第34章:海神のシンー2
その美しい都市を蹂躙しているのは……魔族ではなかった。
ただの人の形をしたシルエット。
だが、そいつらが無造作に振るう力は、俺の知る魔力でも闘力でもなかった。
天が割れ、空間がねじ曲がり、重力が反転する。
それは、この世界の法則を根底から踏みにじり、嘲笑うかのような……極めて異質で、絶対的な理外の力だった。
映像の中の街の人々は、必死に抗っていた。
聖剣や魔剣に匹敵するであろう強大な輝きを放つ武具を持った戦士たちが、一斉にその人形へと攻撃をする。
だが――そのすべてが、見えない力によって紙屑のように空中で捻り潰され、血の雨となって街に降り注いでいく。
完全な虐殺。圧倒的な蹂躙。
そして。
血の海の中で、無数の仲間たちや家族が次々と肉塊に変わっていく中。
傷だらけになった若き日のシンが、必死に手を伸ばす仲間たちへ背を向け――。
ただ一人、波を操り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、海へと逃げ出していく姿が映し出されていた。
「……あ……」
あまりにも生々しい絶望の記録。
シンが常にヘラヘラと笑いながら、決して語ろうとしなかった過去の正体。
――バシャァァァァァッッ!!
俺がその惨劇に言葉を失った瞬間、シンが水面を乱暴にブーツの底で蹴り飛ばした。
激しい水飛沫が上がり、湖面の波が乱れる。
水底の幻影は一瞬でかき消され、ただの暗く冷たい水へと戻った。
「……シン。 今のは……」
俺が問いかけると、シンはゆっくりと顔を上げた。
「幻だよ、幻。……ここの湖は、タチの悪い嘘ばっかりつきやがるのさ」
シンは、いつものように飄々とした、呑気ないつもの笑みを浮かべていた。
だが……。
その金海の瞳の奥には。
俺の抱える罪悪感など軽く飲み込んでしまうほど深く、どす黒い絶望が、冷たく張り付いていたのだ。
その夜。幻影湖を無事に渡りきった俺たちは、霧の晴れた対岸の岩場で野営の準備を整えていた。
極限の精神的疲労からか、ジークは夕食の干し肉をかじり終えるや否や、ヒナワの銃身を抱きしめたまま泥のように眠りについてしまった。
パチッ、パチッ……と、乾いた薪が爆ぜる音だけが、静寂に包まれた夜の谷間に響いている。
揺らめく焚き火の炎を挟んで、起きているのは俺とシンだけだった。
「……なぁ、シン」
俺は、火ばさみで薪の位置を調整しながら、ずっと喉の奥に引っかかっていた疑問を口にした。
「……あの水底に映ってた、お前の故郷を滅ぼした奴ら。あれは……魔族じゃないな」
シンは、手にした革袋の酒を火の光に透かして見つめ、長く、重い息を吐き出した。
「……あぁ。俺の生まれた場所の話だ。……このイーリス大陸から海をずっと、ずっと越えた先。ここらとは少し文明が違う土地でな。……ある日突然、上から降ってきたんだ」
俺は火ばさみを止め、無言でシンの次の言葉を待った。
「地底の暗闇から湧き出してくる魔族どもとは違う。もっと高く……人間の手なんか絶対に届かねぇ、遥か上の場所からだ」
「何が振ってきたんだよ、誰なんだよ」
シンの金海の瞳に、再びあの水底で見た業火の記憶が揺らめく。
「そいつらは、時間をかけて、ゆっくりと、まるで害虫を駆除するみたいに淡々と……確実に俺たちの故郷を食い荒らした。そいつらの正体は――」
――その瞬間だった。
「……ぐっ……!? が、ァッ……!!」
突如として、シンの顔が尋常ではない苦痛に歪み、彼が自身の太い首を両手で激しく掻きむしり始めたのだ!
