、異常な熱気と喧騒に包まれていたのだ。
「ガッハッハッハッハ!! 飲め飲めヒヨッコどもォ! 魔族どもが顔を出す前に、まずはこのロムダース特製・超高濃度黒エールの樽を、一滴残らずカラにするんじゃァ!!」
砦の中央広場。
そこに積まれた巨大な魔力炉の予備パーツの山の上で、白い髭を丸太のような腹まで振り乱した機巧神匠ガルドが、自身と同じくらいの大きさがある巨大な酒樽を軽々と片手で担ぎ上げ、豪快極まりない笑い声を上げていた。
「親方ぁ! つまみの干し肉が足りねぇぞ! オーシャンの坊主たちが持ってきた海鮮の燻製も全部開けちまえ!」
「おうさ! 今夜は食えるだけ食っとけ! 明日には腹に風穴が開いて、メシが食えなくなるかもしれねぇからなァ! ギャハハハハッ!!」
ドワーフたちによる、あまりにも豪快な酒盛り。
戦闘準備として、砦の魔力炉の最終調整も、大質量バリスタの射角設定も、そしてアーティファクト・センシャの極悪な魔改造も、すべて極限までチューンナップを終えた彼らドワーフ職人たちは。
「俺たちの仕事は終わった。あとは魔族どもが地獄から這い出てくるのを待つだけだ」とばかりに、盛大な前祝いの音頭を取り始めていたのだ。
「おいおい、ドワーフのオッサンたち。いつ魔族が、この防壁にアリの群れみたいに群がってくるか分からねぇってのに……随分と余裕じゃねぇか」
俺が、広場を見下ろす防壁の階段の手すりに寄りかかり、呆れ半分に言うと。
隣で木箱に腰掛けていた海神のシンが、自身の皮袋をゆったりと揺らしながら、フッと人の悪い笑みを浮かべた。
「……極限状態だからこそ、だ」
「極限だから?」
「あぁ。ここにいる連中は皆、自分の命の使い所と張り方を、骨の髄までちゃんと理解してる連中ばっかりだ。……だからこそ、今夜の酒が、生涯で一番美味いのさ。お前も飲めよ」
シンはそう言って、別の皮袋を俺に向かって放り投げた。
パシッ、と受け取る。中ではタプタプと、アルコール度数の高そうな液体が揺れていた。
「……いや、俺はいいよ」
俺は苦笑して、その皮袋をシンに投げ返した。
「酒は嫌いじゃないけどな。もし悪酔いして、武装化の魔力制御が暴走でもしてみろ。魔族が湧いてくるより先に、俺がこの砦ごと、お前らを全員ぶっ殺しかねないからな」
「違いねぇ。お前のそのデタラメなバケモノ武装が暴走したら、魔族よりタチが悪いぜ」
シンが愉快そうに肩を震わせて笑い、皮袋の酒をゴクリと喉に流し込んだ。
俺は、熱気渦巻く広場を、静かに見渡した。
そこには、国も、種族も、身分も、年齢すらも全く違う者たちが入り混じる。
本来の歴史であれば絶対に交わることのなかった、奇跡のような光景が広がっていた。
「よぉ……そこの美しい砂漠の特級さん。こんな殺風景な砦で、そんな踊り子みたいな薄着じゃ、夜の魔境の風は肌寒ぃだろ?」
広場の焚き火のそば。
真紅の竜騎士マントを翻し、息をするように、まるで呼吸の延長線上のような自然さでナンパを仕掛けているのは、軍事国家カエサルの火竜、竜騎士レイズだった。
「どうだ? 俺のこの特製火竜のマント、半分貸してやろうか? 中に入れば、魔境の夜風なんて全く気にならねぇくらい温かいぜ?」
レイズが、これ以上ないほど甘く、そして自信に満ちた笑みを浮かべて距離を詰める。
「あら。ふふっ、優しいのね、軍事国家の火竜さん」
バル=ゼファルの特級冒険者ザラが、大人の余裕たっぷりに、艶やかな紅を引いた唇を綻ばせてウインクを返した。
「でも、お気持ちだけ受け取っておくわ。あたしには、これがあるから大丈夫よ」
ザラが、しなやかな手の中で小さく指を鳴らした。
パチンッ。
その瞬間、彼女の周囲に目に見えないほどの極小の砂の粒子がフワリと舞い上がる。
砂同士が超高速でぶつかり合う摩擦熱を利用した、温かく、そしてひどく心地よい乾燥した風が、レイズの頬を優しく撫でた。
「おっ……すげぇ魔法だ。魔境の瘴気を完全に弾いてやがる。砂漠の魔術ってのは、便利で美しくできてるんだな。……ますますあんたに惚れ――」
レイズが、さらに一歩、ザラのパーソナルスペースへと踏み込もうと甘い言葉を紡ぎかけた、その瞬間だった。
「レイズ」
背後から。
スッ、と。
一切の気配も、足音もなく現れた竜騎士ミストが、レイズが右手に持っていた木製のジョッキの中に、絶対零度の氷塊を、無言のままコロンと落とし込んだのだ。
――ピキキキキキキキッ!!
