第37章:双竜と聖魔と聖騎士
人類最強の男、聖騎士ローディオが、空間の裂け目へと姿を消してから。
正確に、十日目の昼下がりのことだった。
眼下に広がる魔境の底は、すでに常人が一呼吸しただけで肺胞がドロドロに焼け爛れ、数秒で血を吐いて死に至るような、タールのように黒く粘り気を帯びた高濃度の瘴気で完全に満たされつつあった。
ドワーフの上級職人たちが、神業で組み上げた対魔族用防衛砦。
その三十メートルを超える、冷たく強固な黒鋼の防壁の屋上で。
俺とシン、そしてジークの三人は、自身の魂をヤスリで削り落とされるような極限の疲労の中、交代で封印の地を睨み続けていた。
これは、睡眠不足や筋肉の疲労といった、単純な肉体的な疲労ではない。
足元の奥深く、分厚い岩盤のさらに下。千年の封印の扉の向こう側から、絶え間なく地響きのように伝わってくる純粋な悪意の鼓動。
いつ、どんなバケモノが空間を割って現れるか分からない。その恐怖の対象を、逃げ場のない最前線でただひたすらに警戒し続けるという、拷問に近い極限の精神的苦痛だった。
「……なぁ、これ、本当に間に合うと思うか?」
防壁の縁に腰掛け、両足を空中に投げ出していた海神のシンが、珍しく、本当に珍しく、弱音を吐き出した。
彼は火の点いていない煙草を咥え、指先から小さな魔力の火花を出して火をつけると、煙を細く、震える息と共に吐き出した。
「各国の精鋭たちが軍を編成して集まる前に……あのワーズ以上の、上位貴族の魔族が現れるかもしれねぇ。それが今日なのか、明日なのか。……下手すりゃ、今、俺がこうして瞬きをした瞬間に、かもしれねぇんだ」
シンの金海色の瞳が、濃霧のような瘴気の底をじっと見つめている。
その瞳の奥には、かつて己の故郷を滅ぼされ、自分一人だけが海へ逃げ出したという、決して消えないトラウマがドス黒く渦巻いているのが分かった。
あの時と同じだ。圧倒的な暴力が、もうそこまで迫っている。
「……珍しく弱気だな、シン」
俺は腕を組み、冷たい瘴気の風に吹かれながら、西の空――ローディオが消えた方角を睨み据えた。
平静を装ってはいるが、俺自身の生物としての生存本能も、すでに限界を超えて、今すぐここから逃げろと警鐘を鳴らし続けているのがわかる。
腰に巻いた神王獣ヤマタノオロチのベルトが、主の恐怖に呼応するように、微かに、だが不気味に脈動を繰り返している。
「信じて待つしかない。ローディオのオッサンが、大陸中の最強どもをここへ連れてくるまで。……俺たちが、この防波堤を死守する。それだけだ」
俺の言葉に、シンはふっと自嘲気味に笑い、煙草をブーツの底で揉み消した。
「……違えねぇ。今度こそ、逃げるわけにはいかねぇからな」
――その、時だった。
ギギィィィィィィィィンッッッ!!!
砦の自動迎撃システム――四方の見張り塔に設置されたドワーフ特製の魔力砲台が、けたたましい鼓膜を劈くような魔力反応の警報音と共に、一斉に駆動音を響かせ、その太い砲身を西の空へと向けたのだ。
「て、敵襲!? 上空から来ますッ!!」
限界まで神経を張り詰めていたジークが、悲鳴のような、だが確かな戦士の声を上げ、黒い筒――アーティファクト・ヒナワを上空へと構えた。
極度の緊張から、引き金に掛けられた彼の小さな指が、血の気が引いて真っ白に変色している。
ブォォォォォォォンッ!!
分厚い瘴気の雲が、不自然に巨大な渦を巻き、まるで見えない巨大な刃で内側から乱暴に抉られるように、真っ二つに裂けた。
そこから、一切の減速なしで、砦の中心目掛けて一直線に急降下してきたのは、四つの巨大な影。
ジィィィィンッ……!
