第38章:海洋国家の希望と森林国の憤怒
レイズらウルシアカエサル軍と劇的な合流を果たした、俺たち。
彼ら最強の援軍との束の間の再会に、心からの安堵を覚えた数日後のことだった。
ローディオが、大陸中を脅し回って叩き起こした国家という巨大な歯車が。
この大陸最東端の最果ての魔境に向かって、確かな、そして地響きのような唸りを上げて噛み合い始めていた。
ゴボッ……ゴボボォォォォンッ……。
黒鋼の防壁の向こう側。
眼下の大穴から噴き出す瘴気の濃度は、日を追うごとに、いや時間単位で目に見えて凶悪さを増しているようだった。
「……息が詰まりそうね。お肌の水分が全部持っていかれるわ」
防壁の屋上で、ミストが不快そうに白銀の槍の柄を指で叩く。
「文句言うなよ、ミスト。ここ湧き出してくる魔族どもを、根こそぎ叩き切るのが俺たちの仕事なんだからよ」
レイズが、持ち込んだ大剣の刃を砥石で削りながら、凶悪な笑みを浮かべていた。
張り詰めた、嵐の前の極限の緊張感。
全神経を刃のように尖らせ、俺たちが死の底を睨みつけ続けていた、その時だった。
「おーーーいッ!! シン兄ィィィィィッ!!!」
ドゴォォォォンッ!!
突然。
要塞の裏手――魔境の入り口側に設置された、ドワーフ特製の分厚い黒鋼の正門が。
常識外れの、異常な脚力で蹴り開けられたのだ。
「……は?」
俺とレイズは、その場に固まった。
瘴気の立ち込める要塞の中庭に、無邪気な大声を上げながらズカズカと踏み込んできたのは、見慣れぬ二人の少年だった。
一人は、底抜けに明るく、曇り一つない太陽のような瞳をした、まだ幼さの残る桜髪の少年。
もう一人は、その横で「やれやれ」と疲れたようにため息をつく、クールで切れ長の目をした黒髪の少年。
彼らの足元や服の裾は、なぜか大量の海水を被ったようにびしょ濡れで、磯の匂いをかすかに放っていた。
それだけではない。彼らの着ている服には、おそらく化け物の体液や、得体の知れない魔獣の返り血が大量にこびりつき、尋常ではない速度で、途方もない長距離を強行軍してきた過酷な痕跡がアリアリと残っていた。
「……嘘だろ。なんで、こんな前線にガキが……?」
俺が呆然と呟くと、屋上のヘリに腰掛けていた海神のシンが、額に手を当てて天を仰いだ。
「おーう……リク! それにショウ! ……お前ら、よくもまぁ、こんな最果てまで生きて来れたな」
屋上からヒラリと飛び降りたシンが、親戚のやんちゃな子供を見るような、どこか呆れた、しかし確かな慈愛の籠もった優しい目で二人を迎える。
「へへっ! シン兄が遠くで呼んでるんだからさ! 海割ってでも来るに決まってんじゃん!!」
リクと呼ばれた桜髪の少年が、この絶望に沈む魔境の空気を全く意に介さない、太陽のように眩しい笑顔で笑い飛ばした。
「途中、山みたいにデカいモンスターが何体か通せんぼしてたけど、面倒だから、ショウと一緒に全部ぶっ飛ばして最短距離を突っ走ってきたぜ!」
「……こいつが、馬鹿みたいに後先考えずに真っ直ぐ突っ走るから、僕が全部尻拭いしながら引っ張ってきたんですよ。……本当に疲れる。ご無沙汰してます、シンさん」
ショウと呼ばれた黒髪の少年が、丁寧に、しかし毒づきながら冷静に一礼した。
「シン。……知り合いか? ここは、子供がピクニックに来るような場所じゃねぇぞ」
俺が、警戒と呆れを半分ずつ混ぜて背後から問う。
レイズやミスト、そしてカリナたちも、突然の子どもの乱入者に、完全に虚を突かれた顔で階段を降りてきていた。
俺の問いに、シンはニヤリと人の悪い、だがどこか自虐的な笑みを浮かべた。
「ああ。こいつらは昔パーティ組んでたツレが作った孤児院のガキどもだ。……だが、ただのガキじゃねぇ」
シンは、煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
「こいつらは。あのグリンデルの地から回収された【聖剣ソラス】と【聖剣エクス】の……適合者だよ」
「……なっ!?」
その言葉を聞いた瞬間。
第四王子ソーが息を呑み、カリナが驚愕に目を見開いた。
俺も、背筋に強烈な氷塊をねじ込まれたように、冷たいものが走るのを感じた。
聖剣ソラスと、聖剣エクス。
