第39章:山岳国家の機巧神匠と砂漠国家の都市伝説−1
復讐の鬼と化したエルフ、ライーオ。
彼が纏う悲痛で、周囲の光すらもブラックホールのように吸い込んでいく重厚な怒りが、完成したばかりの黒鋼の砦の中庭を完全に支配し、大気を物理的に凍りつかせていた、直後だった。
誰も、軽々しく声をかけられない。
つい先ほどまで魔王をぶっ飛ばす!と太陽のように無邪気に笑っていた二人の少年、リクとショウすらも、本能的な死の恐怖に顔を青ざめさせ、息を呑んで硬直している。
彼らでさえ、自らの子を無残に殺された親の、底なしの怨念の深さを前にしては、かける言葉など一つも持っていなかったのだ。
「…………」
レイズも、シンも、ギリーエも。歴戦の猛者たちでさえ、己の武器から手を離さず、ただ静かにその沈黙を甘受していた。
下手に言葉を紡げば、ライーオの限界まで張り詰めた殺意の糸が切れ、同士討ちが始まりかねない。
その、息の詰まるような、針を一本落とせば砦ごと爆発しそうなほどの、絶対的な沈黙を。
「どけ! どけぇい!! ワシの前を塞ぐな、邪魔だヒヨッコども!!」
砦の奥――ドワーフたちが先ほど組み上げたばかりの魔力炉の整備施設から、その場違いすぎる、粗野で暴力的な怒声が、薄氷を巨大なハンマーで叩き割るように響き渡ったのだ。
ドスッ、ドスッ、ドスッ!!
異常なほど重い。まるで鋼鉄の塊が地面を跳ねているような、地響きじみた足音を立てて突進してきたのは。
立派な白い髭を丸太のように太い腹まで伸ばした、いかにも気難しそうなドワーフの老人だった。
「なんだ、あのジジイ……」
レイズが目を細める。
背丈こそ他のドワーフと同じように低いが、その横幅と厚みは常軌を逸している。
そして何より、剥き出しになったその丸太のような両腕は、単なる加齢のシワではない。幾千の魔法の火傷跡と、無数の鋭利な鉄の切り傷の痕で隙間なく覆われていた。
身に纏う油臭い熱気と、鍛え上げられた筋肉が放つ威圧感は、先ほどこの砦を数日で作り上げた五人の上級職人たちとは、明らかに一線を画す異次元のものを放っていた。
「ガ、ガ、ガルドの旦那ァッ!?」
砦をたった数日で建設し、俺たちから見ればすでに神業の領域にいたはずの五人の上級職人たちが。
その老人の姿を見た瞬間、血相を変えて慌てて道をあけ、額に滝のような冷や汗を流しながら、軍人以上に完璧な不動の姿勢をとったのだ。
「おいおい……あの態度。……まさかあいつが、山岳国家ロムダースの神匠か」
シンが、咥えていた煙草を指に挟み直して、引きつった笑いを浮かべて呟いた。
直立不動で硬直している職人の一人が、俺たちに聞こえるように、口をあまり動かさずに小さな声で深く頷く。
「ああ……。俺たち上級職人の、さらに上だ。ロムダースのニ千年という長い歴史上でも、片手で数えるほどしかその称号を与えられていない、最高峰の技術者……機巧神匠のガルド様だ。腕は間違いなく生きた神業だが……性格は、控えめに言って最悪中の最悪だぞ」
その言葉通り、ガルドは道を塞いでいた上級職人の一人のスネを、容赦なく蹴り飛ばした。
「邪魔だと言っておるだろうが! 魔力炉の出力調整をやろう思ったら、なんだこの表の重苦しい空気は! 鉄が湿気るだろうが!!」
だが。
その文句をわめき散らしていた伝説の神匠の目は。
海神のシンも、王族であるギリーエたちも、そしてライーオの纏う底冷えする復讐心すら、全く、完全に眼中になかった。
彼の極限まで血走った両目は、ライーオの背後――大地を揺らして現れたオリーブドラブの鋼鉄の塊、アーティファクト・センシャの暴力的な機能美に、完全に釘付けになっていたのだ。
「お……おおお……おおおおお……ッ!!」
気難しいはずの老職人の皺くちゃな顔が、みるみるうちに、欲しかった極上のおもちゃを目の前にした五歳児のように、だらしなく崩れていく。
彼はフラフラと、まるで何かに魅入られたようにセンシャへと歩み寄った。
「な、なんだ、なんだなんだなんだ!! なんだこの無駄のない美しい装甲は!! 継ぎ目がない!? いや、あるが……なんという緻密な溶接だ! 魔法の火炎を使わずに、どうやってこの均一な強度を出しておる!?」
ガルドは、アーティファクト・センシャの分厚く冷たい鋼鉄の装甲に、ベッタリと頬ずりをした。
「……おいおい、汚ぇな。ヨダレ垂らしてんぞあのジジイ」
レイズが引いた顔で呟く。
