第29章:次なるアーティファクトと神王獣ー2
死なせた恩人の、実の父親。
これ以上ない、最悪の報告相手であり、最悪の交渉相手。
「……会わせて、くれるのか」
「会わせる。……だが、覚悟しておけよ、人の子ら」
長老の声には、先程までの怒りではなく……これから地獄へ向かう者への、明確な同情が混じっていた。
「謝罪というものは……時として、鋭い刃のように残酷に人の心を切り裂くのだ。ライーオの心が、今どうなっているか。わしにも分からぬ」
神聖なる魔力が濃密に渦巻く、聖樹の根元に木漏れ日が斑模様に落ちる、森の深奥の静寂の領域に――その男は、ただ一筋の槍のように静かに立っていた。
ライーオ。
ルーナとレーオの父親であり、このシルアの森で最強と謳われる狩人。
大きい。ウォールやローディオのような岩山のような筋肉ではない。一切の無駄な脂肪が削ぎ落とされ、森を駆けるためのバネと瞬発力だけを極限まで濃縮した、高純度の戦士としての骨格。
その背には、自分の身長よりも巨大な、白く滑らかな輝きを放つ聖樹の大弓。
腰には、透き通るような淡い翠の光を放つ短剣が差されている。
ただそこに佇んでいるだけで、周囲の樹木すら彼を避けるように呼吸を潜め、風の軌道すら彼の意のままにねじ曲がっているように見えた。
ザクッ、ザクッ。
俺たちが落ち葉を踏みしめて近づくと、彼の一対の目が、静かにこちらを捉えた。
――ズドンッ!!
「……ッ!」
撃たれた。
俺は一瞬、本当に脳天を矢で射抜かれたと錯覚した。
弓など構えられてはいない。だが、彼の眼光そのものが、一切の躊躇なく俺の急所を物理的な質量をもって射抜いていたのだ。
怒鳴り散らしてくるわけでもない。
憎悪の感情を叩きつけてくるわけでもない。
だからこそ――息が止まるほどに、圧倒的に恐ろしい。
俺は、震えそうになる足に無理やり力を込め、一歩前へ踏み出し……深く、両膝をついた。
湿った腐葉土の冷たさが、膝を叩く。
「……俺が。俺の未熟さが……ルーナとレーオを、死なせた」
ライーオは、何も言わない。
眉一つ動かさず、返事すら返してこない。
沈黙。
その重たい沈黙が、森の羽音も風の音も、すべての音を真空のように押し潰していく。
後ろでジークが不憫さに息を呑み、ギリーエは一言も発さずにじっとその光景を観察していた。
どれほどの時間が流れただろうか。数分か、数十分か。
やがて、ライーオの乾いた薄い唇が、静かに動いた。
「……あの子たちは、受け取った」
それだけだった。
俺を許すとも、責め立てるとも言わない。ただ、提示された悲惨な現実だけを、森の一部として粛々と受け留めるような声。
だが、その感情を完全に殺し切った声こそが、どんな罵倒よりも重く、深く俺の胸に突き刺さる。
彼の中で、どれほどの絶望と悲しみが押し殺されているか、痛いほど伝わってくるからだ。
俺は奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、顔を上げた。
血を吐く想いで、その父親の目を見て、次の言葉を紡いだ。
「……魔族の残虐な侵略を、次の地獄を止めるために。……俺たちに、この森に眠るアーティファクトの情報が欲しい」
ライーオの瞳の奥が、ほんの僅かに、湖面に石を投げられたように揺れた。
子どもを失った一人の父親としての哀しみが、ほんの一瞬だけ表情の影として浮き上がり――次の瞬間には、冷徹な一人の戦士の顔へと完全に上書きされた。
「……センシャのことか」
「センシャ……?」
ライーオは視線を転じ、森の最奥――一切の生命反応が途絶え、瘴気のような重い空気が立ち込めている暗黒の禁域へと、静かに弓の先端を向けた。
