第35章:千年の想いー1
深い霧が、まるで亡者の手のように冷たく肌を撫でる。
いや、撫でるという生易しい表現は正しくない。
呼吸をするたびに、肺の粘膜がチリチリと焼け焦げ、露出した皮膚が微細なガラス片でガリガリと削り取られていくような、明確な殺意を持った大気だった。
「……ハァッ……ハァッ……っ!」
ジークが、口元を厚手の布で覆いながらも、苦しげな呼吸を漏らす。
彼が胸に抱き抱えたアーティファクト・ヒナワの漆黒の銃身が、周囲の空気に反応して微かに明滅し、主を護るように防護の熱を発していた。
「……息を浅くしろ、兄弟。……深く吸い込めば、肺胞が内側からやられるぞ」
前を歩く海神のシンが、油断なく金海の瞳を光らせながら低く忠告する。
イーリス大陸の最東端にほど近い、地図にすら存在しない名もなき魔境の谷底。
陽の光すら届かないこの分厚い瘴気の底に、歴史の裏側はひっそりと、だが周囲の空間を押し潰すような異様なまでの存在感を放って鎮座していた。
この世界に『魔剣』『聖剣』『アーティファクト』という、生態系を容易く崩壊させる兵器をもたらした、三人の造り手たちが眠る場所。
伝承にすら残っていない絶望の最果て、あえて名付けるなら。三鍛冶の墓所。
「……こいつは、ひでぇな。……何の冗談だ、こりゃ」
最奥の岩壁と一体化するようにそびえ立つ、巨大な石扉を見上げ。
海神の異名を持つオーシャン最強の冒険者シンが、心底嫌そうに顔を歪めた。
見上げるほどの質量。見渡す限りの滑らかな一枚岩。
そこに、幾重にも、何十層にも重なる緻密な魔法陣と、この世界のどんな学術書や歴史書にも載っていない複雑怪奇な古代文字が、まるで呪いのようにびっしりと刻み込まれている。
その文字の一つ一つが、周囲の濃密な瘴気を喰らいながら、呼吸をするように不気味に赤黒く明滅していた。
「……おいおいおい。こりゃあ、力でこじ開けるのは物理的に不可能だぞ」
シンが、石扉の表面から数センチ離れた空中に手をかざし、大気の波を読み取って舌打ちをした。
「波が完全に自己完結してやがる。外部からの干渉を一切受け付けない、文字通りの絶対的な拒絶ってやつだ。……鍵穴はおろか、俺の水を流し込んで内部を破壊する隙間すら、一ミクロンも存在しねぇ」
シンは苛立たしげに首の後ろを掻きむしり、忌々しげに石扉を睨みつけた。
「術式の解読に何十年……いや、何百年かかるか分からねぇぞ。どうする、大将? こいつは今まで俺が見てきたどんな遺跡よりもタチが悪い。
無理矢理ぶち壊そうとすれば、加えた攻撃が数千倍に増幅されて反射してきて、この谷底ごと俺たちが消し飛ぶ規模の爆発が起きるぜ」
「ぼ、僕のヒナワなら……!」
極度の緊張と瘴気にあてられ、青ざめた顔をしたジークが、震える手でヒナワの銃身を構えようとした。
「一点集中で、この扉の真ん中を撃ち抜けば、あるいは……!」
「やめとけ、ジーク。シンの言う通りだ」
俺はジークの細い肩にガシッと手を置き、静かに首を振って制した。
「そんな力押しが通用する代物じゃないことぐらい、お前も分かってるだろ。反射を食らって、俺たちまで塵も残らず消し飛ぶだけだ。……それに、こいつはそういう扉じゃない」
「……え?」
ジークが、不思議そうに俺の顔を見上げる。
シンとジークが、凶悪な魔法陣の構造と反射の脅威に気を取られている中。
俺の目は、彼らとは全く別のものを捉えていた。
俺の心臓は、先程から嫌な汗をかくほどに、ドクン、ドクンと早鐘を打っている。
古代文字? 凶悪な魔法陣?
