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第33章:偽りの友と本物の勇気ー1

 封魔戦争の凄惨な爪痕が未だ生々しく残るカグツチの谷を抜け。


 俺たちは、魔族が湧き出してくるという忌まわしき封印の地の特定を急ぎ、大陸の南西部――海へと続く荒涼とした街道をひたすらに東へと進んでいた。


 だが、その道中。


 辿り着いたのは、荒野の真ん中にポツンと取り残されたように広がる、ひどく寂れた小さな宿場町だった。


 大陸を横断する主要な交易路から完全に外れているせいで、町全体が薄汚れた黄土色の砂埃に分厚く覆われている。


 すれ違う町民たちの服は擦り切れ、その顔には、魔族の脅威以前に明日のパンをどうやって食うかを案じるような、重苦しく、泥のような疲労がへばりついていた。


 世界が本格的な戦火に包まれようとしているその余波は、こんな辺境の町から確実に、人々の生活と精神を削り取っている。


「……とりあえず、ここで一晩の宿と情報収集だな」


 俺が馬車から降りて服についた砂埃を払いながら言うと、ジークがコクリと頷いた。


「シンの言う波の淀みも、この辺りから少しずつ、嫌な感じで濃くなってるらしいからな」


「あぁ。まぁ違和感って程度のもんだけどな。……早めに美味いエールを飲んで落ち着きたいもんだ」


「その違和感って酒が切れただけじゃねーのか?」


「依存症ってやつですね……」


「なっはっは」


 そんな軽口を叩き合いながら、シンが、前方を歩く。

 町で一番大きくて古い、看板の文字すら掠れた酒場兼食堂の重い木扉を、少々乱暴に乱暴に開けた。


 ギィィ……ッ。


 蝶番の軋む音が響き、店内特有の、酸えた酒と汗の匂いが鼻をつく。


 ――その、瞬間だった。


「がっはっはっは! おいオヤジ! もっと肉だ肉! 一番いい肉と、とびきりのエールを持ってこい!」


 店内に。


 この町の周囲の淀んだ静けさとは完全に不釣り合いな、やけにデカくて、やけに偉そうな若い男の声が轟いた。


「いいか!? あのウルシア王国の誉れ高き第五王子、ジーク・ウルシア様とマブダチであるこの俺様が、直々にこんなド田舎の店で食いに来てやってんだぞ! 光栄に思って、さっさと極上の飯を並べやがれ!」


 ピタ、と。


 俺とシンは、思わず酒場の入り口に足を踏み入れた瞬間の姿勢で、完全に立ち止まった。


 そして――俺たちの背中に隠れるようにして立っていた、その偉そうな奴にマブダチと大声で名指しで呼ばれていたジーク・ウルシア本人が。


 目を真ん丸に見開いて、息をするのも忘れた石像のように、カチンコチンに固まっていた。


「…………えっ?」


 数秒のフリーズの後。


 ジークの口から、王族としての品格も何もない、完全な素の、マヌケな声がポロリと漏れ落ちた。


「……おいおい、なんだありゃ」


 俺が呆れたように目を細めると、声の主は、店の奥の特等席でふんぞり返っている、金髪の若い男だった。


 年の頃はジークより少し上ぐらい。十七、八といったところか。


 やけに派手な装飾だが、よく見ると布地がペラペラで安っぽいマントを羽織り、偉そうにテーブルの上にブーツのまま両足をドンと乗せている。


「おい、マブダチ」


 俺はこめかみを指で強く押さえた。


「いつの間にあんなチンピラと仲良くなったんだよ」


「と、とんでもない!! 全然知らない人だよ!!」


 ジークが顔を真っ赤にして、首がちぎれそうな勢いでブンブンと横に振る。


「ていうか僕、あんな下品な笑い方する友達なんていないし! 僕の友達は、キミとシンさんくらいしかいないもん!」


「……おいおい、俺たちだけってのも、それはそれで悲しい事実じゃねぇか」


 シンが、呆れたようにため息を吐く。


『あははははっ! ジークのマブダチだって! ウケる! すっごく面白いヤツに出くわしちゃったね!』


 胸元のペンダントから、ラナが腹を抱えて爆笑している声が直接脳内に響いてくる。


(……笑い事じゃねぇよ。私的に他国の王族の名を騙るなんて、バレたら国際問題だ。一発で首が飛ぶ大罪だぞ)


