第31章:名もなき恋の唄ー1
ウルシア王都の朝は、完璧に整っていた。
石畳は塵一つなく清掃され、城壁に掲げられた青と銀の軍旗は風の赴くままに誇らしく翻っている。
広場を巡回する兵士たちの足音は、まるで狂いのない時計の秒針のように正確な規律を保ち、街ゆく人々の生活の音色が穏やかな朝の空気に溶け込んでいた。
――なのに。
数々の戦いのせいか、俺の鼻腔の奥深くにへばりついた肉と鉄が焦げたような匂いだけが、どうしても拭いきれない。
魔族が現れた。
大国が一つ、一夜にして地図上から完全に消し飛んだ。
その事実だけで、今、この世界のありとあらゆる権力者たちが、冷や汗に塗れ、不眠が続いているだろう。
魔族との戦争は、人間同士のそれとは根本的にルールが違う。
国境線に陣形を組んで正面からやってくるとは限らない。
世界のどこかに口を開けた見えない大穴からゴキブリのように這い出し、気づいた時にはじわりと背中側から国の臓腑を直接刺しにくる。
ワーズという下位貴族が、グリンデル王都のド真ん中を空間ごと抉り取ったように。
だからこそ、人類は防衛を捨て、総力を挙げて盤面を動かした。
軍事国家カエサル方面。
あちらには、竜王ウォール、火竜レイズ、氷竜ミストといった竜騎士たちに加え、カエサルが誇る七つ星冒険者たちで捜索している。
狙いは、ローラー作戦。圧倒的な数と空を制する機動力をもって、魔族が湧き出す穴を物理的にシラミ潰しに探す、力技の索敵部隊だ。
対して――ウルシア王国、及び海洋国家オーシャン側の大陸エリア。
こちらには、万物の波を読む男がいる。
◆
王城の奥深く、大理石の回廊。
出立前の張り詰めた静寂の中で、俺たちは顔を揃えていた。
海洋国家オーシャンの最高戦力、Sランク冒険者――海神のシン。
防具らしい防具も着けず、ただの軽装。それなのに、彼が壁に寄りかかって立っているだけで、周囲の空気が不気味なほどに凪いでいる。
修羅場も絶望も知り尽くした海の男特有の、余計な力の一切入っていない、底知れぬ強者の佇まい。
その対面に立つのは、ウルシア王国第五王子、ジーク・ウルシア。
まだ幼さの残る顔立ちで、極度の緊張からか、アーティファクト・ヒナワを抱える指先が微かに白くなっている。
けれど、その瞳は決して床へ逃げない。恐怖を麻痺させて強がるのではなく、恐怖を丸ごと抱え込んだまま自分の足で立つ術を、彼は魔族の絶望や神王獣の恐怖の中で学んでいた。
そして、第二王子ギリーエ。
剣も槍も、魔法の杖すら持たない。だが、血で血を洗うこの戦場において、誰よりも冷酷に盤面を支配する外交の天才。
「最終確認をします」
ギリーエの声は、春の陽だまりのように穏やかだったが、その奥にある意思は氷の刃のように1ミリもブレていない。
「カエサル方面は、レイズ殿たちがローラー作戦で魔力を探ります。対して我々は、ウルシア国内及びオーシャン側の大陸へ。魔族封印の地を特定する、いわば中枢の役目です」
長机に広げられた巨大な大陸地図の上を、ギリーエの細く白い指が滑る。
古文書から割り出されたという、魔力異常の候補地。赤く印されたその無数の点が、まるで地図の上に咲いた致死の病変のように不気味に散らばっている。
俺は、隣に立つシンの横顔を盗み見た。
海の男は、地図の赤い印になど目もくれていない。その海色の瞳は、壁を抜け、風を読み、はるか遠くの大陸地図の外側をすでに見透かしているようだった。
「……つまり、俺たちはローラー作戦で端から潰す必要はねぇ。魔族の封印地が近づけば、シンの特殊な感知能力が勝手に反応するってわけか」
俺が言うと、シンは面倒くさそうに片眉を上げた。
「おいおい、便利な魔道具みたいな言い方すんなよ。……まあ、近くなりゃ分かる。潮目が変わって、波が不自然に淀むからな。魔族特有のドス黒い波なら、なおさら鼻をつく」
シンが鼻を鳴らす横で、ジークが胸元の紐をぎゅっと握りしめ、ポツリと呟いた。
「……こんなに重要な任務なのに、僕なんかが……本当に役に立つんでしょうか」
「立ちますよ。あなたは、ウルシア王国の王子なのですから」
