第31章:名もなき恋の唄ー3
翌朝。
出立の準備を終えた俺たちの前に、旅装束に身を包んだオリアが現れた。
一晩中泣き明かしたせいで目は真っ赤に腫れ上がり、身体は今にも倒れそうなほど細く震えている。
けれど、その足取りに迷いは一ミリもなかった。
「準備は整いました。よろしくお願いいたします」
凛とした声。愛という感情が、これほどまでに人間を強くするのかと、俺は息を呑んだ。
俺たちは馬車に乗り込み、街道へと走り出した。
車内の中で、俺は声のトーンを極限まで落としてシンに尋ねた。
「なぁシン……さっきから気になってたんだが。ウィロウって、街? どこにあるんだ? 王子のジークでさえ、そんな最前線の激戦区なんて聞いたこともねぇってよ」
ジークも眉をひそめて頷く。
「僕はウルシアの王子として、国内や同盟国の戦状はすべて頭に入っています。ですが、ウィロウという名の戦地なんて、聞いたことがありません……」
シンはポケットから古びた小さな羊皮紙の地図を取り出し、その一角を指でポンポンと叩いた。
「ウルシアとオーシャンの国境付近だ。ここから馬車で一日も走れば着く距離だ」
俺は思わず目を見開いた。
「近っ!? そんな目と鼻の先で最前線の戦争が起きてたら、王都が気づかねぇわけねぇだろ!?」
シンは答えず、ただ静かに窓の外の流れる風を見つめた。
「……だから、おかしいんだろうがよ」
その短く重い一言の裏にある不吉な意味を悟り、俺もジークも、それ以上何も聞くことができなかった。
◆
馬車を走らせること一日。
辿り着いたウィロウの街の光景を目にした瞬間、俺たちは言葉を失った。
そこに広がっていたのは――平和そのものの光景だった。
明るい太陽の光が降り注ぎ、賑やかな市場からは活気ある商人たちの呼び込みの声が響いている。
綺麗に舗装された石畳の広場では、幼い子供たちが無邪気な笑い声を上げて鬼ごっこに興じていた。
血の匂いもない。焦げた煙もない。悲鳴も、兵士たちの足音すらない。
最前線の戦地どころか、大陸で最も平穏で温かな、のどかな田舎町。
オリアが、馬車から降り立ったまま、呆然と立ち尽くしていた。
「……シン様……? ここが……ここがウィロウですか……? とても……最前線の戦場には見えませんが……」
シンは馬車を降り、感情を殺した静かな声で告げた。
「そうさ、ここがウィロウだ。……最前線だった場所だよ」
「え……?」
シンは返事をせず、黙って歩き出した。
俺たちとオリアは、その背中を追うしかない。
シンが導いたのは、街の中央広場から少し離れた場所にひっそりと佇む、冷たく重厚な石造りの建築物だった。
入り口には、古びた鉄の紋章と、静謐な祈りの言葉が刻まれている。
「ここは……?」
ジークが周囲を見回しながら尋ねる。
「この土地で起こった悲痛な歴史を、後世に伝え、忘れさせないために建てられた――資料館だ」
重い鉄の扉を押し開けて足を踏み入れた瞬間、肌を刺す空気が一段と冷え込んだ。
展示されているのは、何十年も前に使われていたであろう、錆びついた剣や凹んだ鎧。破れ散った軍旗。そして、当時の凄惨な戦状を伝える、色褪せた記録文書の数々。
『二度と、この過ちと悲劇を繰り返してはならない』
石壁に刻まれたその一文を見た瞬間、俺の脳裏に、子供の頃行った現代日本の戦争資料館の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
オリアは、高鳴る胸を抑えきれず、半狂乱になって声を荒らげた。
「シン様!! 私をからかっているのですか!? こんなところに連れてきて、何になるというのです!? ユリウス様は……ユリウス様はどこにいらっしゃるのですか!?」
「からかってなんかいないさ」
シンは一度も振り返らず、館の最奥、スポットライトのような淡い魔導灯が照らす一枚の大きな展示プレートの前で立ち止まった。