 だが。


 俺が不思議だったのは、その金髪の青年の態度ではない。


 店主や、周囲で酒を飲んでいる荒くれ者の客たちの態度だ。


 彼らは、あからさまに苦々しい顔をして舌打ちをしながらも、その金髪の青年を力ずくで店から追い出そうとはしていなかったのだ。


 むしろ、恐れをなして遠巻きに見ているようにも見える。


 その理由は、青年が「水戸黄門の印籠」のように、テーブルのど真ん中にこれ見よがしに見せびらかしている、一つの懐中時計にあった。


 純銀製の分厚いケース。そこに、極めて精巧に彫り込まれた青き獅子の装飾。


 ――紛れもなく、ウルシア王家の紋章だ。


(……あれは)


 俺とジークは、ハッとして顔を見合わせた。


「おい、ジーク。あいつが持ってるあの時計って……ただの偽物のオモチャか?」


「……ううん。あれは、本物だよ」


 ジークの顔が、驚きから少しだけ鋭く強張る。


「おそらく、兄上たちや姉上の誰かの私物だと思う。……王家しか持つことを絶対に許されない、魔力コーティングが施された紋章入りの特注品だ。あれと同じものを、僕も部屋に持ってるから間違いない」


 シンが腕を組みながら、面白そうにニヤリと口角を上げた。


「ほぉ……。アレを見せびらかして王子のダチを名乗りくさって、こんな田舎町でタダ飯を食い荒らしてるってわけか。……王家に喧嘩を売るほど肝が据わってんのか、それとも後先考えられねぇただの底抜けの馬鹿なのか。いい度胸してやがるな、あのガキ」


 青年は名をバルトといった。


 店主から震える手で差し出された分厚い肉のステーキと焼き立てのパンを、これ見よがしに引ったくると、なぜかそれをその場で食べず、非常に満足そうに立ち上がった。


「今日は、この辺で勘弁しておいてやる! また明日な! ジーク王子に、お前らの店の飯が美味かったって、手紙でしっかり伝えておいてやるよ! がっはっは!」


 偉そうにそう言い残し、バルトは肉とパンをマントの下に隠すように抱え込み、金を一銭も払わずに店を意気揚々と出て行こうとした。


 だが。


 その日ばかりは、周囲の様子がいつもと違っていた。


「……待てや、バルト」


 ドンッ!


 無精髭を生やした店主が、肉を切るための分厚く重い包丁を握ったままの太い腕で、バルトの細い肩をガシッと力強く掴み、引き留めた。


「い、いてててっ! な、何しやがるオヤジ! 俺様を誰だと思って……!」


 バルトが振り返って怒鳴ろうとしたが、彼の声はすぐに恐怖で震え上がった。


 周囲の客たち――荒くれ者の冒険者や、日雇いでその日暮らしをしている筋肉隆々の農民たちが、一斉にジョッキをドンッ!とテーブルに叩きつけて立ち上がり、バルトをジリジリと、完全に逃げ場のない円陣で取り囲み始めたのだ。


「お前……本当に、あのウルシア王国のジーク王子の友達なんだろうな?」


 冒険者の一人が、首の骨をゴキボキと鳴らしながら凄む。


「この三ヶ月間、ほぼ毎日その王家の紋章を見せびらかして、俺たちの町でタダで飲み食いしやがってるが……いくら王族のダチだとしても、限度ってもんがあるだろ。俺たちの蓄えだって、もう完全に底を突いてんだよ!」


