第34章:海神のシンー1
東の山脈を越え、目指す墓所へと続く険しい谷の入り口。
俺たちは、足を踏み入れた瞬間にその異常性を肌で感じ取っていた。
――音が、無いのだ。
風の音も、鳥のさえずりも、虫の這う音すらない。
そこにあるのは、谷底を埋め尽くすように広がる巨大な湖と、その水面を重く這い回る白濁した濃霧だけだった。
「……気持ち悪い場所ですね」
背中を丸めたジークが、抱え込んだアーティファクト・ヒナワの銃身を撫でながら、震える声で呟いた。
魔力を持たない俺でさえ、この湖から立ち上る空気が生者の世界から完全に切り離されていることぐらいは分かる。
これは魔族が放つような、吐き気を催す悪意の瘴気ではない。
もっと静かで、冷たくて、底なしの無のような。
俺たちは、湖畔に打ち捨てられていた朽ちかけの小舟を見つけ、それに乗り込んだ。
船尾で櫂を握ったのは、海神のシンだ。
「……しっかり掴まってろよ。……この湖は、ちぃっとばかしタチが悪ぃかもな」
チャプ……。チャプ……。
シンが静かに櫂で水をかく音と、小舟が僅かな波を立てて進む微かな震えだけが、俺たちが今、空間を前へ進んでいるという唯一の証明だった。
数メートル先すらおぼつかない濃霧の中、方向感覚すらも曖昧になっていく。
「……綺麗な湖だな。不気味なくらいに」
俺が小舟の縁を強く握り締めながら呟くと。
『……相棒』
胸元のペンダントが、チリリ、と氷のように冷たく震えた。
俺の耳元に直接響くラナの声は、かつて魔族のワーズと対峙した時よりも、さらに硬く、ひどく強張っていた。
『……あんまり、水面を覗き込まないで。この湖の空気……すごく嫌な予感がする。私の魂が、見ちゃいけないって警告してるの』
(……分かってる。俺も同意見だ)
俺は無言で頷き、視線を水面から前方の霧へと逸らした。
船尾に座るシンをチラリと見る。
普段なら、こんな静かな場所では真っ先に皮袋の酒を煽り、下品な鼻歌の一つでも歌い出しそうなあの男が、今は酒を一滴も飲まず、金海色の瞳を鋭く細めて霧の先だけを凝視していた。
「……シン。お前にも、この湖は不気味に見えるか?」
俺が尋ねると、シンは櫂を動かす手を止めずに、ポツリとこぼした。
「……あぁ。俺は昔から、他人の感情や空間の揺らぎってやつを波として感じ取れるんだがな。……この湖には、その波が存在しねぇんだよ」
「波がない?」
「自然の湖じゃない。……ここは幻影湖。昔オーシャンの書庫の古い文献で読んだことがある」
シンは、櫂から滴り落ちる水滴を見つめながら、低い声で語り出した。
「風が止み、波が絶え、完全な鏡面となったこの湖の水面を覗き込んだ者には……『一番会いたい者』か、あるいは『二度と思い出したくない過去』が映し出されると言われてる。……魂の奥底に沈めた執着を、直接水面に引きずり出す、悪趣味な湖型の魔物だ」
「この湖自体が魔物なのか…!? ならやべーんじゃねぇか? どう戦えってんだ」
「大丈夫だ、というか無理だ。 コイツは概念みたいな存在、魔物に分類されちゃいるがその実、コイツに関して人類はほとんどわかっちゃいねぇからな」
「変に干渉しなきゃいいってことだな……」
「……一番、会いたい人……」
隣に座っていたジークが、吸い寄せられるように、フラフラと身を乗り出して水面を覗き込んだ。
「おい、ジーク! 見るな!」
俺が静止するよりも早く。
ジークの瞳に、何かが映った。
その瞬間、極限の緊張状態にあったジークの表情が、まるで幼子が母の胸に抱かれた時のように、無防備に、そして幸せそうにフニャリと緩んだのだ。
「……あぁ……母様……」
ジークの口から無意識の呟きが漏れ、目からは涙が溢れる。
湖面には慈愛に満ち溢れた女性が微笑みかけていた。
いずれにせよ、彼の純粋な心は、水面が映し出す甘い幻影に完全に捕らわれてしまっていた。
――だが。
俺の胸に宿ったのは、そんな甘ったるい温かさなどではなかった。
ズキリ、と。
心臓を冷たい鉄の爪で直接握り潰され、臓腑を掻き回されるような、鋭く暴力的な痛みが走った。
覗き込んではいけない。
本能が、そしてペンダントのラナが、脳が割れるほどの警鐘を鳴らしている。
だというのに。
俺の首は、見えない糸で無理やり引っ張られるように、ギギギ……と下へ向けられ、強制的に暗い水面へと吸い寄せられていった。
小舟の縁の下。
漆黒の鏡となった水面。
そこに映っていたのは、俺自身の顔ではなかった。
――静まり返った暗い水面に、突如として色が混じり始めた。
夕焼けのような美しい赤ではない。
時間が経ってどろりと黒ずみ、鉄錆と臓物の匂いが入り混じった、最もリアルで直感的な血液の赤。
『……新人。……舌、噛むなよ……』
『……私たちの荷物……ちゃんと……守っててね……』
水底の奥深くから。
忘れるはずもない、懐かしく、そして俺の魂を縛り続ける声が響いてきた。
ガロウ。
カナ。
リード。
