第32章:勇者の種子ー1
ウルシア王国を出国し、魔族封印の地を特定するため、俺たちは大陸の南西部――海へと続く広大な荒野の街道を、馬車でひたすらに進んでいた。
御者台には海洋国家オーシャンのSランク冒険者、海神のシンが座り、手綱を気怠げに握っている。
馬車の中では、ウルシア王国第五王子ジークが広げた大陸の古地図と睨めっこをし、俺は窓枠に肘をついて流れる景色をぼんやりと眺めていた。
だが、その道中。
不意に、馬車の窓から吹き込んでくる風の匂いが変わった。
土と草の匂いが消え、代わりに……鼻腔の奥をチリチリと焦がすような、ひどく乾いた、酸化した鉄のような匂いが混じり始めたのだ。
「……シン。馬車を止めてくれ」
俺が声をかけると、シンもすでに周囲の異常な波を感じ取っていたのだろう。無言で手綱を引き、馬車を街道の脇に停車させた。
馬車を降りた俺たちの視界に飛び込んできたのは。
ここだけが別世界から切り取られて張り付けられたかのような、周囲の自然からは完全に逸脱した、あまりにも異様で暴力的な地形だった。
数キロ先まで続いていたはずの深い森が、途中から無かったことのように消滅している。
まるで、巨人が、超巨大な柄杓で大地を乱暴にえぐり取り、そのまま宇宙の彼方へ捨て去ったかのような……直径数キロにも及ぶ、巨大で無機質なクレーターが形成されていたのだ。
「……なんだ、ここは」
俺は息を呑み、クレーターの縁に立って、その途方もない底を見下ろした。
草木一本、生えていない。
むき出しになった岩肌は、想像を絶する超高熱によってガラスのようにドロドロに溶けて固まり、不気味な黒光りを放っている。
生命の痕跡が、文字通り分子レベルで一切排除された、死の空間。
下からは、ゴォォォ……と、まるで地獄の釜の蓋を開けたような、喉を焼く熱風が絶え間なく吹き上げてきていた。
「隕石でも落ちたのかよ……。いや、それにしては……」
現代日本から来た俺の目には、これが自然現象や隕石の衝突跡などではないことが直感的に理解できた。
これは、極限まで圧縮された熱エネルギーが、地表で爆発・蒸発した跡だ。俺の元いた世界で言うところの、核兵器。
隣に立つシンの金海色の瞳が、スッと鋭く、猛禽類のように細められた。
「……へえ。ここが……噂には聞いていたが、来るのは初めてだな」
シンは咥えていた煙草の煙を、忌々しげにフゥッと吐き出した。
「この土地の底から、古の魔力がずっと燻ってやがる。……千年も前の残留魔力だってのに、肌が火傷しそうなくらい、濃くて、重くて、ドス黒い波だ」
その言葉を聞いた、瞬間だった。
背後で地図を広げたままついてきていたジークが、ハッとして、地図の座標と目の前の異常な地形を、何度も何度も交互に見比べた。
そして。
彼の幼い顔から、スゥゥゥッと、すべての血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
「……ここ、は……」
ジークの声が、カラカラに乾いた音を立てて震えていた。
「……カグツチの谷だ……っ」
「カグツチの谷?」
俺が聞き返すと、ジークは地図を握りしめたまま、信じられないバケモノでも見るような目で、巨大なクレーターを見下ろした。
「……千年前の、封魔戦争の最大の激戦地の一つと言われている場所です。……魔族の大軍勢を食い止めるために、当時のヒナワの適合者が……ここで、ヒナワの引き金を引いたと言われている場所……」
ジークの瞳孔が、恐怖で極限まで収縮していく。
「神話の、ただの誇張だと思ってた……。一撃で国を消し飛ばすなんて、おとぎ話だと……。でも、違った……! 本当に、こんなものが……こんなデタラメ……っ!」
ジークの視線が、ゆっくりと、ゆっくりと自分の腕の中へと落ちる。
彼が今、宝物のように大切に抱え込んでいる、黒く細長い鉄の筒。アーティファクト・ヒナワ。
彼の手にあるその黒い鉄の塊が――千年前に、この数キロに及ぶ大地を、森を、そして魔族の軍勢ごと、丸ごと蒸発させて消し飛ばしたのだ。