「シン!? おい、どうしたッ!」
俺が立ち上がりかけた時、シンの首元から青白い光が漏れ出しているのが見えた。
それは、複雑に絡み合った波の紋様のような魔法陣。
その光の紋様が、まるで実体を持った鋼鉄の首輪のようにシンの首に深く食い込み、彼から言葉と呼吸を強制的に奪い取っていた。
「……がッ、ハァッ……ハァッ……!!」
シンが、白目を剥きかけながらも、己の強靭な精神力で無理やりその言葉を飲み込み、喉の奥へ押し留める。
すると、首を締め上げていた波の紋様が、嘘のようにスゥッと肌の下へ消えていった。
「……シン……今の光は、一体……」
「……心配すんな。こいつは……海神との契約の代償だ」
シンは、荒い呼吸を整えながら、首についた自分の爪痕を乱暴に擦った。
「……いや。大罪を犯した俺を一生縛り付ける、呪いって言った方が正しいか」
シンは、皮袋の酒をドクドクと胃の腑に流し込み、口元を手の甲で拭った。
「あの日……故郷を滅ぼした連中の真実や名前を直接口にしようとすると、こうして首が締まり、魂ごと縛られてるんだ。……誰にも言えねぇ。誰にも伝えられねぇ」
俺は絶句した。
この男は、誰にも言えない重すぎる真実と、喋れば殺される呪いを抱えたまま、たった一人で海を渡り、今までずっとあの呑気な冒険者を演じていたというのか。
「だから、今の俺が言えるのは、これだけだ」
シンは、焚き火越しの俺の目を、射抜くように真っ直ぐに見据えた。
「故郷を滅ぼした奴らは、圧倒的に異常だった。俺たちの知る極大魔法も、アーティファクトレベルの武具も一切通用しねぇ、反則みてぇな力。……そしてよ、大将」
シンの声が、一段階低く、凄みを帯びた。
「お前が使う、死体を武装化するそのデタラメな力。……俺は、お前の能力を見た時から、ずっと気になってたんだ。……お前の力からは、あの故郷を滅ぼした連中と、どこか同じ波を感じるんだよ」
俺は、心臓の鼓動がピタリと止まるような衝撃を受けた。
同じ波。
世界の理から完全に外れた力。
『……相棒。シンさんの言ってること、よくわかんないけど……なんか、すごく重たくて、怖いね』
(あぁ……そうだな)
俺は、無意識のうちに己の両手のひらを見つめていた。
モンスターの死骸に触れ、その記憶と特性を強制的に読み取り、己の肉体の装甲として再構築して振るう俺の武装化。
現代日本から転移してきた時は、ただのちょっとグロテスクでチート能力と呼ぶには使い勝手の悪い能力だと思っていた。
だが、この世界に生きる純粋な人間からすれば、魔力も闘力も一切持たないからっぽの人間が神獣の力を振るうなど、得体の知れない完全なチートでしかないのだ。
俺の異常な戦い方が、シンに、あの故郷を滅ぼした侵略者たちの絶望をフラッシュバックさせていたなんて。
俺が重い沈黙に沈んでいると、シンはフッと自嘲気味に鼻で笑った。
「勘違いすんなよ。お前が侵略者の仲間だとか、邪悪な存在だとか言いてぇわけじゃねぇ」
シンは、パチパチとはぜる火の粉を見つめながら、ぽつりと懺悔するように語り始めた。
「俺たちだって、抵抗しなかったわけじゃねぇんだ。大陸中の神話の言い伝えにある宝具を全部引っ張り出して、血反吐を吐くまで抗った。……でも、無駄だった」
彼の大きな背中が、ひどく小さく見えた。
「……そして、俺は逃げた。一緒に戦っていた仲間たちを見捨てて。俺の波を操る能力を使って、自分一人だけ海を渡って逃げ延びた。……俺は生存者なんかじゃねぇ。ただの、卑怯で惨めな逃亡者さ」