俺がこの異世界に落ちてきて、右も左も分からなかった時に、俺を頼り、俺を守り……そして、俺が弱かったせいで無惨に死なせてしまった、最初の仲間たち。
血塗られた石畳の上。
彼らの肉体は半分以上原型を留めず、内臓を撒き散らしながら、水底から恨めしそうに、いや、悲しそうに俺を見上げていた。
『……お前のせいだ……』
『……お前が……もっと早く……なんでお前だけ生き残った……』
幻聴だと分かっている。
リードたちがこんなことを言わないのも思ってすらいないのも理解している。
これは俺自身の抱える強烈な自責の念が、この湖の性質によって具現化されただけの悪質な幻影だ。
理屈では分かっているのに、呼吸ができない。喉の奥に泥が詰まったように、酸素が肺に入ってこない。
そして。
その血みどろの仲間たちの中心に。
「……ラ、ナ……」
俺の口から、摩擦音のように声が漏れ出した。
そこに横たわっていたのは。
胸を魔剣オボロの刃で貫かれ、すべての光を失った……あの虚ろな瞳をした、人間の頃のラナだった。
聖剣に選ばれたが故に、信頼していた剣の師カシアンに裏切られ、冷たい土の上で血の海に沈んでいった彼女の最期。
その死骸を武装化し、俺は彼女の死を己の生存の道具として利用した。
水底のラナが、ゆっくりと首を動かし、俺を見つめた。
その瞳からは血の涙が流れ、俺に向かって、真っ赤に染まった細い手を伸ばしてくる。
『……どうして、私を助けてくれなかったの……?』
『……どうして、私の死体を……そんな風に弄んだの……?』
「あ……あぁ……っ」
頭蓋骨の内側を、ノコギリで挽き切られるような強烈な罪悪感と自己嫌悪。
俺の意識が、完全に暗い水底へと引きずり込まれそうになった、その時だった。
『相棒ッッ!! ダメ、見ちゃダメェェェッ!!!』
胸元のペンダントが、皮膚を焼き焦がすほどの熱を放ち、ラナの絶叫が脳内に響いた。
『あたしはここにいる! 今のあたしは、あんたの胸の中で笑ってる! そっちのあたしは、あんたの心を壊すための偽物だよッ!!!』
分かってる。
頭では分かっている。
だが、この湖の魔物は、人間のそんなちっぽけな理性を軽く飛び越えてくる。
重力が反転したかのように、俺の身体が自然と小舟から滑り落ちていく。
あの冷たくて、暗くて、どうしようもなく苦しい後悔の底へと、俺のすべてが沈んでいきたくなる。許しを請いたくなる。
「……ごめん……」
俺の指先が、スッと、冷たい水面に触れた。
その瞬間。
指先から心臓に向かって、致死量の猛毒を直接注射されたかのような、絶望を纏った冷気が全身の血管を駆け巡った。
魂が肉体から引き剥がされ、あの血みどろの水底へと永遠に沈められる――。
だが。
「――よせ! 過去を見るな」
ガシッッ!!
万力のような、いや、荒波に耐え抜いた鋼鉄の錨のような凄まじい握力で、俺の右腕が水面から乱暴に引き戻された。
「……っ!? ハァッ……! ハァッ……!」
強引に小舟の中へと引き倒された俺は、まるで深海から一気に浮上したダイバーのように、喉をかきむしりながら激しく空気を吸い込んだ。
冷や汗が全身から滝のように噴き出し、心臓が肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打っている。
俺の腕を掴み、ギリギリのところで引き留めてくれたのは。
船尾に座る、シンの分厚く、巨大な手だった。
「……シ、ン……お前……っ」
シンは、俺の腕を強く握りしめたまま、前方の濃霧を睨み据えて低く唸った。
「……波ってのはな。前にしか倒れねぇんだよ」
その声は、いつもの陽気でチャラけた響きではなかった。
海底のさらに奥深く、光すら届かない暗闇の底で鳴動する岩盤のような、ひどく重く、乾き切った声。
「……後ろを振り向いた瞬間に、足元を完全にさらわれるぞ。……死んだ人間は、どんなに望んでも帰ってこねぇ。今、お前の隣で生きてる奴らのことだけを見てろ」
俺は荒い息を吐きながら、自分の腕を掴むシンの手を見下ろした。
どんな強大な神獣を前にしても決して揺らがなかった、その太い指先が……。
今は、まるで恐怖に怯える子供のように、カタカタと微かに震えていたのだ。
(……シンの手が、震えてる……?)
ふと、俺の視線が、シンの前方の水面へと落ちた。
俺の手を掴むために身を乗り出したシンの影が、漆黒の湖面に落ちている。
――そして。
そのシンの影が落とす水底には。
俺が見た後悔など児戯に等しいほどの、遥かに凄惨で、スケールが違いすぎる絶望的光景が、鮮明なパノラマとなって広がっていたのだ。
「……な、なんだこれ……」
俺は息を呑み、その幻影に釘付けになった。
見知らぬ、巨大で美しい街が燃えていた。
俺たちの知るウルシア王国や、他のどの国の建築様式とも違う。もっと洗練され、もっと進んだ技術で作られたであろう白亜の都市が、文字通り地獄の業火に包まれている。
その美しい都市を蹂躙しているのは……魔族ではなかった。