防壁の自動迎撃システムが、空の異物を魔族と判定し、一斉に魔力弾を放とうと青白い極大の光を砲口に収束させ始める。
ジークも、ヒナワの銃口に純白の熱線を圧縮し、射撃体勢に入った。
「……待て、ジーク! 撃つな! 親方!! 迎撃システムを今すぐ停止しろォッ!!」
俺の心臓が、ドクンッと大きく、肋骨がひび割れるかと思うほど激しく跳ねた。
俺の視界が、分厚い瘴気の奥から落ちてくる、それの姿を、正確に捉えていたのだ。
空を裂いて降りてきたのは、魔族の尖兵やバケモノなどではない。
軍事国家カエサルの正規軍において。
最高戦力である竜騎士のみが、その使役を特別に許される、強靭極まりない真紅と白銀の飛竜たちだ。
通常なら、カエサルからここまで飛ぶのに2週間はかかる距離を。
飛竜の限界速度を維持し続け、文字通り命を削って、不眠不休で飛び続けてきたのだろう。
竜たちの美しいはずの鱗はボロボロにひび割れて血を滲ませ、牙の剥き出しになった口からは、荒々しい炎の混じった血の息が絶え間なく漏れている。
ズシィィィィィィィンッッッ!!!
凄まじい風圧と、鼻をつく強烈な硫黄と血の匂いを撒き散らしながら。
四頭の飛竜が、砦の巨大な中庭に、着地というよりは半ば墜落に近い形で、強引に不時着した。
ドワーフが組み上げた強固な黒鋼の床から爆発のような土煙がもうもうと舞い上がる。
もうもうと舞い上がる濃密な土煙を、真っ二つに鋭く切り裂き。
飛竜の背から、見慣れた、そして今、俺たちが世界で一番会いたかった奴らが、次々とその姿を現した。
「おうおうおう! 辺境のド田舎だって聞いてたが、随分と立派な城が建ってんじゃねぇか! 俺の部屋は、一番日当たりのいい最上階のスイートを用意してあるんだろうなァ!?」
バサァッ!と、真紅の竜騎士マントを翻し。
いつものように口角を吊り上げ、悪びれた笑みを浮かべて歩み出てきたのは、ナンパで型破りな火竜。竜騎士レイズ。
その軽薄な言葉とは裏腹に、彼の手にはすでに、幾多の死線をくぐり抜けてきた愛用の大剣が、いつでも抜けるよう固く握り込まれている。
そして何より。血走った眼で無傷の俺たちの姿を捉えた彼の目元には、隠しきれない深い安堵が、微かに、しかし確かに滲んでいた。
「相変わらず、品と知性の欠片もない着地ね、レイズ。飛竜たちが限界を超えて飛んでくれたのだから、もう少し労りなさいな。……それにしても」
レイズへの冷徹なツッコミと共に、細身の白銀の槍を携え、土煙の中を羽毛のように優雅に降り立つ氷竜。竜騎士ミスト。
「ここが東の魔境……。最悪ね。肌が荒れそうな、ひどい空気」
彼女は文句を言いながらも、すぐさま自身の飛竜の首元に、純度の高い極寒の冷気を当てて、オーバーヒートしかけている竜の血を素早くクールダウンさせている。
そして、その氷のように鋭い視線は、瞬時にこの砦の構造、耐久値、周囲の地形、そして大穴から漏れ出す魔力の流れを、機械のように冷徹に分析し始めていた。
「レイズさん! ミストさん!! それに……!!」
ジークが、屋上の手すりから身を乗り出して、声を裏返らせた。
無理もない。飛竜の背から降りてきたのは、カエサル王国の二人だけではなかったのだ。
ウルシア王国の王族までもが、王族の威信もクソもなく、単なる一兵卒のように竜の背に相乗りして、この死地へと駆けつけてきたのだ。
「遅くなってすまない。……待たせたかい? ジーク」
いつもの文官のような、分厚い書類の束の代わりに。
禍々しい装丁が施された分厚い魔導書を片手に降り立ったのは、ウルシア王国第二王子、ギリーエ。
王宮で政務を執る、あの温和で理知的な兄の面影はない。
今の彼の全身からは、戦場の最前線に立つ指揮官としての覚悟と、迫り来る魔族を盤面上から徹底的に殲滅するための冷酷な知略が、見えない刃のように滲み出ていた。
「クソみたいな場所に陣取ったな、お前ら。……だが、殺戮の舞台としては、クソ悪くねぇ」
三頭目の竜から、獣のようにしなやかに飛び降りたのは、ウルシア王国第四王子、ソー。
彼の顔には、不敵で好戦的な笑みを浮かべる悪の人格と、仲間を案じる静かな闘志を瞳に宿した善の人格が、マーブル模様のように入り混じっていた。
歩くたび、彼の腰に差された人類の希望の象徴聖剣ラナと、魔族の絶望の象徴魔剣オボロが、重々しい金属音を立ててぶつかり合い、周囲の瘴気を威嚇するように払いのける。
そして――最後の一頭から、重力すら感じさせない軽やかな身のこなしで降り立った、純白の影。
「……無事で、よかった」
光の剣姫、聖騎士カリナ。
彼女の美しい金髪が、荒野の乾いた風にフワリと舞う。
王国の象徴として、常に気高く、誰よりも完璧であらねばならなかった彼女の眼差しは。
今は、死地に赴く冷徹な騎士のそれではなく。ただ純粋に、共に地獄を戦い抜いてきた仲間の無事を喜ぶ、心配と安堵で微かに濡れていた。
手にした純白の騎士剣が、彼女の感情に呼応するように、この暗闇の魔境の中で、温かく澄んだ光を放っているようだ。
「お前ら……!」
俺は防壁から飛び降り、彼らの元へ駆け寄った。
気の利いた言葉なんて、何も思い浮かばなかった。多くは必要なかった。
ガシッ!!