 そう。村人たちの我慢は、限界に達していたのだ。


 ただでさえ貧しい辺境の町。魔族の影に怯えながら必死に生きている彼らにとって、毎日ただ飯を食いに来る傲慢な若者は、もはや生かしておけない寄生虫だった。


「な、なんだよお前ら! お、俺を疑うのか!? この紋章が見えねぇのか! 俺に手を上げたら、ウルシア王国の王族が黙ってねぇぞ!! 他国を敵に回す気か!!」


 バルトが顔を引きつらせ、冷や汗をダラダラと流しながら必死に銀時計を突きつけるが、店主はそれを乱暴に手で払い除けた。


「そんな紋章なんて、どうせどこかのスリから安く買った偽物に決まってる! もう騙されねぇぞ、このクソ詐欺師が!」


「ボコボコにして、身ぐるみひん剥いて町から叩き出せ!!」


「今まで食った飯代、その身体で払わせろ!!」


 完全に殺気立つ村人たちに囲まれ、バルトは完全に腰を抜かして「ヒィッ」と悲鳴を上げ、床に情けなく尻餅をついた。


「……さすがに目の前で殺されちゃ寝覚めが悪い。ちょっと助けてやるか」


 俺が腰の魔剣ムラマサの柄に手をかけ、騒動に割って入ろうとした、その時だった。


 ジークが、スッと俺の前に細い腕を伸ばして、静かに制止したのだ。


「待って」


 ジークは、群衆の中心で震えているバルトを、冷たく見下ろすのではなく、何かを推し量るようにじっと見つめていた。


「……あの人。あんなに偉そうに肉とパンを受け取ったのに、あの中で一口も食べていなかった」


「ん? ああ、そういやパンも肉も、全部マントの下の袋に隠してたな。それがどうした? ただの食い意地の張った泥棒だろ。夜食にでもする気だろ」


「……違う、と思う」


 ジークの目が、スッと細められる。


「彼は、自分のお腹が鳴っているのに、無理して唾を飲み込んで、食事を持ち帰ろうとしていたんだ。……追いかけてみよう。何か理由があるのかもしれない」


 ジークの瞳は、王族としてただ名誉を傷つけられた罪人を裁くのではなく。


 その背後にある真実を見極めようとする、深く静かな、そして王としての観察眼の光を宿していた。


 ドガァァァァッ!!


