第5章:神速の銀姫ー2
だが、オルドの反応は冷ややかだった。
「あーあ、めんどくせぇ奴が出てきちゃったなぁ。あいつが本性出したら荒れるんだよ」
「めんどくさい……?」俺が眉をひそめる。
「王都じゃ有名な話だよ」
オルドは自分のこめかみを指でコンコンと叩いた。
「二つの人格を持つ王子ってな」
「二つの人格……?」
「普段は礼儀正しくて誰にでも優しい、完璧な善の王子。だがな……戦場の中でスイッチが入ると、もう一つの悪の狂人王子が表に出てくる。しかもタチが悪いことに、悪人格の方が理不尽なまでに強いんだ」
胸の奥が、冷たくざわついた。
二重人格の王子。そんな男が、あの人の心を狂わせる聖剣を手にしたら一体どうなる?
観客席の歓声がピークに達する中、ソー王子は観客に向かって爽やかで美しい笑みを振り撒いていた。
今の彼は、間違いなく善の人格だ。
――だが。
そのソー王子の少し後ろ。砂塵の影から、もう一つの細い影が静かに姿を現した。
「……ん?」
オルドが目を細め、身を乗り出した。
そこに立っていたのは――白銀の髪をなびかせた、一人の少女だった。
肩まで伸びたしなやかな銀髪。
雪のように透き通った白い肌。
腰に差した、飾り気のない細身の長剣。
年齢は十六、あるいは十七といったところか。
見た目は、戦場にはおよそ不釣り合いな、儚げで小柄な少女。
だが――その両目だけが、異彩を放っていた。
底の全く見えない静寂。
相手の筋肉の収縮、呼吸の乱れ、視線の動き一つですべてを見切るような、恐ろしいまでに研ぎ澄まされた至高の領域。
「……あの子は、誰だ?」
俺が思わず呟くと、隣の女パラディンが静かに口を開いた。
「……つい最近、史上最年少でAランクへ昇格した冒険者……ラナです。若くして単独で数々の高難度クエストを達成した、神速の銀姫と呼ばれし剣士」
「ラナ……?」
その名を聞いた瞬間、俺の胸がドクンと跳ねた。
偶然か。目の前に奉納されている聖剣ラナと同じ名を持つ少女。
彼女は、隣に立つ第四王子ソーのことなど視界に入っていないかのように、ただ静かに佇んでいた。
威圧感はない。殺気もない。
だが――そこに存在するだけで、周囲の猛者たちの気配を喰らい尽くすような、絶対的な個。
「へぇ……あいつが噂の剣の神に愛された少女か」
オルドがニヤリと口角を上げた。
「強いのか?」
「強いなんてもんじゃねぇな。ありゃ……近いうちに俺たちの領域に届く天才だぜ。見てみな、あの目。聖剣に選ばれるのが自分だと、一ミリも疑ってねぇ目だ」
◆
「――第一試合、始め!!」
審判の絶叫と共に、大会の幕が切って落とされた。
第一試合に躍り出たのは、第四王子ソー。
対戦相手は、重装甲の鎧を身に纏った巨漢のナイト。
「殿下、お手柔らかに――」
ナイトが剣を構え、間合いを詰めようとした……その瞬間。
――ゴッ!!
不自然な打撃音。
次の瞬間には、巨漢のナイトが宙を舞い、数十メートル先の壁にドス黒い音を立てて叩きつけられていた。
観客席が静まり返る。
何が起きたのか、誰の目にも見えなかった。ソー王子が曲刀の柄で、コンマ一秒の間に相手の顎を撃ち抜いたのだ。
「うわ、出た出た。善人モードのソー様の本領発揮だ」
オルドが呆れたように肩をすくめる。
「善人のくせに、身体能力と剣の精密さだけは完全な怪物。相手を殺さないように手減してあれだからな」
ソー王子は勝ち誇ることもなく、倒れたナイトのもとへ優しく駆け寄り、手を貸して介抱していた。
申し分ない善の王子。観客からは割れんばかりの拍手が送られる。
――だが、対照的に。
もう一つのコートに立った少女ラナの試合は、異様の一言だった。
対戦相手は、凄まじい威圧感を放つAランクの戦斧使い。
男が怒号を上げ、巨斧を振り下ろした――その瞬間。
――サクッ。
砂が舞う音すら聞こえなかった。
少女ラナは、一度踏み込んだだけ。
気づいた時には、彼女はすでに男の背後に立ち、静かに剣を鞘へと収めていた。
巨漢の男は、胸元の鎧の隙間に正確無比な寸止めの一突きを喰らい、自分が負けたことすら理解できずに、その場に膝から崩れ落ちた。
「お、おい……今、剣を抜いたか!?」
「見えなかった……突きが見えなかったぞ!」
観客席がどよめく中、少女ラナは無表情のまま、静かに控え室へと戻っていく。
勝利の喜びも、傲慢さもない。ただ、作業を終えた職人のような冷徹な静寂。