「ユリウスは……ここ、かな」
オリアが息を呑み、吸い寄せられるようにそのプレートの前へと歩み寄った。
そこに掲げられていたタイトル。
『【海洋国家オーシャン・砂漠国家バル=ゼファル間戦争における、ウルシア派遣同盟軍の記録】』
その下に記されていた年号と、解説文。
年は今から丁度100年前だった。
当時、オーシャンを支援するためにウルシア王国から派遣された、百名を超える若き兵士たちの戦死者名簿。
オリアの目が、その掠れた文字の羅列を上から下へと辿っていく。
そして――ある一つの名前に辿り着いた瞬間。
【ユリウス・ガスティン 享年十九歳 ウィロウにて戦死】
「……ッ!??!?」
オリアの膝から完全に力が抜け、ドスンッ!と凄まじい音を立てて冷たい大理石の床に崩れ落ちた。
「な……なに……これ……? 百年前……? 戦死……? そんな……そんなの嘘よ……!! だって……だって昨日まで……昨日まで手紙を書いてくれていたのよ!?」
ジークも顔面を蒼白にして、名簿とオリアを交互に見つめた。
「ひ、百年前……!? じゃあ……オリアさんが手紙を交わしていた相手は……もう百年も前に死んでいる人だったっていうことですか……!?」
俺は無言のまま、名簿のすぐ隣に設置された小さなガラスケースへと目を向けた。
「……オリアさん。これを」
ガラスケースの中に大切に保存されていたのは、一枚の黄ばんだ、百年前の兵士が遺した本物の手紙だった。
俺はガラスケースに手をかざし、黄ばんだ羊皮紙に記された、百年前の青年の不器用でまっすぐな文字を静かに読み上げた。
『短い人生でしたが、今まで私は真面目に生きてきました。
ウルシア王国に忠誠を誓い、とうとう王国のためにこの身を捧げる時が来たのです。
そのことを後悔してはいません。
ただ、最後に少しだけ、わがままを言わせてください。
見たいもの。ウルシア王都で行われる収穫祭の花火。
食べたいもの。今は亡き母の作る料理。
逢いたい人。……オリア。
声が聞きたい。会って話したい。
あなたとの手紙のやり取りでどれだけ心が救われたか。
どんな過酷な訓練も苦ではありませんでした。
心残りと言えば、このようなところでしょう。
オリア。あなたと交わした言葉たちを胸に、私は戦います。
怖くはありません。あなたを想い、戦います。
愛しています、オリア』
――読み終えた瞬間。
資料館の中を支配していたのは、息が詰まるほどの沈黙だった。
冷たい石の匂いも、古びた鉄の錆びた匂いも、すべてがどこか遠くへ押し追いやられていく。
「あ……あぁぁぁぁぁっ……!!」
オリアは、床に伏したまま慟哭した。
取り乱して現実を拒絶する悲鳴ではない。百年の時を超えて自分に届いたあまりにも深い愛と、二度と会うことの叶わない残酷な事実を、魂のすべてで受け止めた悲鳴だった。
毎日、十九時になるたびに手紙が消え、返事が届いていた。
それは、百年前の激戦前夜を生きる青年ユリウスと、百年後の現代を生きる少女オリアの想いが、あの時の勇者の石像という奇跡の境界線を通じて交差していたのだ。
だが――青年が戦地に赴き、その命を散らせたその瞬間に、時を超える手紙の繋がりは永遠に途絶えた。
シンが静かに歩み寄り、泣き崩れるオリアの頭にそっと手を置いた。
「起きていたのは……呪いなんかじゃない。……恋するふたりの想いが起こした、奇跡だったんだ」
俺は胸の奥が鋭い刃物で刺されたように痛むのを、必死に息を吐き出して抑え込んだ。
腰の魔剣ムラマサが、まるでその切ない奇跡を悼むかのように、静かに熱を失っていく。
「時の勇者の……奇跡、か」
「う……うぁぁぁぁん……っ!」
隣で、ジークが子供のように声を上げて泣いていた。
王子としての矜持も捨てて、ただの一人の人間として、百年前の兵士の覚悟と、目の前で泣き崩れる少女の愛のために涙を流していた。
