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第30章:竜騎士とはー1

 神王獣ヤマタノオロチの縄張りであった、森の最深部――絶対の禁域。


 その見えない境界線を越え、外の森へと足を踏み出した瞬間。


 世界が、大きく深く、息を吸い直したような気がした。


 さっきまでの禁域では、空気を吸うことすら、すべてヤマタノオロチの許可制だった。


 鳥の声ひとつ、葉擦れの音ひとつが、俺たちという異物を測る秤の針であり。踏み込んだ足裏の泥の感触一つで、「生かすか」「殺すか」を冷酷に値踏みされているかのような、何とも表しづらい、極限の抑圧感。


 なのに。


 ヤマタノオロチを武装化し装飾品化した途端。


 音が、ただの自然な森の音に戻った。


 名も知らぬ鳥が警戒を解いて鳴き、羽虫が陽だまりを飛び交い、柔らかな風が巨木の間を穏やかに吹き抜けていく。


「……ッ、ハァァァァ……ッ」


 俺は立ち止まり、首の骨をゴキリと鳴らし、肺の底に溜まっていた重たくてドス黒い空気をすべて吐き出した。


 皮膚の下に何千本もねじ込まれていたような、冷たい死の針が、一気にボロボロと抜け落ちていくような感覚。


 勝った。


 確かに、俺たちは勝ったのだ。


 この大陸の生態系の頂点に君臨する神王獣の命を散らし、俺の武装化でその力の一部を強制的に剥ぎ取り、今、四人全員が五体満足でここに立っている。


 ……なのに。


 俺の胸は、全く躍らなかった。


 強敵を打ち倒したという、少年漫画のような爽快な高揚感など、欠片もない。


 ただ、極度の緊張から解放され、今すぐその場に胃の内容物をすべて吐き出したいほどの、ひどく重たくて、吐き気を催すような泥臭い安堵だけがそこにあった。


 俺は、腰に巻いた真新しい深緑のベルトにそっと触れた。


 俺の心拍に合わせて、微かにドクッ、ドクッと脈動している。


 ただの装飾品ではない。八つの理不尽を操った神王獣の一部。


 それが俺と完全に同化し、俺の身体の新たな一部として、静かに、しかし凶悪に呼吸している。


『……相棒』


 胸元のペンダントから、ラナの声が直接脳内に響いた。


 いつも俺をからかうような明るい声ではなく、ひどく低く、俺の心を気遣うような優しい温度。


『勝った顔じゃないね。……全然、喜んでない』


(……ああ。まあな)


 俺は心の中で、自嘲気味な苦笑いと共に返した。


 今まで、勝つたびに、何か大事なものを失ってきた。


 ルーナとレーオを喪った傷は、かさぶたにすらならず、まだ生々しく血を流し続けている。


 だから……『誰も死なずに強敵を殺せた』という、この奇跡みたいな事実が、逆に俺のトラウマを抉ってくるのだ。


(……最初から、こうやって……全部の戦いで、誰も死なせずに済めばよかったのにな。リードもカナもガロウも。

 ラナも。)


『……相棒は、本当に不器用で、優しすぎるよ。優しすぎて、いつか心が壊れちゃうんじゃないかって、心配になるくらい』


 ペンダントが、チリッと温かい熱を帯びる。


『でも……私は、そんな相棒だからこそ、自分の命を預けてるんだけどね』


(からかってんのかー?)