氷塊がジョッキに触れたコンマ一秒後。
ジョッキの中身の酒はおろか、分厚い木製のジョッキそのもの、さらにはそれを握っていたレイズの指先から手首にかけてまでが、瞬時に真っ白に凍りついた。
「冷ッッてぇぇぇぇぇェェェッ!?」
レイズが、情けない悲鳴を上げてジョッキを放り投げ、ジョッキは地面に落ちた瞬間、パリンッとガラスのように砕け散った。
「バカッ、ミストお前!! なにしやがる!! 俺の指ごと凍らせる気か!!」
レイズが、自身の火魔力で慌てて右手の霜を溶かしながら怒鳴りつける。
「あら、ごめんなさい。でも、ちょうどいい温度に冷えたでしょう?」
ミストが、全く悪びれる様子のない、氷のように涼しい顔で小首を傾げた。
「他国の、しかもこれから連携を組む重要な冒険者の方に、下品な無礼を働かないの。……少しは、その発情した頭を冷やしなさいな、単細胞」
「誰が単細胞だ! 俺は紳士的なレディーファーストをだな!」
「息をするように口説くのがレディーファーストなら、世の中の辞典を全て書き換える必要があるわね」
慌てふためき、顔を真っ赤にして反論するレイズと。
どこ吹く風で、冷たいお茶を啜っているミスト。
カエサルが世界に誇る天災の双竜による、隙だらけのコントのようなやり取り。
「あははっ! あなたたち、本当に仲が良いのね。双竜の強さの秘訣は、案外そういうところにあるのかもしれないわね」
ザラが、コロコロと鈴を転がすように、心底楽しそうに笑っていた。
彼女の腰のホルスターには、先ほど俺が渡したアーティファクト・デザート&イーグルが、すでに彼女の衣装の一部のように、完璧に馴染んで収まっていた。
「……たく。緊張感の欠片もねぇな、あいつら」
俺が呆れて息を吐くと、シンが「あれがカエサルの平常運転さ」と笑い飛ばす。
だが、俺の視界の端。
少し離れた配給所の前では、バル=ゼファルの暗殺部隊スプリガンの二人が、双竜とは全く別の、異次元の騒がしさを展開していたのだ。
「素晴らしい! まさにブラボー! ブラボーです!!」
ドワーフたちが臨時に設営した配給所の前。
バル=ゼファル国王直属暗殺部隊スプリガン序列2位のクラファスが、ドワーフの作った、塩とハーブで煮込んだだけの味気ない豆のスープを凝視しながら、異常な熱量で褒めちぎっていた。
「皆様、これをご覧ください! この砦の配給食、一見ただの豆スープに見えますが……違います! 極限状態の戦場における、栄養価の緻密な計算! そして消化吸収の摂取効率が、完璧なまでに美しく設計されています!」
クラファスは、軍人のような完璧な直立不動の姿勢を崩さず、木製のスプーンを、定規で測ったかのように一滴もこぼさず口へと運んでいる。
「戦場において、食事とはただ空腹を満たすものではない! 命を繋ぎ、魔力と闘力をベストな状態に保つための、神聖なる儀式です! 近々始まるであろう、美しき魔族解体ショーの前に……この完璧な一杯に出会えたことに、スプリガンとロムダースに深く感謝を!!」
「あー……るせぇ。マジで声がデカいんだよ、ファッさん。お前のその無駄にハキハキした声聞いてるだけで、疲労が倍増するわ。飯くらい黙って静かに食えねぇのかよ」
その隣。
序列6位のリリアノートが、弾薬庫の木箱をベッド代わりにしてゴロンと横たわり、大あくびをしながら、自分の分のスープをクラファスの方へと適当に押しやった。
「リ、リ、アッ、、ノォートォォォォォォッ!!」
クラファスが、スプーンを持ったままピシッと振り返り、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「私をファッさんと呼ぶなと――」
「はいはい、分かった分かった、序列2位ファッさん。オレの分のスープも全部食っていいから、腹膨らませて、ちょっと静かに寝ててくれぇ。オレは戦に備えて、先に体力を温存する」
「むっ……!」
クラファスは、リリアノートに押し付けられたスープの器を見て、ピタリと動きを止めた。
「むむむっ……これでは、私の完璧な摂取カロリーの栄養計算が狂う……。 塩分も少々過剰だ……しかし、出された食事を残すのも、私の美学に激しく反する。……良いのだな? では、遠慮なくいただこう!」
各国の裏社会から震え上がって恐れられる、国王直属暗殺部隊スプリガン。
だが、今の彼らからは、そんな血生臭い闇など微塵も感じさせない。ただの、癖の強すぎる漫才のようなやり取りだった。
「……あいつら、ああやって油断させて、ターゲットの喉を切り裂くタイプだよな、絶対」
俺が、その平和すぎる光景に思わず毒気を抜かれて短く笑うと、シンも「違いねぇ」と肩をすくめた。
一方。
砦の片隅に小さく作られた、静かな焚き火の周りでは。
この戦場において最も若く、そして最も過酷な運命を背負わされた三人の少年たちが、膝を突き合わせていた。
「ええっ!? ジーク君、本当に、本物のウルシア王国の王子様なの!? すっげえ!! 俺、本物の王族なんて初めて生で見た!!」
オーシャンの孤児であり、聖剣ソラスの適合者であるリクが。
焚き火の炎よりも熱く目を輝かせ、ジークの両手をガシッ!と力強く握りしめていた。
その、疑うことを知らない純粋すぎる尊敬の眼差しに、ジークは顔を真っ赤にして、アワアワとたじろいだ。
「う、うん……。一応、第五王子だけどね。でも、僕なんて全然すごくないよ。リク君とショウ君の方が、ずっと凄い」
ジークが、傍らに立てかけた黒い筒――アーティファクト・ヒナワを静かに見つめ、恥ずかしそうに、そして己の無力さを噛み締めるように頬を掻いた。