「この何重にも連なった車輪! 鉄の帯で覆うことで、悪路の走破性を極限まで高めておるのか!? 天才か!? いや、変態の所業だ!! そしてこの古代魔力の変換効率……排気口から漏れる匂いだけで分かるぞ、ワシらの常識とまるで次元が違う! 何万馬力だ!? あああっ、中を見せろ! 装甲を一枚引っ剥がして、今すぐワシに分解させろ!! 頼む、隅々までワシに調べさせててくれぇぇッ!!」
ガルドは、ハッチの僅かな隙間から少しでも中の構造を覗き込もうと、必死に短い足でプルプルと背伸びをしている。
先ほどの威厳など完全に消え失せ、度を越した重度の兵器オタクと化していた。
あまりの奇行に、ライーオが纏っていた絶対零度の復讐の空気が、見事に霧散してしまった。
「…………」
ライーオは、自身が復讐の誓いを立てていた巨大な兵器に、むさ苦しいドワーフの爺さんが頬ずりしてハァハァ言っているという異様な光景に、深く、本当に深く、疲労困憊のため息をついた。
「……好きにすればいい」
ライーオは、静かに身を引いた。
「私は聖樹の民だ。こんな小賢しく、油臭い鉄の塊の構造などどうでもいい。私は自身の鍛え上げたこの弓と、聖樹の加護のみを信じる。……せいぜい、魔族を惹きつけるただの『デカい囮』にでも使うことだ」
ライーオの目は、センシャという超兵器の軍事的な価値など一切見ていない。彼が見ているのは、あくまで自分の弓で魔族の心臓を射抜く光景だけだった。
「本当か!?」
ガルドが、弾かれたように振り返った。
その顔は、狂気的な技術への探求心で、もはや妖怪のように爛々と輝いていた。
「今、好きにしていいと言ったな、耳長のエルフ!! ワシは聞いたぞ! 全員証人だ! 前言撤回は絶対に許さんぞ!!」
ガルドはクルリと振り返り、直立不動で待機していた五人の上級職人たちに向かって、雷のような大音声の号令を飛ばした。
「よし野郎ども! 休んでる暇はねぇぞ、ワシの生涯で最高の大仕事だ!! すぐにこいつ(センシャ)の構造を隅々まで調べる! 装甲を引っ剥がし、エンジンを下ろし、駆動系を全て丸裸にしろ!」
「お、親方!? でも、もうすぐ魔族が湧いてくるかもしれねぇのに、バラしちまって大丈夫なのか!?」
職人の一人が慌てて問い返す。
「馬鹿野郎! ワシを誰だと思っておる!! バラした上で、さらに強化して組み直すに決まっておろうが!!」
ガルドがスパナを振り回して怒鳴る。
「この砦の迎撃システムの中枢に、こいつの主砲を【強制的にリンク】させるぞ!! 異世界のバケモノ大砲を、砦の固定砲台と魔力炉に直結させて、火力を何十倍にも跳ね上げる【魔改造】を施してやる!! さぁ、かかれェェッ!!」
「「「お、おうさァァァッ!!」」」
ガルドの号令一つ。
それだけで、五人の上級職人たちが、まるで極上の獲物に群がる飢えた蟻のように、巨大なハンマーやスパナ、魔力溶接機を手にして一斉にセンシャに取り付いた。
カンッ! ガキンッ! バチバチバチッ!!
あっという間に、けたたましい金属音と青白い火花が散り始め、千年の遺物に対する容赦のない解析、そしてイカれた魔改造が始まってしまった。
「……あのジジイたち、戦う前にアーティファクトぶっ壊しちまうんじゃねぇか……。大丈夫なのか、あれ」
俺が呆然と呟くと、ギリーエが苦笑しながら肩をすくめた。
「神匠の腕は、各国の王族も保証するところです。何よりアーティファクト・センシャが壊れるはずないのは僕らが一番知っているでしょう? ……ただ、彼らが作業に没頭している間は、有事の際、我々だけで時間を稼がなければなりませんがね」
――そんな、一触即発の悲壮感と、異常な職人魂が入り混じる、混沌とした騒ぎが一段落した、直後。
開け放たれたままになっていた、砦の強固な黒鋼の正門。
そこから、魔境のタールのような冷たく重い風とは全く違う、じっとりと肌を焼くような異常な熱風と共に。
三つの影が、足音もなく、静かに歩み入ってきたのだ。
ここには絶対にあるはずのない、砂漠のじっとりと乾いた熱風が、俺の頬を撫でた気がした。
「皆様、初めましてェェェッ!!」
先頭を歩く、黒い布で口元を覆った細身の青年が。
突如、新兵の訓練かようにピシッ!と背筋を伸ばして直立不動の姿勢をとり、鼓膜が破れるかと思うほどの、異常に元気な大声を張り上げた。
「灼熱の砂漠国家バル=ゼファルより、この度、王国軍の先陣として馳せ参じました! 国王直属暗殺部隊スプリガン序列2位、クラファスと申します!!」
青年は、深々と、定規で測ったように完璧な直角でお辞儀をした。