『本気だよ。……生きててくれて、ありがとう、相棒』


 ラナの温かく、真っ直ぐな声に。


 俺の胸の奥で、カチカチに固く結ばれていた絶望の結び目が、ほんの少しだけ解けた気がした。


 ガコンッ!!と。


 背後で、分厚い鉄の塊が重々しく噛み合う、ひどく鈍い音がした。


 アーティファクト・センシャ。


 俺の元の世界の、戦争のまごうことなき主力だ。


 ジークとギリーエが乗り込んでいた、その分厚いオリーブドラブの鋼鉄のハッチが、完全に閉められた音だ。


 あの神王獣ヤマタノオロチの、八つの属性と理不尽な神話級の攻撃のすべてから、傷一つ負うことなく俺たちの背中を守り抜いた、最強にして最高の鉄の要塞。


「……ほんとに、生きて帰れるんだよね……?」


 泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、ジークが戦車の横から泣きそうな声で呟いた。


 声こそ情けないが。


 彼がアーティファクト・ヒナワを抱えるその両腕は、もう戦う前のように恐怖で震えてはいなかった。


 死線を自らの足で越え、自らの手で神を撃ち落とす引き金を引いた者の、確かな芯の強さが宿っている。


「ああ、帰るぞ、ジーク。帰って――次に備えるんだ」


 俺の言葉に、ジークは力強く、小さく頷いた。


 ライーオが、振り返り、森の奥――オロチが倒れ伏した禁域の奥底の方を、一度だけ静かに見つめた。


 その表情は、見事な狩りの対象を仕留めた戦士として、彫刻のように静かで凪いでいる。


 だが……聖樹の弓を握る指の関節が、白く変色し、血が滲むほどにギリギリと強く握り込まれているのを、俺は見逃さなかった。


 祈り、そして怒り。


 自分の愛する子供たちを奪った魔族への純粋な殺意と、奪わせた運命への底知れぬ憎悪。


 祈りと怒りが同居するのは、決して弱さではない。


 いつだって、本当に護るべきものを持った力ある者の、正しく美しい姿だ。


 ギリーエが、足音もなく俺の隣に並んだ。


 剣も槍も持たないウルシア王国第二王子の理知的な瞳は、すでにヤマタノオロチの死骸にはなく、さらにその先にある次なる戦場を冷徹に見据えていた。


「……決めたのですね」


 俺は、無言で後ろの戦車を見上げた。


「ああ。置いていく。このシルアの森の奥にな」


「えっ、ええっ……!?」


 ジークが、素っ頓狂な声を上げて目を真ん丸にした。


「お、置いていくの!? この最強の箱を!? もったいなくない……!? これウルシアに持ち帰れば、魔族相手に完全に無双できるよ!?」


 当然の反応だ。こんな全属性無効・超火力のチート兵器、自国に持ち帰れば、各国の情勢を根底からひっくり返せる。


 だから、俺はジークの泥だらけの天然パーマの頭をガシガシと乱暴に撫でて、笑ってやった。


「もったいないから、置くんだよ」


 俺は歩み寄り、センシャの冷たい鋼鉄の装甲を、右手の拳でガンッと力強く叩いた。


「こいつは、他国を侵略して何かを奪うための兵器じゃねぇ。……大事なものを守るための盾だ。俺たちがウルシアに持ち帰れば、間違いなく国同士で奪い合いの血みどろの火種になる。……人間の浅ましい欲望で、コイツを汚したくねぇんだよ」


 ジークがハッとして息を呑み、ヒナワを強く抱き直した。


 ライーオが、静かに、そして深く頷いた。


「……森の民には、弓を持てぬ戦えぬ者も多い。だが……あの理不尽なヤマタノオロチの攻撃すら完全に弾く最強の盾を得れば、我らは自らの力で、自らの居場所を守り抜くことができる」


 森の外へ持ち出せば、目立つ。暗躍する八咫烏も確実に狙ってくるだろう。


 ならば最初から、シルアの民が自分たちの意志と責任で引き金を引くための絶対の防壁として、この森の奥深くに根付かせる。


 それこそが、命を懸けて戦ってくれた恩人――レーオとルーナへの、俺なりの本当の贖罪であり、手向けだった。


 ライーオが、センシャの装甲にそっと右手を置き、エルフの古き言葉で短く、娘と息子への祈りを捧げる。


 俺は黙って頭を下げ、その祈りが空へ届くのを待った。


 そして――。


 俺たちは、泥だらけの足で、王都ウルシアへの帰路についたのだった。


 飛竜の巨大な翼が風を力強く叩き、シルアの深いエメラルドグリーンの樹海が、遙か後方へと小さく遠ざかっていく。


 数日間にわたる、王都ウルシアへの空の旅路。


 本来ならば、神王獣ヤマタノオロチという神を撃滅し、さらには誰一人欠けることなく無事に生き残ったという、極上の安堵感と達成感に浸っていてもいいはずの帰路だった。


 だが。


 ウルシア王都が近づくにつれ、上空の俺たちの肌を刺す空気は、日ごとに、いや刻一刻ときな臭さを増していったのだ。


「……雰囲気が、おかしいですね」


 飛竜の首元に近い位置に座るギリーエが、薄い唇を強く噛み締めながら、眼下の街道を鋭く見下ろした。


 上空からでもはっきりと分かる。


 王都へと続く主要街道を行き交う馬車の数が、明らかに異常だった。


 普段なら、各国の商人や農民たちののびのびとした荷馬車が並ぶはずの街道。そこを現在埋め尽くしているのは、陽光を反射してギラギラと光る、整然と隊列を組んだ重装騎士団の鉄騎兵たちだった。


 絶え間なく運ばれている無数の木箱には、穀物ではなく、王国の軍用物資を示す赤い刻印がくっきりと押されている。


 そして――空を仰げば、俺たちの顔はさらに険しくなった。


 ヒュゥゥゥゥ……ッ!!


 パァンッ!!


 王都を取り囲む全哨戒陣地の塔から、普段なら国家存亡の緊急時にしか焚かれない赤い魔導の合図弾が、真っ昼間からひっきりなしに打ち上げられていたのだ。


 赤い煙が、まるで空が血を流しているかのように、薄気味悪く大気を染め上げている。


「な、なんだよこれ……。なにか、あったのか……?」


 ジークが、恐怖で喉をカラカラに乾かせながら、胸のヒナワを強く抱き直した。


「おそらく。これはただの警戒態勢の演習などではありません……。国そのものが、今まさに戦火の渦中にあるかのような、極めて切迫した気配です」


 ギリーエの鋭い眼光が、遠くに見えてきた王都の白壁を真っ直ぐに射抜く。


 王都の白壁の上には、無数の弓兵と魔導士たちが、黒山のアリのように密集して配置されていた。


 いついかなる時、どこから敵の大軍が押し寄せても即座に迎撃できるよう、完全に街全体が巨大な要塞へと変貌しているのだ。


 バサァァァッ!!


 飛竜が王城の軍用離着陸場へと滑り込むように着地した、その瞬間だった。


 俺たちの帰還を上空の時点で察知していたのであろう冒険者ギルドの伝令兵が、俺たちの飛竜へと向かって、落馬せんばかりの勢いで駆け寄ってきた。


 その伝令兵の顔を見て、俺は背筋が凍った。


 数日はまともに眠っていないであろう、極限まで血走った両目。顔面は土気色に染まり、呼吸はゼェゼェと引きつっている。


「ギ、ギリーエ殿下!! ジーク殿下!! ご、ご無事でしたか……!!」


「伝令。落ち着きなさい」


 飛竜から降り立ったギリーエが、氷のように冷徹な声で伝令のパニックを強引に抑え込む。


「何があったのです。王都のこの異様な戦時体制の理由は」


 伝令は、ギリーエの王族としての覇気にあてられ、ハッと我に返ったように姿勢を正した。


 だが、その乾いた喉をヒュッと鳴らし、蒼白な顔のまま、絶望を吐き出すように叫んだ。


「……ぐ、軍事国家カエサルが、魔族の大規模な襲撃を受けました……ッ!!」

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