「ヒナワの……爪痕……」
ジークの両手が、カタカタと、いや、ガクガクと激しく震え始めた。
それは、敵に対する恐怖ではない。
自分の手の中にある兵器の本当の破壊力を直視してしまったことによる、根源的な畏怖。
こんなものを、一歩間違えれば国一つを更地にできる大量殺戮兵器を、自分のような未熟な子供が握っているという、重すぎる現実への絶望だった。
『……相棒。これ、ジークにとって、ちょっとキツいかもね……』
胸元のペンダントから、ラナがひどく心配そうな声で脳内に囁きかけてくる。
(ああ。……自分が持ってる武器が、どれだけイカれた威力か、嫌でも可視化されちまった。子供が背負うには、重すぎる事実だ)
俺は内心で頷き、無言でジークの小さな背中を見つめた。
励ましの言葉なんて、今の彼には届かない。兵器の持つ結果を前に、綺麗事は全てチリとなって燃え尽きるからだ。
ふと、俺がクレーターの底の、さらに深くへ目を凝らすと。
モヤモヤと歪む熱気の中に、ぽつぽつと、小さな家屋のようなものが寄り集まっているのが見えた。
「……おい。あんな底に、集落があるぞ」
「なんだと?」
シンが目を細める。
こんな生命の途絶えた、大地そのものが火傷を負っているような荒れ地の底に、人が住んでいる。正気の沙汰ではない。
「……降りてみよう。魔族に繋がる情報が得られるかもしれない」
シンの提案に俺は頷き、ガタガタと震え続けるジークの肩を無言でポンと叩いた。
俺たちは馬車を街道に置き去りにし、ガラスのように滑る急な斜面を慎重に滑り降りて、その異様な村へと足を踏み入れていった。
すり鉢状の急斜面を降りるたび、足裏のブーツの革を通して、ジンジンと焼けるような熱が伝わってくる。
クレーターの底に広がるその村の空気は、王都や他の領地のそれとは、完全に、そして決定的に異質だった。
地面には常にうっすらと足裏を焼くような異常な熱がこもり、大気は硫黄と酸化した鉄の匂いが充満している。
そして何より、そこを歩く村人たちの姿が異常だった。
木材が存在しないためか、ガラス化した岩をくり抜いて作られた粗末な家屋。そこから泥のように這い出てきた村人たちの顔には、生きる喜びや明日への希望など、とうの昔に忘れ去ったような深い疲労と諦念がこびりついている。
まるで、地獄を歩き続ける亡者の群れだ。
彼らは、余所者である俺たちを見ても、警戒の色すら浮かべない。ただ、虚ろに窪んだ目で、ゆっくりと通り過ぎていくだけ。
「……ひどい、な。息をしてるだけで、肺が焼けそうだ」
俺が口元を布で覆いながら呟くと、村の奥から、一本の枯れ木のような老人がゆっくりと歩み寄ってきた。
村長らしきその老人は、俺たちを値踏みするように見つめ……やがて、ジークの腕の中に抱えられた黒い鉄の筒――アーティファクト・ヒナワを見た瞬間、ヒュッと息を呑んだ。
「……あぁ。なんという業の巡り合わせか。……炎の神の鉄筒が、再びこの忌まわしき谷へ戻ってくるとは」
老人は、乾いた咳をコンコンと鳴らしながら、怨念の篭もった恨めしそうな目で、俺たちの頭上に広がる空の縁を仰ぎ見た。
「ご老人、ここは、いったい……」
シンが言葉を選びながら質問したのが分かった。
「ここは……ヒナワの残り火に、千年もの間、魂を焼かれ続けている罪人の村です」
「残り火、だと?」
シンが、鋭く問い返す。
「千年前のこの場所には、かつて大きな村があったのです。 村は魔族との戦いの戦場となっておりました。
そして勇者様が放った一撃は……世界を滅ぼそうとしていた魔族の大軍勢を、一瞬にして焼き尽くしました。」
老人の声には、微かな畏怖と、それを遥かに上回る絶望が混じっていた。
「……この大地に染み付いた、あまりにも強大すぎるヒナワの魔力と怨念は、千年の時を経てもなお消えることはありませんでした。時折、地割れから魔力の残滓が炎の魔獣となって形を成し、我々を襲い、焼き殺すのです」
「炎の魔獣……!」
俺は眉をひそめた。
千年前の魔力の残滓が、いまだに自律活動してバケモノを生み出し続けている?