「我が一族の古き伝承にある。かつて、魔の時代にこの森に落ちてきたという、絶対の防壁と、山を穿つ圧倒的破壊力を併せ持つ移動型要塞。……だが、今では誰もその使い方を知らん。奇跡的に近づけたとしても使い方すら分からぬのだ」
センシャ。
その、このファンタジー世界においてあまりにも異物感溢れる音の響きに。
俺の脳内に、元の世界の記憶から、一つの確定した答えが弾き出された。
(……戦車)
ドッと、嫌な冷や汗が背筋を落ちていく。
アーティファクトの造り手の遺物が、まさかそんな現代兵器だというのか。
『……相棒。なんだか知らないけど、その単語聞いて、急に心拍数上がったね。正体分かってるんでしょ』
胸元のペンダントから、ラナの緊張を孕んだ声が直接脳に届く。
「……ライーオ。それは、どこにある」
「この森の最奥。古の神が統べる禁域の中だ」
ライーオは、腰の聖樹の短剣の柄に、そっと指を滑らせた。
「……神王獣ヤマタノオロチの、絶対の縄張りだ」
その名が発せられた瞬間。
周囲の空気が、重力を数倍に増したかのように一気に重く沈み込んだ。
八つの首を持つ巨蛇。
おとぎ話の怪物などではない。このイーリス大陸の生態系の頂点に君臨する、現存する生きた神話。
「ヤマタノオロチは、あの禁域を己の王国として君臨している。一歩踏み入れば、森の理ごと呑み込まれる。……過去、あそこに足を踏み入れて生きて戻った者は、この私を除いて、誰一人としておらん」
「…………ひっ!?」
ジークの顔から完全に血の気が失せ、膝がガクガクと音を立てて震え始める。
だが、彼はその小さな両手でヒナワを強く抱え直し、震えながらも決して俺の後ろへは退かなかった。
俺は、長く、深すぎる息を吐き出した。
「……行くしかない。どれほどヤバいバケモノだろうが、手ぶらで引き返すわけにはいかねぇんだ」
ライーオの、研ぎ澄まされた射線のような目が、俺の魂の底を射抜いてくる。
「お前は……何のために行く。死ぬと分かっていてもか」
答えは、最初から胸の中で熱く燃えていた。
「……あの二人の死を、無駄にしないためだ。これ以上、誰かが同じ目に遭うのを止めるために……俺の命を使う」
ライーオは静かに目を閉じ、そして短剣の柄からゆっくりと手を離した。
怒りでも、人間を試すような色でもない。
それは、同じ死線を越えようとする戦友として認めた者への、覚悟の確認だった。
「私も行こう」
そしてギリーエが、迷いのない、優雅な足取りで一歩前へ出た。
「私も行きます。直接戦うことはできません。ですが……盤面を観察し、作戦と判断であなた方の命を繋ぐことはできます」
ジークも、涙目で鼻をすすりながら、自分自身を鼓舞するように叫ぶような声を上げた。
「ぼ、僕も行きます……! ヒナワは、僕が撃たなきゃ意味がないんだ……! 二人を守れなかった後悔を、ここで逃げて終わらせたくない!」
ライーオは、その三人の顔を静かに見渡し……深く、首を縦に振った。
「よし。四人だ」
俺は立ち上がり、腰の魔剣ムラマサの鯉口を親指でカチリと切った。
鞘の中で、強者の血を求めて牙を剥く魔剣の、チリチリとした狂った呼吸を感じ取る。
ライーオが先頭に立ち、彼の背負う聖樹の弓から溢れ出る圧倒的な神聖な波長が、侵すべからざる森の闇を左右へと押し開いていく。
四人の足音が、重なり合いながら。
世界最強の化け物が待つ、死の禁域へと真っ直ぐに踏み込んでいった。
ライーオが先導する獣道は、奥へ進めば進むほど、もはや道と呼べる代物ではなくなっていった。
樹齢数百年、あるいは数千年を超えようかという巨大な木々の太い根が、まるでそこにある何かにひどく怯えるかのように、大地ごとねじ曲がって避けている。
獣の足跡どころか、風の音すら通らない。
