第31章:名もなき恋の唄ー2
レオルラハト領主の屋敷は、ため息が出るほど豪奢で重厚な建造物だった。
手入れされた広大な庭園、装飾された巨大な門。
だが――俺たちを出迎えた領主レオルラハト本人の顔は、その屋敷の豪華さとは程遠い、骨と皮膚だけに削ぎ落とされたような凄惨な形相をしていた。
無数の金と権力を持ちながら、何日もまともに眠れず、食事すら胃を通らない人間の、幽鬼のような眼光。
「これは……これは……ッ!!」
領主は、俺たちの姿を見るなり、縋り付くような勢いで深く頭を下げた。
「ジーク王子殿下に、海洋国家オーシャンの最高戦力海神シン殿……! それに、今や王都で知らぬ者のいない転移者殿まで……! わざわざ足を運んでくださるとは、深い感謝を……ッ!」
「顔を上げてください、レオルラハト卿」
ジークが静かに、だが王子としての品格を保って応じる。
「それで……依頼書にあった御息女の呪いとは、一体どういう現象なのですか?」
領主はガタガタと唇を震わせ、吐き捨てるように言った。
「……娘のオリアが……夜な夜な、屋敷を密かに抜け出すのです」
シンが、雰囲気を和らげるように肩をすくめて柔らかく笑った。
「なんだ、そんなことかい。年頃の恋多きお嬢さんなら、親に内緒で男と逢い引きの一人や二人、珍しくもないでしょう」
俺はすかさず、冷徹に補足する。
「だが、それを単なる逢い引きじゃなかった……
だからSランクの依頼として出された」
領主は、頸椎が折れそうなほど強く頷いた。
「逢い引きなら……! 若い男との恋なら、どれほどよかったか……! 娘が夜な夜な向かうのは、裏山の古びた祠にある……時の勇者様の石像なのです! 娘は……あの冷たい石像と文通をしているのです!!」
「文通……?」
シンが首を傾げた。
「石像と手紙のやり取り、ですか。まあ、乙女のファンタジーな妄想と言えばそれまでですが……」
「時の勇者……?」
俺が呟くと、領主が説明した。
「千年前の封魔戦争で、この地を魔族から守った勇者様です。時を司る剣で魔族を退けたという伝承の……」
俺がその説明を聞いた、その瞬間だった。
――チリッ。
俺の腰に差された魔剣ムラマサが、鞘の中で微かな熱を帯び、チリチリと静かに共鳴音を立てたのだ。
『相棒……ッ! いま、魔剣ムラマサが反応した……!?』
ラナの緊張した声が脳内に走る。
(……時を司る剣の勇者。おそらく、千年前の初代ムラマサ適合者だ)
「……それで、領主様。石像と文通することが、どうして呪いになるのです?」
ジークが尋ねる。
領主は両手で顔を覆い、絶望に満ちた声で叫んだ。
「娘が夜、石像の足元に手紙を供えると……翌日の夜にはその手紙が消え、見知らぬ者の筆跡で返事の手紙が置かれているのです! もう三ヶ月も……毎日欠かさず!!」
俺は腕を組んだ。
「相手の正体は? 怪しい奴がコソコソ手紙を差し替えているだけじゃないんですか? 私兵や腕利きの冒険者を潜ませて監視させれば……」
「当然やりました!! 私自身も身を潜め、一晩中息を殺して張り付きました! ですが……誰も、誰一人として石像には近づかないのです! 人っ子一人現れないのに、翌朝には返事の手紙が置かれている……!」
領主の声が、狂気と恐怖で裏返る。
「不思議に思い、ある夜、私は手紙が消える瞬間を直接監視しました。……すると! 夜の十九時になったその瞬間!!