それは、数ヶ月前、魔族の下位貴族ワーズによって完全に陥落し、地図から文字通り消え去った悲劇の国、グリンデル王国の国宝だった聖剣。
あの地獄から俺たちがかろうじて回収した、千年前の転移者が遺した聖剣。
それが。
こんな。
この戦いの圧倒的な重さや、魔族の吐き気を催すほどの悪意すら何一つ知らないような、若すぎる……いや、幼すぎる二人に託されたというのか。
「おい、シン…… それ、本気で言ってんのか?」
いつもは飄々としているレイズが、珍しく、本当に珍しく、本気で顔をしかめてシンに詰め寄った。
「こいつら、まだ子供じゃねぇか。ジークより幼いぜ!? 聖剣の重みに、いや、これからの確実な死の瘴気に、耐えられるわきゃねぇだろ!」
レイズもまた、戦場の残酷さを嫌というほど知っているからこその言葉だった。
聖剣の適合者になるということは、名誉などではない。魔族の標的にされ、最前線で常に命の危険をさらし続けるという、言わば戦場に縛り付けられる呪いだ。
「……俺も、オーシャンのジジイ共に文句は言ったさ。ガキを最前線に立たせるくらいなら、俺が聖剣を二振りとも握って戦うってな」
シンは皮袋の酒を煽りながら、ギリッと奥歯を噛み締めて静かに答えた。
「だが……駄目だった。聖剣が、オーシャンに運ばれた直後、勝手にこいつらを選んじまったんだ。血筋も、身分も、魔力量すら関係ねぇ。ただの二人の子どもを、な」
シンの声には、大人として子供を戦場に引きずり出してしまったことへの、深い憤りと無力感が混じっていた。
「よろしくね、お兄さん! 俺、リク! こっちがショウ! 魔王だかなんだか知らないけど、俺たちが全部ぶっ飛ばして、平和にしてやるからさ!」
リクが、俺に向かって満面の笑みで、親指を力強く立てた。
ショウも、隣で無言のまま、だが確かな自信に満ちた目でコクリと頷いている。
未来を、少しも疑わない純粋すぎる光。
自分が負けて死ぬことなど、微塵も想像していない、圧倒的な無知ゆえの強さ。
それが今の俺には、あまりにもひどく眩しすぎて、直視できずに少しだけ目を細めた。
この純粋な光が、やがて魔族の底知れない悪意に触れて、絶望に黒く染まっていくのかと思うと、胸の奥がチクチクと痛んだ。
「……死ぬなよ、ガキども。いざとなったら、俺の後ろに隠れてろ」
俺が、あえて感情を殺してぶっきらぼうに言い捨てると。
リクは「えー! 俺も一番前で戦うよ! シン兄にいっぱい稽古してもらったんだから!」と、無邪気に頬を膨らませた。
だが。
リクの無邪気な笑い声が、砦の中庭に響き渡った直後。
根本から丸ごと飲み込み、周囲の空気を泥のように重く、そして黒く染め上げる異常な重低音が、砦の外から、すさまじい地響きと共に響いてきたのだ。
――ズォォォォォォォォォン……ッ!!
――ガリガリガリガリッ!!
それは、巨大な岩盤が削られる音であり、同時に、何千トンもの鉄の塊が、無理やり大地を粉砕しながら進んでくるような、常軌を逸した駆動音だった。
「な、なんだ、ありゃ……!?」
防壁の上から身を乗り出したレイズが、目を見開いて絶句した。
ミストも、シンも、そしてリクとショウの二人も、その異物の出現に完全に言葉を失っている。
大地を激しく揺らし、魔境に生える腐った大木を無惨に何十本もなぎ倒しながら現れたのは。
赤茶けた砂埃と瘴気の雲を切り裂いて進む、巨大なオリーブドラブの鋼鉄の塊だった。
分厚いキャタピラが、瘴気に汚染された泥を容赦なく踏み砕く。
空を睨む長大な砲塔が、魔族の気配を探るように冷たく旋回している。
「嘘……。あれは、シルアの森に置いてきた……」
ジークが、信じられないものを見るように呟いた。
そうだ。
かつて、俺たちがシルアの森で神王獣ヤマタノオロチと死闘を繰り広げ、あの八つの能力のすべてを無傷で弾き返した、絶対防御の移動要塞。
俺が元いた世界の戦車の姿をした、千年前の転移者の遺物。
アーティファクト・センシャだ。
「なんで……なんで、アレがこんな最果てに……!?」
俺が呆然とする中。
魔力を燃料として燃やしている独特の重油の匂いが、周囲の空気をさらに重く包み込む。
センシャは、ドワーフたちが開けたままにしていた砦の正門をギリギリの車幅で通り抜け、中庭の中央で、地響きを立ててピタリと停止した。
プシュゥゥゥゥッ!!