普段の森ならば耳障りなほどに空間を支配しているはずの、虫の羽音や鳥のさえずりすら、完全に途絶えている。
そこが――太古の昔からこの森の最奥に存在し続けるという、絶対不可侵の禁域の入り口だった。
「……この奥に、目的のアーティファクトがある」
ライーオが、振り返りもせずに低く告げた。
その巨大な聖樹の弓を握る手は、白く血の気が引くほどに強く握り込まれている。シルア最強の狩人ですら、この領域では本能的な恐怖を抑え込んでいるのだ。
「名は――センシャ」
「……センシャ、ですか」
最後尾を歩くギリーエが、初めて聞くその異質な単語を舌の上で転がすように、微かに首を傾げた。
「どのような意味を持つ兵器なのでしょうか。その名称の響きは、大陸のどの古語の規則性にも該当しませんが」
ライーオが、鬱蒼と茂る闇の奥――瘴気のように濃密な魔力が滞留するクレーターの底を見据えたまま、淡々と答える。
「シルアに伝わる古い伝承では、こう記されている。絶対の防御、山を穿つ圧倒的破壊力、そしてそれ自体が駆動する移動型の要塞。……あらゆる物理、魔法、果ては精神干渉すらも完全に弾き返す、規格外のアーティファクトだと」
「絶対の防御……」
「あぁ。だが、今日に至るまで、誰もそれを使えた者はいない。ヤマタノオロチの目を盗んで運良く辿り着けた者がいたとしても……誰もその要塞の開け方すら、分からなかったからだ」
ジークが、ブルッと小さく身震いをした。
「そ、それ……! もし開け方が分かって、味方にできたら、僕たち……絶対に死なないんじゃ……」
「だが、問題はそこに行き着くまでだ。この森は――神王獣ヤマタノオロチの縄張りだ」
――ドォォォォンッ……。
ライーオがその名を口にした瞬間。
周囲の空気が、まるで深海の水圧のように、物理的な重さを持って俺たちの両肩にのしかかってきた。
森が、息を止めた。
俺の背中の皮膚が一斉に総毛立ち、心臓の鼓動が、危険を知らせる警鐘のように肋骨を内側からガンガンと叩き始めた。
「……神王獣ヤマタノオロチ」
俺は、思わずその名に呪われているかのように反芻した。
「伝承にある通り、首が八つある巨大な大蛇だ。そして、その頭一つずつが、この世界の理から外れた別の能力を司っている」
ライーオは、歩みを進めながら、指を一つずつ折り、その絶望の目録を読み上げ始めた。
「炎、氷、雷、腐敗毒。……ここまではいい。強力な大精霊や上位の古竜でも有している力だ。俺たちでも対処のしようがある。……だが、問題は残りの四つだ。――周囲の『時間遅延』、相手の思考を読み切る『未来視』、対象を圧殺する『重力操作』、そして対象の脳髄を直接破壊する『精神干渉』」
「…………ひっ」
ジークの顔から、一瞬にして完全に血の気が引いた。
「む、無理……! 無理だよそんなの! ズルじゃん! どうやって勝つんだよ、そんな化け物に……!」
ジークがパニックになるのも無理はない。一つだけでも国を滅ぼせるようなチート能力が、八つ同時に襲いかかってくるのだ。まともに戦えば、コンマ一秒で肉片すら残らず消し飛ぶ。
だが、その絶望の目録を聞いても、ギリーエは一歩も後ろへは下がらず……むしろ静かに、口元に冷徹な笑みを浮かべた。
「無理なら、無理なりの勝ち筋を作るまでです」
ギリーエの声はどこまでも柔らかく、静かだった。
だが、その声の奥にある芯は、どんな刃よりも鋭く、鋼よりも硬い。
ギリーエの理知的な瞳が、俺を見た。
「そうですよね。我々の目的は神王獣の討伐ではなく、あくまでアーティファクトの回収です。敵に時間遅延と未来視というチートがある以上、正面からのまともな戦闘は、文字通りの悪手にして死手です」