それが、オーシャンで最強の冒険者と謳われ、海神とまで呼ばれる男の背負う、決して消えない十字架。
「だからよ。故郷を滅ぼした連中と同じような理外の力を持ってるお前が……自分の身をボロボロに削ってまで、仲間のために最前線で命を張って戦ってる姿を見てるとよ」
シンは、俺を見て、初めて本当に優しく、そして痛みを伴う笑みを浮かべた。
「あの日逃げ出した、情けねぇ俺自身の弱さを直接突きつけられてるみたいで……自分の不甲斐なさに反吐が出そうになるんだわ」
その言葉の裏には、猛烈な自己嫌悪が渦巻いていた。
だが、彼の顔は、重い荷物を少しだけ下ろしたように、どこか晴れやかでもあった。
「……でも同時に、救われてもいる。お前みたいな不器用で、無茶苦茶な馬鹿が、敵じゃなくて味方にいてくれて本当によかったってな。……いずれ魔王との戦いが終わったとき、お前の力の本当の行き着く先が見れるかもしれねぇな」
シンは立ち上がると、俺の肩を大きな手で力強くポンと叩いた。
「俺の湿っぽい話はこれでおしまいだ。……さっさと寝るぞ。明日は目的地だ、忙しくなるぞ」
シンはそれだけ言い残すと、岩陰に作った自分の寝床へと歩いていき、すぐに背中を向けて横になった。
一人残された焚き火の前。
燃え盛る炎の音だけを聞きながら、俺は再び己の両手をじっと見つめ返した。
シンの故郷を滅ぼした、空の彼方から降ってきたという者たち。
俺の力と同じ波を感じるという、得体の知れない存在。
……考えたところで、今の俺の知識では見当もつかない。ただの不気味な昔話として片付けるには、あまりにもリアルすぎる警告だ。
(……俺のこの力は、一体なんなんだ。世界を救うための力なのか、それとも……この世界を壊すための力なのか)
俺の心に、冷たい不安の影が差し込んだ。
もし、俺の存在そのものが、この世界にとっての異物であり、いつか仲間たちに刃を向けるような日が来てしまったら。
『……ねぇ、相棒』
その時。
胸元のペンダントが、焚き火の熱よりもずっと温かく、力強い光を放った。
ラナの澄んだ声が、俺の心の奥底の不安を優しく包み込む。
『何があっても……あたしは絶対に、あんたの味方だからね』
(……ラナ)
『シンさんの故郷の話が本当で、あんたの力がどれだけ異端で、気味の悪いものだったとしても関係ない。もし世界中の全員が、あんたの力を恐れて敵に回ったとしても……アタシだけは、あんたの最強の剣になって、絶対の盾になるよ』
――あぁ。
俺は、無意識のうちに、胸元のペンダントを強く握りしめていた。
「……ありがとうよ、相棒」
俺の口から、自然と感謝の言葉がこぼれ落ちた。
ラナのその言葉で、俺の中にあった凍りついた恐怖が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
幻影湖で見せられた後悔は消せない。
過去の過ちを変えることだって、今の俺の力ではたった五秒が限界だ。
それでも、今の俺の隣には、重すぎる過去と大罪を背負いながらも前を向く仲間がいて。
胸の中には、どんな絶望の中でも俺を絶対に信じ抜いてくれる、最高の相棒がいる。
「……明日だな」
俺は立ち上がり、残っていた薪を炎の中へとくべた。
パァンッ!と、火の粉が夜空に向かって力強く舞い上がる。
俺は静かに目を閉じ、夜風を感じた。
この霧を抜けた先にある、墓所。
そこで待っているのは、探していた答えか、それとも新たな絶望の地獄か。
だが、恐れはない。
今の俺たちなら、どんな理不尽な未来が立ち塞がろうとも、その未来ごと力ずくで切り開ける気がしていた。