高圧の蒸気が吐き出され、重厚な車長用ハッチが、ギギギ……と鈍い金属音を立てて開いた。
そして。
そこから一人の男が、ゆっくりと、まるで生者の世界に迷い込んだ亡霊のような、音のない足取りで降り立ったのだ。
聖樹から切り出された、身の丈ほどもある純白の大弓を背負った、大柄だが極限まで引き締まった体躯のエルフ。
「……ライーオ、殿……」
ギリーエが、砦の階段を駆け下りながら、痛ましそうに、そして己の非を深く懺悔するかのように、喉の奥から絞り出す声でその名を呼んだ。
俺も、息を呑んだ。
彼とは、シルアの森の奥深くで会っている。
ワーズに殺された恩人、ルーナとレーオの実の父親であり、シルア最強の狩人。
あの時は、悲しみを押し殺しながらも、どこか誇り高く、森と民を愛する厳格な長としての理性が確かに存在していた。
だが。
今の彼からは、そんなものは微塵も感じられなかった。
愛する子供たちを、最悪の魔族ワーズによって理不尽に惨殺され、その死体すらも弄ばれ、首だけになって帰ってきたという、狂いそうなほどの現実。
その事実を噛み砕き、飲み込み、絶望のどん底から這い上がってきた男の顔に。
かつての森の長としての穏やかさや誇りは、欠片すら残っていなかった。
「…………」
ライーオの瞳には、光がない。
あるのは、周囲の光すらもブラックホールのように吸い込むような、底なしの暗黒。
絶対零度まで冷やされた、純度百パーセントの、ドス黒い復讐の炎だけだ。
ズッ……。
彼が、無言のまま一歩歩みを進める。
ただ、それだけで。
砦の中庭に生えていた僅かな雑草が、彼の放つ濃密な殺気と絶望の波に耐えきれずに、一瞬にして茶色く枯れ果て、萎れていく錯覚すら覚えた。
いや、錯覚ではない。彼の全身から漏れ出す異常な魔力の波動が、周囲の生命力を物理的に削り取っているのだ。
「……遅くなった」
ライーオの声は、まるで地獄の底を這いずり回る亡者のように低く、そしてひどく掠れていた。
「この……異形の兵器の動かし方を、私の頭で理解するのに、少々手間取った。……だが、もう、逃がさん」
計器の言語など、エルフである彼に読めるはずがない。
だが彼は、ただ復讐のためだけに。その執念と怨念だけで、この千年前の複雑怪奇な鉄の獣を完全に支配し、単騎でこの最果ての魔境まで駆ってきたのだ。
狂気以外の何物でもなかった。
彼が、背中の純白の大弓に、音もなく手をかけた。
その瞬間――砦の中庭の空気が、ビリッ!!と、物理的に凍りついた。
「魔族の血を。内臓を。脳髄を。骨の髄まで、一滴残らず絞り尽くし……」
ライーオの焦点の合わない暗黒の瞳が、大穴の底で蠢く瘴気を、ただ真っ直ぐに射抜いていた。
「……我が子らが眠る聖樹の、肥やしにしてやる」
憎悪。
怨念。
それは、今この戦場にいる誰の感情よりも深く、誰よりも純粋で、そして誰よりも恐ろしい絶対の殺意だった。
「ひっ……!」
ライーオのその呪詛のような言葉と、肌を刺すような本物の殺気を浴びた瞬間。
リクとショウの顔から、先程までの太陽のような無邪気な笑みが、完全に、一瞬にして消え去った。
彼らはガタガタと震え上がり、本能的な恐怖で、シンの背中の後ろへと身を隠すように後退った。
無理もない。彼らは聖剣の適合者とはいえ、まだ子供だ。「魔王をぶっ飛ばす」という絵空事のような正義感でここまで来た彼らにとって、ライーオの纏う地獄の空気は、あまりにも劇毒すぎた。
無邪気な少年たちと、復讐の鬼と化した父親。
何も知らない光と、すべてを失った闇。
この戦場に集まった、あまりにも対極すぎる二つの感情。
俺は、無言で腰のヤマタノオロチのベルトに触れ、魔剣ムラマサの柄を握りしめた。
「……役者は、揃ったってわけだ」
レイズが、額に嫌な汗を流しながらも、獰猛な笑みを無理やり作り直す。
「ああ」
俺も、短く答えた。
各国の強者たちが、それぞれの思惑、正義、復讐、そしてかすかな希望を胸に抱き。
この最果ての防衛砦に、文字通りすべてを懸けて集結しつつある。