いや。違う。そんなものは、この扉の本質じゃない。
あれは、この世界の住人の目を逸らすための、ただのド派手なブラフだ。
俺の視線は、石扉のど真ん中――複雑な魔法陣の中心にひっそりと埋め込まれた、小さな四角いプレートに釘付けになっていた。
この剣と魔法のファンタジー世界には絶対に存在してはならない、あまりにも見慣れた、力強い筆致の漢字。
そしてご丁寧に、真鍮のような金属製のプレートに、周囲の荘厳なファンタジーの意匠をぶち壊すように、乱暴に刻み込まれた英語。
『WARNING:KEEP OUT』
『警告:これより先、外道の立ち入りを禁ず』
『※合言葉:日の本において、武士の魂と称されるもの』
『……ねえ、相棒。これって、まさか……』
胸元のペンダントの中で、ラナが信じられないというように、震える声で囁いた。
彼女もまた、俺の記憶の深層を通じて、この文字の持つ異質さを完全に理解していた。
(ああ。……最悪で、そして最高に悪趣味なセキュリティだ)
俺は、奥歯をギリッと噛み締めた。
アーティファクトの造り手と、聖剣、魔剣の造り手。
それぞれ別の世界、あるいは別の時代から、このイーリス大陸に飛ばされた転移者たち。
彼らが、この世界の未来の人間を徹底的に拒絶し、決して中へ入れないために遺した、強烈な悪意と皮肉すら感じるロック機構。
この世界の住人には、どれだけ高度な魔法技術があろうと、何年かけようと絶対に解読できない。
なぜなら、これは魔法の術式ではない。
俺たちの元いた世界にしかない知識の壁だからだ。
俺は頭痛を堪えるように、こめかみを強く揉んだ。
様々な感情が、胸の奥でドス黒く渦巻く。
おそらく同郷であろう先人たちが、どんな思いでこの世界に落ち、絶望の中で武器を打ち、そしてこんな最果ての地で、同郷の者にしか開けられない扉を閉ざして死んでいったのか。
その孤独と絶望が、冷たい石の表面からヒリヒリと伝わってくる気がした。
「……下がってろ、二人とも。俺が開ける」
「はァ? 開けるったっておめぇよ!」
俺が一歩前に出ると、シンが声を荒らげて制止した。
「さっきも言っただろ! 万が一このレベルの防壁の反撃を食らえば、お前だってタダじゃ済まねぇぞ!」
「大丈夫だ。あの仰々しい魔法陣は全部ダミー……いや、力ずくで開けようとする馬鹿を殺すための、ただのトラップだ。……多分、この世界で、今ここにいる俺にしか開けられない」
「お前しか……?」
シンが怪訝な顔をするのをよそに、俺はシンの制止を振り切り、濃密な瘴気をかき分けて巨大な石扉に歩み寄った。
見上げれば見上げるほど、その扉に込められた先人たちの執念のようなものが、物理的な圧力となって肌を刺す。
俺は、その漢字の警告文の下に隠された、小さなからくり仕掛けの文字盤――あいうえお順に並んだ五つのダイヤルに、躊躇いなく指を触れた。
『日の本において、武士の魂と称されるもの』
答えは、一つしかない。
俺は、錆びついたダイヤルに魔力を込めず、ただの物理的な力で回した。
カ。
タ。
ナ。
カチリ。
静かな、だが重厚な金属の噛み合う音が、瘴気に満ちた最果ての墓所に鳴り響いた。
――ズゴゴゴゴゴゴゴゴォォォッ……!!
直後、谷底全体が、巨大な生物の胎動のように激しい地震に見舞われた。
千年の間、何者も拒絶し続けた絶対防壁の魔法陣が、まるでパスワードの入力によって役目を終えたように明滅をピタリと止め、音を立てて次々とパージされていく。
そして、何トン、いや何十トンあるかも分からない巨大な石扉が、重々しい地響きと共に、ゆっくりと、その暗い口を左右へと開き始めたのだ。
「「…………は?」」
シンとジークの、完璧にハモった、宇宙の真理でも見失ったかのような間抜けな声が背中に突き刺さる。
「……嘘だろ、オイ……」
シンが、咥えかけていた葉巻を地面にポトリと落とした。
「あんなデタラメな次元の術式を……ただダイヤルを回して触っただけで……」
「……す、すごいです……! やっぱり英雄だ……!」
ジークが、尊敬の念を通り越して、もはや神でも見るようなキラキラとした目で俺を見つめている。
シンの呆然とした呟きと、ジークの熱視線を背中で受けながら。
俺はそれを説明する気にもなれず、ただ前だけを見据えて、千年ぶりに開かれた墓所の暗闇の先へと、静かに足を踏み入れたのだった。