「ぐわぁっ……!」


 酒場の裏口から、ボロ布のようにタコ殴りにされたバルトが、泥水の手たまりへと無惨に蹴り出された。


 村人たちに思う存分日頃の鬱憤を晴らされたのだろう。顔はボコボコに腫れ上がり、鼻血をダラダラと流し、安いマントはビリビリに引き裂かれている。


「二度と面見せんな、このクソ詐欺師が!」


「今度来たら、その偽物の時計ごと叩き割ってやるからな!」


 吐き捨てられた罵声と、閉ざされる重い扉の音。


「……っ、いててて……。クソッ、田舎モンの分際で、手加減ってモンを知らねぇのかよ……」


 バルトは泥水に塗れながらも、大事なものを庇うようにうずくまっていた。


 彼が真っ先に確認したのは、自分の怪我の有無ではない。マントの下に必死に隠し持っていた、あの分厚いステーキ肉とパンが無事かどうかだった。


「……よし。潰れてねぇ。これなら、あいつらも喜ぶ……」


 バルトは痛む足を引きずりながら、フラフラと立ち上がり、町外れへと向かって歩き出した。


 俺たちは、その痛々しい背中を、気配を完全に殺して路地裏の影から静かに尾行した。


 彼が辿り着いたのは、町の外れ――砂埃にまみれ、屋根の半分が完全に崩れ落ちた無人の廃教会だった。


「おーい、お前ら! 兄ちゃんが今日も、超美味い飯を持って帰ってきてやったぞー!」


 バルトが、痛む顔を無理やり笑顔の形に引き攣らせて、明るい声を張り上げた。


 すると。


 ワラワラワラッと。


 廃教会の暗い物陰から、まるで小動物のように、ぞろぞろと小さな影が飛び出してきた。


「あ、バルト兄ちゃんだ!」


「おかえりなさい、兄ちゃん!」


 十人近くいる。


 どの子も皆、頬がこけ、腕は小枝のように細くガリガリに痩せ細っていた。服は泥だらけの継ぎ接ぎだらけ。


 魔族の襲撃や貧困で親を失った、身寄りのない孤児たちだった。


「わぁぁっ! お肉だ! パンもある!」


「すっげえ! バルト兄ちゃん、今日もまた大金持ちの商人からふんだくってきたの!?」


「バ、バカ言え。兄ちゃんはウルシア王国のジーク王子とマブダチなんだぜ? これくらい、王子の名前をちょっと出せば、どこの店でもタダでご馳走してくれるって寸法よ!」


 バルトは、鼻血の跡を袖で乱暴に拭い、誇らしげに胸を張って、子供たちに食料を均等に分け与え始めた。


 小さな肉の切れ端と、硬いパン。それでも子供たちは、まるで世界で一番の御馳走を見るようなキラキラした目でそれを受け取り、無邪気に頬張り始める。


 ――きゅるるるるるる……。


 静かな教会に、バルト自身のお腹が鳴る、情けないほど大きな音が響いた。


 彼は、一口も食べていないのだ。


「あ……バルト兄ちゃん、お腹空いてるの? 僕のお肉、半分あげるよ」


 一番小さな男の子が肉を差し出すと、バルトは慌ててそれを押し返した。


「ば、バカ! 兄ちゃんは王都のすっげえ豪華な宴会で、豚の丸焼きをたらふく食ってきたばっかりだから、もう腹一杯で動けねぇんだよ! お前がいっぱい食ってデカくなれ!」


「えー、ほんとにー? ……あ! 兄ちゃん、顔すっごく腫れてるし、血が出てるよ! どうしたの!?」


「あぁ、これか? へっ、これはな、王都で王国の近衛騎士団の連中と、厳しい剣の修行をしてきた男の勲章ってやつさ。あいつら、手加減知らねぇからなー!」


「かっけぇー!」


「兄ちゃんすげー!!」


 子どもたちはキラキラした目でバルトを見ている。 そんな子どもたちをバルトは、ボコボコにされた顔で豪快に笑い飛ばし、安心させていた。


 崩れた壁の裏に隠れて、そのすべての光景を見ていた俺は、小さく、深く息を吐いた。


「……なるほどな。クソみたいな詐欺師だが、根っからのクソ野郎じゃなかったってわけだ。子どもたちを食わせるために、必死で泥をすすって虚勢を張ってたのか」


「ジークのダチを名乗って銀時計をチラつかせれば、田舎の町ならビビってタダで飯をくれる……って寸法か。バレたら即座に打ち首の、とんでもなく危なっかしい綱渡りだがな」


 シンが、呆れたように、だがどこか優しげな顔で肩をすくめた。


『……なんか、憎めないヤツだね。あんなの見せられたら、ちょっと泣けちゃうよ』


 ラナが、ペンダントの中で鼻をすすりながらしんみりと呟く。


 ジークは。


 子供たちが無邪気にパンを頬張る姿と、空腹を堪えて笑うバルトの背中を。


 少し悲しそうな、でもひどく温かく、王族としての責任を噛み締めるような、慈愛の瞳で見つめていた。


「……行こう」


 ジークが、廃教会の入り口へと真っ直ぐに歩き出した。


「おい、ジーク」


「大丈夫。僕に任せて」


 ザクッ。


 ジークが教会の入り口に姿を現した瞬間。


「ッ!?」


 バルトが弾かれたように立ち上がり、両手を大きく広げて、とっさに子供たちを自分の背中に隠した。


「な、なんだお前ら! 俺を誰のダチか分かって……!」


「――その銀時計。ウルシア王家が直系の王子たちにのみ特注した、本物の銀時計ですね」


 ジークは、バルトの必死の虚勢を静かに遮り。


 優雅に、そして非の打ち所のない、気品に満ち溢れた王族の笑みを浮かべた。


「……我々は、王都より参りました旅の商人です。

 ジーク王子のご友人が、この地で身寄りのない子供たちを庇護されているという噂を聞き、深く感銘を受け、ご挨拶に伺いました」


 ピタ、と。


 バルトの顔が、赤くなったり青くなったり、白くなったりと、まるで信号機のように忙しく変わる。


「お、お前ら……ウルシア王国から来たのか!? て、ていうか、俺の噂、そこまで届いてんの!?」


「ええ。ジーク王子が聞いたら大変お喜びになるでしょう」


「……お、おうッ!! そういうことなら、この俺の崇高な活動を、特別に手伝わせてやってもいいぜ! 俺、ジーク王子のマブダチだしな! がっはっは!」


 バルトの必死すぎる虚勢と、ジークの意外と完璧な芝居に、俺とシンは、背後で顔を見合わせて、吹き出しそうになるのを必死でこらえながら腹を抱えた。


 こうして俺たちは。


 偽物の王子のダチの崇高な手伝いとして、廃教会の修繕や、子供たちの遊び相手をすることになったのだった。

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