「なぁ雑用……お前、今の見えたか?」オルドがニヤニヤしながら尋ねてくる。
「……いや。剣の柄に手がかかった瞬間しか分からなかった」
「だろ? ヤツは動きの無駄をゼロにしてる。……ありゃ本物だぜ」
◆
大会は凄まじい速度で進行していった。
準決勝。
ソー王子の試合で、ついにそれが起きた。
対戦相手の猛者から強烈な一撃を受け、ソー王子の額から血が流れた、その瞬間。
「――ハハッ……クソいいねぇ……クソ最高だなぁッ!!」
それまでの穏やかな笑みが嘘のように消え去り、ソー王子の顔が歪んだ歓喜に染まった。
藍色の瞳が、不気味な赤黒い光を帯びる。
悪の人格の出現。
ソー王子は獣のような素早さで敵の懐に踏み込み、曲刀の峰で相手の腕と足を容赦なく粉砕し、絶叫する相手を見下ろして邪悪に嘲笑った。
「ヒィッ……! あ、悪魔だ……!」
倒れた対戦相手が恐怖で失禁する。ソー王子は審判の制止弾を受けて、ようやく我に返ったようにハッと顔を戻し、首を傾げた。
「あれ……? ふぅ、またか」
静まり返る闘技場。
オルドが低く呟いた。「……出ちまったな。あの狂気が聖剣を握ったら、ミリアの二の舞だぜ」
だが、もう一方の準決勝を勝ち上がってきた少女ラナは、そんなソー王子の狂気を前にしても、一ミリも動じなかった。
そして――ついに、決勝戦。
「――最終決勝!! 第四王子ソー・ウルシア 対 Aランク冒険者ラナ!!」
審判の声が響く。
ソーが曲刀を構え、優しく微笑む。「お会いできて光栄です、神速の銀姫。君のような天才と戦えるのを、楽しみにしていた」
少女ラナは細身の剣を静かに抜き、その刃先を真っ直ぐにソー王子の眉間へと向けた。
「……あなたは、強い。けれど……アタシは負けない」
「――始めッ!!」
風が、止んだ。
二人の影が、同時に地面を破って激突する。
銀光と青光が交差する、目にも止まらぬ超高速の剣劇。
試合の最中、ソー王子の瞳に再び悪の狂気が宿り、凶悪な笑みが浮かんだ。
「ハハッ! 殺してやるよ、小娘ぇッ!!」
重厚で残虐な曲刀の一閃が、ラナの首を刈り取らんと襲いかかる!
――だが。
スッ……。
少女ラナの身体が、まるで重力を失った羽毛のように滑らかに沈み込み、ソー王子の殺意の軌道の内側へと滑り込んだ。
相手の悪意の先を完全に読み切った、極限の体さばき。
シュバッ!!
少女ラナの剣先が、ソー王子の喉元コンマ一ミリの皮膚に寸分違わず突き刺さっていた。
完全なる、制圧。
ソー王子の動きが固まり、瞳から狂気がスッと引き、ただの呆然とした表情に戻る。
「……僕の……負けですね」
静寂。
そして――次の瞬間!
「勝者――――ラナぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!」
審判の叫びと共に、闘技場の天井が吹き飛ぶかのような、数万人の怒涛の歓声が巻き起こった!!
◆
「Aランク冒険者、ラナよ……!」
高台からエルムンド王が立ち上がり、その声を轟かせる。
「そなたの剣技、そして揺るぎなき心の強さ、実に見事であった! そなたこそ、聖剣ラナに触れ、その真の主となる資格を持つ者だ!」
大歓声の中、少女ラナがゆっくりと特設台の聖剣ラナのもとへ歩み寄っていく。
俺の指に嵌まる二つの指輪が、ポケットの中でチリチリと不気味に共鳴音を立てた。
胸が、痛いほどに締め付けられる。
(やめろ……触るな! あれは……人の心を喰らう悪魔の剣だぞ……!)
ミリアの地獄が脳裏をよぎる。
だが、少女ラナは躊躇うことなく、その細い手を伸ばし――聖剣の柄を握りしめた。
――ズワァァァァァァンッ!!!!!
瞬間。
闘技場全体を、清らかな蒼と白の光が包み込んだ。
狂気も、暴走も、破壊もない。
ただ、どこまでも温かく、誇り高き光。
聖剣ラナが、彼女という存在を完全な主として受け入れた証。
「……選ばれた」
俺が呟くと、隣のオルドも、リュグナも、息を呑んでその光を見つめていた。
エルムンド王が高らかに宣言する。
「――ここに、新たな勇者が誕生した!! 勇者ラナに、祝福を!!」
「勇者ラナ! 勇者ラナ! 勇者ラナ!!」
地鳴りのような勇者コールが街中に響き渡る。
まさにハッピーエンドの光景。
……だが、俺だけは、その熱狂の中で一人、吐き気と戦っていた。
(また……あの剣が狂ったらどうする? 俺は……また誰かが死ぬのを、ただ見ていることしかできないのか……?)