レイズが、俺の肩を強く抱き込み、俺の骨がミシミシと軋むほど乱暴に揺さぶった。
「よく生きてたな、大将! オジキが本国で留守番して、軍をまとめてる分、俺が先陣切ってきっちり暴れてやるよ! お前はもう十分に仕事した! あとは後ろでふんぞり返って見てな!」
「バカ言え。レイズがとちって死なねーように、俺が前線で道を作ってやるよ」
俺が口角を上げて笑い返すと、レイズも獰猛な笑みを深めた。
「カエサルから飛竜の全速力でウルシアに寄って、無理やりこの王子様たちを拾ってきたのよ。この短期間での強行軍……後で一生分、私たちに感謝しなさい」
ミストが、フッと微かに、だが確かな信頼を込めて微笑む。
「大将」
レイズが、突然真顔になり、自身の腰の特殊なホルスターから、重厚な黒い二丁拳銃を取り出し、俺に向かって無造作に放り投げた。
「とりあえずは、お前がそれを持っといてくれ」
パシッ。
両手で受け取った瞬間、ズンッ!と腕が下がるほどの恐ろしい質量。
アーティファクト・デザート&イーグル。
そのひんやりとした冷たい金属の感触と、俺の掌の形にピタリと吸い付くようなエルゴノミクスグリップ。
銃口から微かに漏れる、暴発寸前のドス黒い魔力が、この武器の放つ理不尽な破壊力を雄弁に物語っていた。
「了解。……多分、俺じゃ上手く使えないと思うけどな」
「謙遜すんなよ。さんざん色んなバケモノの能力を武装化しまくって、強引に操ったんだ。お前ならいけんだろ。多分……」
絶妙な無責任さが漂う空気に、俺とレイズは思わず声を出して笑い合った。
『みんな揃ったね! カリナさんもソーも、前に会った時より、ずっと顔つきが良くなってる! これなら絶対に勝てるよ、相棒!』
俺の胸元で、ラナの声が嬉しそうに弾んだ。
彼女の存在と、目の前に揃った最強の戦友たちの姿が、張り詰めて千切れそうだった俺の精神を、力強く現世へと繋ぎ止めてくれる。
「……ジーク」
ギリーエが、砦の階段を転げるように駆け下りてきた弟の前に立ち。
その細い肩に、いつになく優しく、そして力強く両手を置いた。
ジークは、ヒナワを抱えたまま、全身をガタガタと震わせていた。
「よく、耐えたね」
ギリーエの声は、王族としての威厳ではなく、一人の兄としての深い慈愛に満ちていた。
「あの臆病で、飛竜に乗るのすら嫌がっていたお前が。誰よりも早く魔族封印の地に赴き、この恐怖の中で、決して逃げずに睨みをきかせていた。……お前は、誇り高きウルシア王国の英雄、そして私の自慢の弟だ」
「う、はい……っ!」
ジークの目から、これまで張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れたように。
大粒の安堵の涙が、ボロボロとこぼれ落ちた。
「僕、頑張りました、兄上……っ! すっごく怖くて……毎日、足が震えて、何度も何度も逃げ出したかったけど……っ! でも、シンさんたちが、前を歩いてくれるから……僕も、逃げなかったよ……っ!!」
「ああ。知っているとも」
ギリーエは、泥と涙でぐしゃぐしゃになった弟を、力強く抱きしめた。
王族としての重圧。
常に強者の兄姉たちに囲まれ続けていた劣等感。
そして、自分の持つヒナワの恐ろしさ。
そのすべてを小さな胸の内で一人で押し殺し、正気を失うほどの最前線で、ただひたすらに踏みとどまり続けた彼への、これ以上ない最高の労いだった。
ジークの泣き声が、黒鋼の砦に響き渡る。
誰も、それを笑う者はいなかった。
絶望の底で、いつ決壊するかも分からない千年の封印を、たった三人で監視し続けていた俺たちにとって。
彼らの到着は、どんな強固な防壁よりも、どんな強力な兵器よりも。
何よりも温かく、強い希望だった。