娘が供えた手紙が……まるで水に溶けるようにフッと虚空へ消え去り、同時に、誰もいない空間から新しい返事の手紙がハラリと舞い降りてきたのです!!!」
シンの目が、スッと鋭く細められた。
「……魔力の痕跡は?」
「一切ありません!! 我が家に仕える一流の魔導術師にも鑑定させましたが、空間魔術の波長も、召喚魔術の痕跡も一切感知できないと……! あれは……あれはあの古き石像に憑いた、悪霊の呪いです!! 娘の魂が喰われてしまう……!!」
俺は短く息を吐き出した。
「なるほどな。魔法の痕跡が一切ないからこそ、人はそれを呪いと呼んで恐れるわけだ」
「よし。まずは本人に話を聞こうじゃないか」
シンが静かに立ち上がった。その背中には、波の深淵を見据える男の静かな覚悟が漂っていた。
◆
通された離れの部屋にいた娘――オリアは、酷く礼儀正しく、そして恐ろしいほどに頑固な少女だった。
「初めまして。オリアと申します」
透き通るような白い肌、儚げで折れてしまいそうな細い身体。だが、その瞳の奥には、どんな圧力にも屈しない強い光が宿っていた。
ジークが背筋を伸ばし、深々と一礼する。
「は、初めまして! ウルシア王国第三王子、ジーク・ウルシアです」
俺は無駄な前置きを省き、核心へと切り込んだ。
「いきなりで申し訳ないが、オリアさん。最近、身体が不自然に重いとか、頭の中で妙な声が聞こえるとか、身の回りで変な体調の変化はないか?」
オリアは、冷たく細い息を吐き出し、俺たちを薄い目で見つめた。
「……また、父が余計な連中を雇ったのですね。何度言えば分かっていただけるのでしょうか。これは呪いなどではありません」
「じゃあ、オリアちゃんはそれを何だと思ってるんだい?」
シンの問いかけは、どこまでも柔らかく、包み込むようだった。
オリアは胸元に大切な宝物のように手紙を抱きしめ、愛おしそうに目を細めた。
「……私はただ、遠く離れた大切な方と……文通をしているだけです」
シンはそれだけを聞くと、ふっと不敵に笑い、あっさりと踵を返した。
「そっか。邪魔して悪かったな。じゃ、俺たちはこれで失礼するよ」
「「はぁ!?!? シン!?!?」さん!?」
俺とジークの声が、見事にハモった。
屋敷を出た直後、俺はシンの肩を掴んで問い詰めた。
「おいシン! 何が『これで失礼する』だ! 何か分かったのか?」
シンは街道を悠然と歩きながら、煙草を吸うような仕草で息を吐いた。
「分かったも何も、あのお嬢さんは至って健康だ。精神の汚染も、悪霊の憑依もない。ただの……純粋で一途な、恋する乙女さ」
ジークが不安そうに尋ねる。
「波……ですか? シンさんには、何か見えたんですか?」
「ああ。操られてたり、呪われてるようなドロドロした波は一切なかった。……ただし」
シンは立ち止まり、澄み切った青空を見上げた。
「あの石像の方だけ……波が、不自然に歪んで淀んでやがる」
俺は眉をひそめた。
「波が歪んでる……? それ、どういうことだ?」
「さあな。だが、レオルラハトのオッサンに本当のことを言ったところで納得はしねぇよ。
一人娘を心配する父親ってのは、いつの時代も我が子の奇行を何かのせいにしたがるもんだ。
人間ってのはな、理解できない現象を、恐怖して呪いと呼びたがる生き物なんだよ」
◆
それから数日間。俺たちはレオルラハト領を拠点にして、精力的に依頼をこなし、路銀を稼いだ。
シンは手加減なしに、俺たちをAランクやSランクの厄介な魔物討伐や護衛任務へと引っ張り回した。
容赦はない。だが、決して見捨てることのない完璧な距離感。
ジークは最初、足がすくんで泣き叫んでいた。だが、彼は絶対に逃げ出さなかった。
恐怖に膝を震わせながらも、アーティファクト・ヒナワを構え、必死で俺たちの背中に食らいついてきた。
そして、ギリーエが言っていた王子の力は、戦闘以外の場面で圧倒的な威力を発揮した。
極秘書類の確認、領主やギルド幹部との交渉、関所の通過。ジークがウルシアの第三王子として一歩前へ出るだけで、それまでピリついていた現場の空気が一瞬で円滑に変わるのだ。
(……なるほどな。ジークは伊達に王子やってねぇわ。自分の立場って武器の使い方が分かってきてやがる)
俺が感心して見つめていると、胸元でラナが誇らしげに囁く。
『ね! ジークどんどんカッコよくなっていくよね! 相棒も負けてられないよ!』
(ああ、分かってるよ)
そして何より、シンはどれほど過酷で血生臭い依頼の最中でも、常に飄々とした軽口で場を和ませてくれた。誰の心も張り詰めすぎて折れてしまわないように。
俺たちが十分な路銀を稼ぎ出し、いよいよ次の目的地へ向かおうとした、その出立の朝のことだった。
バコォォォンッ!!と。
宿屋の分厚い扉が、破らんばかりの勢いで激しく叩き開けられた。
「いらっしゃいますか……ッ! ジーク様!! シン様!!」