歓声の真ん中で、勇者となった少女ラナは、照れくさそうに、けれど己の背負った重圧をしっかりと受け止めるような、強い笑顔を浮かべていた。
◆
大会の狂乱から逃れるように、俺は一人、ギルド近くの寂れた酒場へと逃げ込んでいた。
昼間から安い酒を煽り、カウンターの隅で一人うつむく。
店内では、冒険者たちが大会の熱狂を語り合い、勇者ラナの誕生を称え合って乾杯を繰り返している。その声が、俺の耳には毒のように痛かった。
(俺は……あの剣の地獄を知っている。……なのに、何も言えない)
自分が情けなくて、グラスを握る手に力が入りすぎる。
――その時だった。
トントン、と。俺の隣の席の丸椅子が引き引かれ、誰かが静かに腰掛けた。
ふわりと香る、鉄と清らかな風の匂い。
視界の端に映った白銀の髪に、俺は思わず酒を喉に詰まらせて猛烈に咽せた。
「ゲホッ! ゴホッ……!?」
「あはは、大丈夫? お水、貰おうか?」
澄んだ、鈴の鳴るような声。
振り返ると――そこにいたのは、さっきまで大闘技場で数万人に称えられていた勇者ラナ本人だった。
鎧を脱ぎ、素朴な旅装束に身を包んだ彼女は、闘技場での鋭い戦士の気配を消し、年相応の可愛らしい少女の顔を見せていた。
「……な、なんで……ここに……?」
「ふふ、追いかけてきたの」
ラナは席に肘をつき、綺麗な藍色の瞳で、俺の顔を覗き込んできた。
「大会の時ね、数万人の観客の中で……あなただけが、まるで地獄を見ているみたいに怯えた顔をして私を見ていたから」
「……ッ!?」
心臓が跳ね上がった。
「みんなは勇者だ!って浮かれてたのに、あなただけは……今にも泣き出しそうな、辛そうな顔をしてた。それがすごく気になって……気づいたら後を追っちゃってたの」
ラナは直球で、俺の逃げ場を塞いできた。
「ねぇ……ミリアで起きた聖剣の暴走。……あなたでしょ?目の前で見てた冒険者って」
俺は逃げられないことを悟り、重い口を開いた。
ミリアでの地獄。
空から降ってきた理不尽な破壊。
誰も止められず、街が瓦礫に変わったこと。
そして――俺を守ってくれたリード、カナ、ガロウの三人が、帰らぬ人となったこと。
声を震わせながら、俺はすべてを話した。
ラナは、一切口を挟まず、真剣な目で俺の言葉を最後まで静かに聞いてくれた。
話し終えると、彼女は深々と息を吐き、自分の手を見つめた。
「……ありがとう。話してくれて」
ラナは寂しげに微笑み、ぽつりと呟いた。
「正直ね。……私も、すっごく怖いよ」
「……え?」
「選ばれたからって、完璧に使いこなせる保証なんてどこにもないもん。私がこの剣に負けたら……ミリアと同じ地獄が、またこの王都で起きちゃう。そう思うと……本当は、逃げ出したいよ」
言葉の端が、微かに震えていた。
彼女もまた、ただの十七歳の少女なのだ。重すぎる運命を背負わされた、一人の人間なのだ。
だが、ラナはその震えを打ち消すように、ニカッと眩しい笑顔を浮かべて見せた。
「……でもね! 怖いからこそ、私は戦うよ! 選ばれちゃったんだから、やるしかないでしょ!」
強い。
鋼のような芯の強さと、愛嬌。
それが、目の前にいる勇者ラナという少女の真実だった。
「ねぇ、あなたの名前は?」
「……ただの、雑用係だよ」
「ふふっ、ふーん? じゃあ雑用くんね!」
ラナはいきなり、俺に向かって右手を差し出してきた。
「これからよろしくね、雑用くん! 私、あなたがいてくれて……ちょっと勇気が出たよ!」
その真っ直ぐな勢いに押され、俺は戸惑いながらも、彼女の華奢な手を握り返した。
――その瞬間。
ラナの背中に斜めに掛けられた聖剣ラナが、俺の指の二つの指輪と呼応するように、微かに、温かく光った気がした。
(……ああ、ダメだ。俺はまた……とんでもない面倒事に巻き込まれる)
胸の中でそう頭を抱えながらも。
目の前で眩しく笑う少女の姿を見て、俺の心の中の凍りついたトラウマが、ほんの少しだけ解けていくのを感じていたのだった。