ギリーエが、間髪入れずに即答した。
その微笑みは、一見すると弟への優しい励ましの顔をしている。だが、その裏に隠されたのは、あまりにも完璧で、血の通っていない戦略だった。
「いくら剣の腕があろうとも、扉は開きませんし、人々は寄り添ってくれません。ですが、王族の威光というものは、それらを可能にします」
ギリーエは、ジークの肩にそっと手を置いた。
「あなたがそこにいるだけで、無条件で通れる関所がある。あなたが問うだけで、重い口を開く権力者がいる。
……剣を抜かずに世界を動かしたい盤面において、あなたのジーク・ウルシアという名前は、どんな聖剣よりも鋭い最強の武器になるのです」
(……相変わらずえげつねぇな、王族って立場や。弟すらも、アイテム扱いか)
俺が内心で呆れるように毒づいた瞬間、胸の奥がチリッと熱を持った。
『相棒。あれが政治ってやつだよ。……身内すらも駒として使いこなす。冷たいけど、あの人、上に立つ者として完璧だね。人としては終わってるけど』
ラナの声が、俺の骨の髄を直接くすぐるように響いた。
(……それが聞こえてたら首が飛ぶな)
俺は表情を一切崩さず、息だけを短く吐いてラナに返した。
シンは、そんなドロドロとした王族の空気を吹き飛ばすように、軽く肩をすくめてジークの背中をポンと叩いた。
「肩の力抜けよ、兄弟。やることは単純だ。俺が嗅ぎつけ、お前が扉と心を開け、転移者の兄ちゃんと魔族をぶっ飛ばす。……それだけだ」
シンの大雑把すぎる作戦要月に、ジークが毒気を抜かれたように小さく笑った。
「……はい。なんだか、そう言われると、とても簡単に思えますね」
ギリーエが地図をパタンと畳み、最後に俺たち三人を真っ直ぐに見据えて、静かに言った。
「必ず。――無事に」
感情を削ぎ落としたギリーエの口から出たその言葉は、呪いのように重く、そして確かな支えとして、俺たちの背中を押した。
◆
王都の巨大な城門を抜けた瞬間、世界の色が明確に変わった。城壁の中が守られる場所であるならば、外は死と隣り合わせの場所だ。
三人乗りの馬車が街道を進み、車輪の揺れが一定の心地よいリズムを刻み始めた頃。
ジークが窓の外の流れる景色を見て、ふとこぼした。
「……こうやって馬車に揺られてると、本当にただの冒険みたいで、少しワクワクするねっ」
その声の響きが、凄惨な死地を抜けてきたにしてはあまりにも子供っぽくて、無防備だった。
俺とシンは顔を見合わせ、少しだけ救われたような気分になった。
こういう気の抜けた、純粋な言葉がないと、人は張り詰めた糸のように少しのきっかけで切れるように。簡単に心が折れて狂ってしまうのだ。
だから俺は、わざと意地悪く口角を上げて笑ってやった。
「いいかジーク。魔族封印の地を見つけた瞬間、ワクワクも吹き飛ぶような、バカみたいに強くてこわーい魔族がお出迎えしてくれるかもな」
「ひぃぃぃッ!!?」
ジークが瞬時に肩を跳ね上がらせ、ヒナワを構えようとして馬車の天井に頭をぶつけた。
『こーら相棒、いじめないの。ジーク泣いちゃうでしょ』
胸の奥で、ラナがクスクスと笑う。
「……まぁ、冗談だ。たぶん、な」
シンが、呆れたように腹を抱えて笑った。
「怖がれるのは正常な証拠だ。自分の命の軽さを知らねぇで調子に乗るバカは、だいたい戦場じゃ真っ先に死ぬ」
ジークが、涙目で頭をさすりながら、少しだけホッとしたように胸を張った。
「じゃ、じゃあ……膝がガクガク震えてる僕は、大正解ですね!」
「ああ、百点満点だ」
シンはさらりと言って、窓の外へ顔を向け、吹き込んでくる風を深く嗅いだ。
「……波、今日はいいな」
いい波。
その一言だけで、なぜか馬車の中の空気が、少しだけ温かく、頼もしいものに変わった気がした。
馬車に揺られること一日。俺たちが辿り着いたのは、ウルシア王国の西の最果てに位置する、静かで小さな村だった。
千年前の封魔戦争において、魔族との間で苛烈な激戦が繰り広げられたという伝承が残る土地だ。
「よし、とりあえずここで路銀の補充と情報収集だな。村の手伝いでもするか、近くのギルド支部で適当な仕事でも受けるか」