◆
夜。資料館を出ると、街には静かな星空が広がっていた。
帰り道の馬車の中。涙を拭い、腫らした目で夜空を見上げるオリアに、ジークが言葉を選びながら優しく尋ねた。
「オリアさん……。ユリウスさんに会えた感想は……どうですか?」
オリアは今までの手紙のやり取りを反芻しながら、儚く、だがどこまでも美しく微笑んだ。
「切なくて、やり切れなくて……胸が張り裂けそうです。……でも、彼は私を愛してくれていた。
私も、彼を心から愛していた。……私たちが交わした言葉は、嘘じゃなかった。それだけが、私の絶対の真実です」
その言葉が、俺たちの胸の奥深くにストンと落ちた。
届かなくても、会えなくても。百年という途方もない時の隔たりがあろうとも、人が人を想う情熱は真実であり続ける。
◆
馬車が夜道を進む中、御者席の横で風に当たっていたシンが、ぽつりと呟いた。
「……あの街な、今はもうウィロウなんて名前じゃねぇんだ」
「え?」
俺が聞き返すと、シンは夜空を見上げたまま煙草の煙を吐き出すフリをした。
「街の名前が戦争が終結すると同時に変わりやがって、今の地図じゃオーシャン領のゼリゼって地名になってる。……だから俺は、オリアちゃんがウィロウって言った時に、嫌な予感がしたんだよ」
ジークがハッとして唇を噛んだ。
「……だから、王国や周辺の地理を全て暗記していた僕でも、ウィロウという戦地がどこにあるのか分からなかったんだ……」
時間の波が重なり合い、過去と現在が交錯した場所。
百年前の兵士の遺した言葉は、百年後の少女を救い、そして彼自身もまた、最期まで愛する者の存在に救われて散っていった。
◆
翌日。俺たちはレオルラハト領主の屋敷へと戻った。
無事に帰還した娘の、どこか晴れやかで穏やかな表情を見た瞬間、領主はボロボロと大粒の涙を流して崩れ落ちた。
「おお……オリア……! 無事だったか……! ご無者ども、感謝いたします!! この度の依頼、見事な成就! 報酬はいかほどでもお支払いいたします! 金貨でも領地でも、言い値でお受け取りください!!」
だが、シンはひらひらと手を振って、そっけなく背を向けた。
「報酬? ……いらねーよ。この依頼は失敗だ」
「「「はい!?!?!?」」」
ジークと俺、そして領主の声が、屋敷の天井を突き破らんばかりに響き渡った。
「シ、シ、シンさん!? 言い値ですよ!? たくさんの金貨ですよ!?」
ジークが目玉を飛び出させて叫ぶ。俺も思わず「正気かお前!?」と叫びそうになった。
シンは振り返り、領主を優しく、そして誇り高く見下ろした。
「あんたが出した依頼内容は一人娘にかかった呪いの解呪だ。……だが、あれは最初から呪いなんかじゃなかった。
綺麗で切ない愛の奇跡だ。……呪いも解いてねぇのに金をもらっちゃあ、Sランク冒険者の名折れだろ」
シンはそのままポケットに手を突っこみ、大股で屋敷の門へと歩いていく。
領主は言葉を失い、やがて――去っていくシンの背中に向かって、地面に額がつくほど深々と頭を下げた。
その顔はもう、娘の無事を心から安堵する『一人の父親』の顔に戻っていた。
俺とジークは顔を見合わせ、呆れたように、けれど最高の気分で苦笑いを浮かべた。
「……まあ、幸い、金はあるからな」
俺の小さな負け惜しみは、爽やかな朝風に溶けて消えた。
『ふふっ、シンさんカッコ良すぎるね! 相棒も見習ったら?』
(俺なら金貨50枚は貰っとくね)
『そういうところだぞ〜』
(うるせ〜)
胸の中のラナと笑い合いながら、俺たちは次の目的地へ向かって歩き出す。
時の向こうから届いた手紙。
それは一人の少女の心を救い、戦地に散った兵士の魂を鎮め、そして俺たちに守るべきものの尊さを改めて教えて、静かに百年の歴史へと帰っていったのだった。