重厚な石扉と、厳重すぎるセキュリティ。
だが、その奥に広がっていた墓所の内部は、俺たちの予想を完全に裏切り……拍子抜けするほど質素で、どうしようもなく物悲しい空間だった。
神話の武具を創り出した者たちの墓所。
そこには、王族の墓のような金銀財宝や、魔力を帯びた豪華な装飾品など一切存在していなかった。
広大な石室の中央にあるのは、冷え切り、ひび割れた三つの巨大な炉を模した墓。そして、それぞれの主が最期まで振るっていたであろう、錆びついて原形を留めていない金槌や、鉄の残骸が散らばっているだけだ。
「……なんだこりゃ。ガラクタの山じゃねぇか」
松明に火を灯したシンが、拍子抜けしたように辺りを見回す。
だが、俺の足は、迷うことなく石室の一番奥――ひっそりと佇む、一つの石の台座へと向かっていた。
そこだけが、異常だった。
周囲の道具が千年の時を経て風化し、ボロボロに崩れているというのに。
その小さな台座の上だけは、埃一つかぶっていない。明らかに何らかの強力な時間凍結の保存魔法がかけられたその場所に、一巻の古びた巻物がポツンと置かれていたのだ。
俺は吸い寄せられるようにそれに近づき、巻物の端に擦れた墨で書かれた文字を見た。
『私録 杉林道義』
その表題を目にした瞬間、俺の視界が微かに揺らいだ。
この剣と魔法が支配するイーリス大陸において、あまりにも場違いで、あまりにも懐かしい、微かな墨の匂い。
「……大将? 急に黙り込んでどうした。瘴気にあてられて具合でも悪ぃのか?」
シンが、心配そうに背後から声をかけてくる。
俺は返事もできず、震えそうになる指先を必死に抑え込みながら、慎重にその古びた巻物の紐を解いた。
和紙のような独特の質感。
そこに記されていたのは、伝説の武器の設計図でも、秘匿された魔法の術式でもなかった。
そこにあったのは、一人の男が、異世界という名の地獄に叩き落とされ、それでもなお人間として生きようともがいた、血を吐くような情念の記録だった。
『某、不覚にも異界の地に落ちて数年。この地、強大な妖や魔なる者どもの跋扈する、まさに地獄なり』
冒頭の一文から、紙を突き破らんばかりの凄まじい筆圧が伝わってくる。
文字の端々に滲む、やり場のない怒りと絶望。そして、孤独。
『理不尽に人が死に、無力な民が一方的に蹂躙される。この地の神は死んだか、あるいは最初から存在せぬか。
某には、この凄惨な光景を黙って見過ごすほど、枯れた心は持ち合わせておらぬ。
幸いにして、この地に降り立った某には属性付与なる不可思議な異能力が宿っていた。
鉄に火を、風を、時間を、そして世界の理そのものを打ち込める力……。
刀鍛冶の端くれとして、この地の友を救うため、某はただひたすらに、己の魂を削って鉄を打つ』
読み進めるにつれ、最初は整っていた力強い筆跡が、次第に乱れ、のたうち回るような書体へと変貌していく。
それはまるで、鉄を打つごとに彼を蝕んでいった呪いそのものを写し取っているかのようだった。
『聖剣と呼ばれる眩き西洋の剣を造りし者、あるいは遠い未来の兵器を造りし同郷の者たちとは、最期まで考えが合わなんだ。
彼らは、世界を救おうとした。王に仕え、人類の英雄を導こうとした。
……だが、某は違う。世界などどうでもよい。ただ、目の前の友を救うため。
某が打ったのは、ただ四本の刀。それのみ。――朧、村正、鬼丸、宗近』
「……っ」
俺の胸の奥が、熱い鉄を直接押し当てられたような感覚に襲われた。
俺は、自身の腰に差した漆黒の業物、魔剣ムラマサの柄を、強く、強く握りしめた。
そして、ソーの持つ次元を裂く魔剣オボロ。
これらの剣は、後世の人間が畏怖を込めて呼ぶ魔剣などという、邪悪な呪いの武器ではなかったのだ。
『いずれも某の異能力のすべてを注ぎ込み、この狂いの世界の理をねじ曲げた、業物なり。
友よ、どうかこれで、君の愛する者を守ってくれ。
やつの言うことが偽りでないのであれば、我ら転移者の異能力には、もう一段階、その先がある。
某はもう、鉄を打つ腕が動かぬ。目が、見えぬ。あの魔族の呪いが、五体を蝕んでいる……』
巻物の余白。
そこには、彼が愛した当時の江戸の情景だろうか。
小さな桜の花びらのような汚れが、あるいは……彼が最期に流した、枯れ果てた涙の跡が、薄く、黒く残っていた。