現れたのはオリアだった。
髪は乱れ、息は切れ、その儚げな顔は死人のように蒼白に染まっている。
彼女の心そのものが、今にも粉々に崩れ落ちてしまいそうなほど激しく震えていた。
「ひ、ひぃぃ!? オリアさん!?」
ジークが跳ね起きる。
「あ、あの人が……!! ユリウス様が……明日、最前線の戦地へ旅立ってしまうと……手紙に……手紙に書かれていたのです……!!」
オリアは、手の血管が浮き出るほどの力で、一枚の手紙を胸に強く抱きしめていた。
シンがゆっくりと一歩前へ出た。その目の奥から、いつもの軽妙さが消え去る。
「落ち着いてオリアちゃん、詳しく話を聞かせてくれるかい?」
「はい……ッ! 私と文通していたお相手は……ユリウス・ガスティン様という、一人の若き兵士様なのです。その方の部隊が……急遽、最も過酷な最前線への派遣が決まったと……!」
「戦地……? その場所の名前は分かるかい?」
「ウィロウと仰ってました……ッ! 戦死者が最も多く出ているという、最前線の激戦区ウィロウです……!」
その名を聞いた瞬間、俺は思わず眉をひそめてシンを見た。
「おいシン。ウィロウ……? この大陸で戦争なんて起きてんのか?」
シンは――答えなかった。
口を真一文字に結び、底知れぬほど深く、暗い瞳で、はるか遠くの空間を見つめていた。
その沈黙の重さが、俺の背筋に冷たい蛇のような嫌な予感を走らせる。
「……シンさん?」
ジークが不安げに彼の顔を覗き込む。
「止めなくては……ッ! 今夜十九時になれば、また彼に手紙が届くはずです! 今夜の手紙で……私は絶対に、彼が戦地へ向かうのを引き止めます……!!」
オリアが必死の形相で叫ぶ。
シンは、静かに、重く頷いた。
「……そうだな。まずは今夜、ユリウスからの返事を待つとしよう」
夜。裏山の古びた祠。
月の光が照らす静寂の中で、俺たちは時の勇者の石像を取り囲んでいた。
石像の足元に差し出された一本の蝋燭の灯火が、揺ら揺らと怪しく石面を照らしている。
その足元には、オリアが今さっき供えたばかりの、涙の滲んだ手紙が置かれていた。
『お願いです、行かないで。私の元を去らないで』――必死の思いで綴られた、悲痛な懇願の言葉。
オリアは胸元で固く両手を組み、祈るように、すがるように石像を見つめている。
ジークもヒナワを握りしめ、息を殺してその瞬間を待っていた。
――十八時五十九分。
俺の腰の魔剣ムラマサが、チリチリと不気味なほど強く熱を帯び始める。時間の波が、空間の境界線を揺らしている証拠だ。
そして。
静寂の針が、十九時丁度を刻んだ――その瞬間。
――何も、起きなかった。
「……え?」
ジークの素っ頓狂な声が、夜の静寂に虚しく響いた。
いつもなら、十九時になったその一瞬で、オリアの手紙が溶けるように空中に消え去り、ユリウスの返事の手紙がフワリと舞い降りてくるはずだった。
だが、石像の足元には、オリアが置いた手紙が……そのまま、冷たく残されたままだった。
「嘘……嘘でしょう……? ユリウス様……! 返事を……返事をください!!」
オリアが、悲鳴のような叫びを上げて石像に取りすがった。
冷たい石の足元を何度も擦り、手紙を叩きつけ、必死に相手の言葉を追い求める。
だが、どれほど時間が過ぎようと、――手紙が再び届くことはなかった。
「嫌……嫌よこんなの!! 昨日まで……ずっと、毎日、返事をくれたじゃない!! どうして……どうして急に届かなくなるのよぉぉぉッ!!!」
膝から崩れ落ち、オリアが冷たい石畳の上で声を上げて泣き崩れた。
彼女の手から、必死に引き止めるために書いた手紙が零れ落ちる。
毎日当たり前のように交わされていた言葉の糸が、プツリと切り落とされた瞬間の、痛々しすぎる絶望の音。
ジークが胸を痛め、かける言葉を失って唇を噛み締める。
そんなオリアの前に、シンが静かに歩み寄り、彼女の目線に合わせてその場に深く屈み込んだ。
その深い海と黄金が混じった色の瞳には、もういつもの軽妙さは欠片もない。すべての冗談を剥ぎ取った、残酷なまでに真摯で深い光。
「……オリアちゃん。ユリウスに、会いたいかい?」
オリアが、涙と泥で汚れた顔をバッと上げた。
「あ……会えるのですか……!? 今からでも……最前線のウィロウへ行けば、ユリウス様に会えるのですか……!?」
シンは、静かに、だが恐ろしいほど重い口調で念を押した。
「ああ、おそらく、会える。……だが、ひとつだけ約束してくれ。そこにどんな現実が待っていようとも、最後までしっかりと受け止める覚悟はあるかい?」
オリアは、血が滲むほど強く唇を噛み締め、大粒の涙をこぼしながら力強く首を縦に振った。
「はい……ッ! どんなことがあろうと……あの方に会えるのであれば……!!」
シンは静かに立ち上がり、夜空を見上げた。
「よし。じゃあ行こうか。最前線ウィロウへ」