どれだけデタラメな魔力なんだ。それはもう兵器の余波という次元じゃない。大地そのものを、永遠に燃え続ける呪いの炉心に変えてしまったに等しい。
「……なら、なぜこんな谷底から引っ越さないんですか。炎の魔獣が襲ってくるなら、安全な街は他にいくらでもあるでしょう」
俺が率直な疑問をぶつけると。
老人は、ひどく悲しげに、そして自嘲するように首を横に振った。
「我々は、千年前の罪人の末裔なのです」
「罪人……?」
ジークが、震える声でオウム返しにする。
「……あの時。魔族の軍勢を倒すためとはいえ。当時の村長は勇者様に非情な命令をしました…… 魔族と交戦中だった味方の兵や、逃げ遅れた罪なき民を無視して、ヒナワを撃たせたのです」
シンッ、と。
谷底の空気が、完全に凍りついた。
吹き上げる熱風すら、冷たく感じられるほどの沈黙。
「な……に?」
俺の口から、掠れた声が漏れた。
「味方もろとも、焼き尽くした。……それが、一番確実で、一番手っ取り早く、魔族を根絶やしにできる最適解だったのです」
老人の濁った瞳から、一筋の涙が枯れた頬を伝った。
「我々の祖先は、その狂気の作戦を出した村長、止められなかった者たち。あるいは、味方を見捨てて自分たちだけ安全圏へ逃げ延びた卑怯者たちです。……その罰として、我々はこの地で、勇者様の遺した狂気の炎を鎮め続け、無念に焼かれた者たちの魂を弔い続ける運命を、永遠に背負っているのです」
――ッ!!
ジークが、バッと両手で口を覆い、後ずさった。
彼の腕の中で、ヒナワがまるで大質量の呪いの塊のように見えたのだろう。
魔族を倒すためなら、味方ごと焼き尽くす。
数万、数十万の命を、敵も味方も関係なく、ただの数字として蒸発させる。
それが、千年前のヒナワの適合者が出した、アーティファクトの正しい使い方だったのだ。
「ぼ、ぼ、僕の……僕が持っている、これが……!」
ジークは、まるで焼け火箸を持たされたようにヒナワを地面に投げ捨てそうになり――だが、それが暴発することを恐れるように、慌てて抱き直してガタガタと激しく震えた。
「ああ……あぁぁぁ……っ!」
彼の瞳は、完全に怯えきっていた。
呼吸が過呼吸のように浅くなり、顔面から血の気が失せ、真っ白になっている。
無理もない。
引き金を引けば、また国が一つ消える。
少しでも威力の調整を間違えれば、味方を巻き込む。誰かの生活を永遠に奪い、千年消えない呪いの土地を新たに生み出してしまう。
その巨大すぎる責任感が、心優しきウルシアの第五王子の精神を、今まさに粉々に押し潰そうとしていた。
「ジーク……」
俺が手を伸ばそうとしたが、ジークは「触らないで!」とばかりに首を横に振り、そのままヒナワを抱えて地面にうずくまってしまった。
その夜。
村人たちが提供してくれた、村はずれの小さな広場に陣取り、小さく熾した焚き火の前で。
ジークは、ヒナワを抱えたまま、膝を抱えて小さな石のように丸くなっていた。
夕飯として差し出した干し肉にも、水にも一切手をつけず、ただパチパチと爆ぜる焚き火の炎を、まるで親の仇か、恐怖の対象であるかのように、虚ろな目で見つめ続けている。
「……ボク、撃てないかもしれない」
ぽつりと。
消え入りそうな、今にも泣き出しそうな声で、ジークが呟いた。
「この大地を見たでしょ……? こんなの、兵器って次元じゃない。ただの災害だよ。大量殺戮の道具だよ……!」
ジークの小さな両肩が、震えと共に大きく波打つ。
「もし、ボクが撃つ方向を少しでも間違えたら。もし、ワーズの時みたいに威力を抑えきれなくて、暴走させてしまったら……。魔族を倒せても、またこんな悲しい場所と、悲しい人たちを、ボクの手で作ってしまう……!」
「ジーク、お前は……」
「ボクは、みんなを守りたい! 誰も死なせたくないんだ……! そのためにヒナワを取った!! なのに、この武器は……最初から、ぜんぶを壊すために作られてる……!」
俺はなんと声をかけていいか分からず、ただ黙って火を見ていた。
俺の武装化は、あくまで自分自身の身体の延長だ。近接戦闘主体であり、コントロールは効く。斬る相手は自分で選べる。
だが、ヒナワは違う。圧倒的な、そして無機質な外部の力だ。
一度引き金を引けば、放たれた熱線は持ち主の手を離れ、ただ物理法則に従って射線上のすべてを蹂躙する。
その重圧と、何万人という命の天秤を、俺の安い軽口で背負ってやれるような代物ではなかった。
すると。
ずっと黙って酒を飲んでいたシンが、皮袋を揺らしながら立ち上がり、ジークの隣にドカッ!と遠慮なく腰を下ろした。