馬車を降り、腰の骨を伸ばしながらシンが提案してくる。
俺は肩をすくめ、懐から銅色のプレートを引っ張り出した。
「ギルドの仕事っつってもなぁ……俺、Fランクなんだけど」
――ピキッ。
空間の時間が、完全に停止した。
シンとジークが、寸分違わぬタイミングで首をギギギと折り、口をあんぐりと開けて俺を凝視している。
驚き方の角度まで寸分違わず揃っているのが、妙に腹立たしい。
「……え?」
ジークが、間の抜けた素っ頓狂な声を上げた。
シンは俺の顔と、手に持った銅色のプレートを三往復ほど見比べ、ゴミを見るような惨めな目で俺を眺めた。
「お前……魔族を殺したり、時を巻き戻したり、単騎で神獣ぶっ倒すデタラメな強さで……Fランクかよ……」
「そ、そういえば……。 ギルドに入ったばかりの時に雑用係になったんだもんね。ずっと雑用係のまま、勢いと力だけでここまで来ちゃったんだ……」
ジークが、妙に納得した顔で何度も大きく頷いている。
「お前な、たまに悪気のない顔で一番痛いところ刺してくるよな」
「ご、ごめん! 悪い意味じゃなくて! 君ってそういう立場とか肩書きとか、本当に一切興味なさそうだから、逆にすごいなって意味で!!」
ジークが慌てて両手をブンブンと振って弁明する。
俺は小さくため息をつき、プレートをポケットへ放り込んだ。
「ああ。正式に受けたギルドの依頼なんて、一番最初のミリアへの物資輸送補助だけだ。あとは巻き込まれ事故と命の削り合いの連続だよ」
シンは自身の無精髭を撫でながら、ニヤリと可笑しそうに口角を上げた。
「まあ安心しな、大将。幸いなことに、オーシャンとウルシアの冒険者ギルドは共通のランク制度を採用してる。Sランク冒険者様であるこの俺様が、美味しくて安全な高ランククエストに連れていってしんぜよう」
「……絶妙にムカつくな」
『ふふっ、でもシンさんって本当にSランクなんだね! 伊達に海神なんて呼ばれてないや。流石頼りになるね、相棒!』
胸元のペンダントから、ラナの無邪気で感心したような声が頭に響く。
(……まあ、あいつの実力は本物だからな。助かるのは確かだ)
俺はゴホゴホと咳払いをして誤魔化し、冒険者ギルドへと足を向けた。
◆
村から少し街道を進んだ先にある、この地域の領主が治める中心都市。
重厚な石造りの街並みと、洗練された騎士たちの巡回ルート。その中央に聳え立つ冒険者ギルドの支部は、王都ほどではないが活気に満ち溢れていた。
「さて、まずは手頃な仕事を探すとするか」
巨大なクエストボードの前で腕を組むと、ジークが掲示板の端っこを控えめに指差した。
「あ、あの……この『裏山のゴブリン五匹の討伐』なんてどうでしょうか……? 僕のヒナワなら一瞬ですし、安全かと……!」
「却下だ。報酬が銅貨数枚じゃ、今日の宿代稼ぐので日が暮れる」
俺が即座に切り捨てると、ジークは「うぅ……堅実だと思ったのに……」と肩を落とした。
その時だ。
俺の視線が、掲示板の最上段、特別枠の金色の羊皮紙へと吸い寄せられた。
そこに書かれた文字が放つ、異様なまでの違和感。
「ん? 領主直々の依頼が出てるぞ」
シンが横からひょっこりと顔を覗き込む。
「へぇ、珍しいな。領主の私兵や権力じゃどうにもならねぇ、金に糸目をつけねぇ依頼か?」
【分類:Sランク】
【報酬:言い値(望むだけの金貨、または領地の権利)】
【依頼主:領主レオルラハト】
【内容:一人娘にかけられた原因不明の『呪い』の解呪】
ジークがゴクリと喉を鳴らした。
「の、呪い……!? なんだか怪しげで怖いですね……」
シンが、その海色の瞳を微かに細めた。
「報酬が『言い値』ねぇ……。金で解決できないからこそ、藁にもすがる思いってわけだ。一筋縄じゃいかなそうだな」
だが、シンの声には恐怖も焦りもない。無数の修羅場を潜り抜け、世界の波を知る男ならではの圧倒的な落ち着き。
俺は迷うことなく、その金色の羊皮紙を無造作にバリリと剥がし取った。
「行くぞ。言い値なら、路銀どころか当分の旅費が丸ごと稼げる」