「……ああ。先手を取り続け、敵の理解が追いつく前に盤面をひっくり返す。それしかねぇ」
俺が続けると、ギリーエは非常に満足そうに頷いた。
「ええ。まずはセンシャを最優先で確保し、あの神王獣の完璧な未来視の中に、一切の想定外だけを押し付け続けます。……力はあなた方に劣りますが、この盤面は、私が支配します」
ライーオが、フッと低く笑った。
「……戦えぬ王子にしては、恐ろしく、そして良い目をしているな」
禁域の、さらに最深部。周囲の樹齢数千年の巨木が、まるで見えない巨大な手で放射状になぎ倒され、大地が巨大なすり鉢状に抉れたクレーターの中心。
そこに――それはあった。
泥と苔に半分ほど埋もれた、巨大な鉄の塊。
いや、鉄などという生易しい表現では足りない。
この剣と魔法のファンタジーの世界に、絶対に存在してはならない、圧倒的で暴力的な工業製品の極致。
分厚く冷たいオリーブドラブの装甲。空を睨む長大な砲塔。そして、大地を踏みしめる幾重もの転輪と鋼鉄のキャタピラ。
「ハハッ……」
俺は、あまりの異物感と懐かしさに、思わず乾いた笑いを漏らした。
「いや、シンプルに戦車やん」
「え……?」
ジークが、目を真ん丸にして俺と鉄の箱を交互に見比べる。
「これ……ただの鉄の箱じゃないの……? これが、絶対無敵の兵器……?」
この世界の住人からすれば、車輪のついた巨大な鉄の塊にしか見えないだろう。
「これがセンシャ。……あなたのその口ぶり、これを見たことがあるのですね?」
ギリーエが、俺の反応を逃さず、探るように眉を上げた。
「まぁな。俺のいた世界じゃ、戦争の主役の顔張ってた陸の王者でな」
俺は泥を払い、無骨な鋼鉄の側面にそっと手を当てた。
千年も放置されていたはずなのに、その装甲は一切の錆もなく、冷たく滑らかだった。かすかに、機械油と鉄の匂いがする。
「……開け方、だいたい分かる」
ライーオが一瞬、目を細めた。
「……やはりか。貴様は、異世界の知識を持っているのだな」
「そんな大げさなもんじゃない。ただの、うろ覚えの映画の知識だ」
俺は戦車の装甲をよじ登り、砲塔の上部にある車長用ハッチの縁に指先をかけた。
息を止め、全体重をかけて強固なロックレバーを引き回す。
ギギギギギギッ……!!
重く、ひどく鈍い金属音が鳴り響き、密封されていたハッチがゆっくりと開いた。
――その、瞬間だった。
ズゴォォォォォォォォォォンッ!!!!!
森が、物理的な咆哮を上げた。
音ではない。空間そのものが、巨大すぎる殺意と魔力の質量によって歪み、ひしゃげたのだ。
「っ……!!」
木々の奥。山の稜線だと思っていた巨大な黒い影が、ズズズ……と地震のような地響きを上げて動き出した。
それは、山ではなかった。
空を覆い尽くすほどの、八つの首を持つ超巨大な大蛇。
大気を震わせ、それぞれの巨大な眼窩に、狂ったような別の属性の光を宿してこちらを睥睨している。
周囲を焦がす炎の【赤】。
大気を凍らせる氷の【青】。
雲を呼ぶ雷の【紫】。
草木を腐らせる毒の【黒】。
空間を歪める時間の【白】。
因果を覗き込む未来視の【金】。
大地を沈める重力の【紺】。
そして――魂を侵食する精神の【緑】。
神王獣【ヤマタノオロチ】。
俺の脳が、生物としての理解を拒絶した。
あれは命ではない。動く災害。世界の終焉そのものだ。
「声を出すな!!」
恐怖でジークが悲鳴を上げるより早く、ライーオが鋭く低く告げた。彼の大弓はすでに限界まで引き絞られている。
「……来るぞ」
ヤマタノオロチの未来視を司る金色の瞳を持つ首が、巨大な眼球をギョロリと動かし、戦車の上で固まっている俺を真っ直ぐに睨み下ろした。
――そして。
神王獣は、ひどく困惑したように、その金色の瞳を瞬きさせたのだ。




