第29章:次なるアーティファクトと神王獣ー1
上空を切り裂く風が、薄く、鋭く、まるで削り立ての氷の刃のように俺の頬を削いでいく。
カエサル軍から特例で借り受けた高速飛竜の背。
眼下に広がる雲海を凄まじい速度で置き去りにしているというのに、俺の呼吸はひどく浅く、乱れていた。高度が上がって酸素が薄くなっているからではない。
胃の奥底に、溶けない冷たい鉛がドロドロと溜まっていくような、重く息苦しい錯覚。
俺の足元――飛竜の荷台には、粗末な布で厳重に何重にも包まれた、二つの小さな木箱が固定されている。
この中には、あの地獄と化した王都グリンデルで、命がけで戦って散ったエルフの姉弟、レーオとルーナの頭部が入っている。
共に戦った仲間を、俺はこんなに小さく、冷たい箱に押し込めて、彼らの故郷へと運んでいる。
「…………」
背後で、第五王子ジークは、アーティファクト・ヒナワの冷たい銃身を、自分の細い胸に食い込むほどきつく抱え込んだまま、一言も発さなかった。
いつもなら、「やっぱりお城に帰りたい」「飛竜怖い、落ちる落ちる!」と情けない泣き言をこぼしているはずの顔だ。
だが、今のジークの目は、空の彼方の虚空をただジッと見据え、唇から血が滲むほど真一文字に結んでいる。
彼の小さな、幼い肩には、もう決して弱音は許されないという、死者たちからの途方もない重圧がのしかかっていた。
その隣。
第二王子ギリーエは、いつもと全く変わらぬ様子で、背筋を真っ直ぐに伸ばして飛竜の鞍に座っていた。
彼には、ソーやカリナのような圧倒的な魔力はない。剣を振るう筋力も、分厚い防具もない。
だが、その細身の身体には、どれほど凄惨な血の嵐の中にあろうとも決してブレない、冷徹で底知れぬ王の器質だけが静かに纏われている。
「……シルアの森には、俺、一回行ってる」
風の轟音と、耐え難い沈黙に耐えきれず。
俺の口からポツリとこぼれ落ちたのは、言い訳にもならない、ひどく乾いた音だった。
「ええ。冒険者ギルドからの報告書で読んだのを覚えています。アーティファクト・ヒナワ回収の任務の折ですよね」
ギリーエが、視線を前方の空に向けたまま、ひどく柔らかく、抑揚のない声で頷いた。
「あなたが、エルフの長老の前で驚かれたという話も」
……そうだ。
あの時、数千年を生きるというシルアの長老は、初めて会うはずの俺を見て、一瞬だけ、ひどく懐かしいものを見る目をした。
完全に俺の存在を知っているような、そして、俺がここに来ることを待ちわびていたような、そんな目だった。
だが。
今回の訪問は、そんな甘い感傷の旅じゃない。
俺たちは、一族や遺族に彼らの死を直接報告し、守れなかったことを謝罪し、この冷たい亡骸を返還する。
そして――それと同時に、魔族を滅ぼすための、エルフの里に眠るアーティファクトの情報を要求しなければならないのだ。
娘と息子を理不尽に失ったばかりの、悲しみに暮れる遺族の傷口を、さらに土足で踏みにじり、都合よく抉り回す。
(……自分本位で、タチが悪い。最悪のクソ外交だ)
俺が自己嫌悪で奥歯を噛み砕きそうになっていると。
「見えましたね」
ギリーエの静かな言葉に、俺は弾かれたように視線を下げた。
分厚い雲海が途切れ、地平の果てまで広がる、深い深いエメラルドグリーンの木々の海が姿を現した。
鏡のように静かで、恐ろしいほど透明な湖面。周囲の山々ごと、数千年の時間を丸ごと封じ込めたような、外界とは完全に切り離された絶対の静寂。
エルフの国、【シルアの聖域】。
「……降ります。しっかり捕まっていてください」
ギリーエが手綱を引き、飛竜が巨大な翼をすぼめて、森の外縁に広がる美しい白亜の広場へと急降下を開始した。
ズスンッ。
飛竜の太い脚が、広場の石畳に静かに着地した。
その、瞬間だった。
――バサッ!
音もなく。
本当に、風が森の葉を微かに揺らす程度の音すら立てずに。
周囲の巨木々の隙間、茂みの奥、そして上空の枝葉の間から、淡い翠色の装束を身に纏った数十人のエルフの弓兵たちが、幽鬼のように姿を現し、俺たちを完全な円陣で包囲した。
チャキッ。
一切の乱れのない動きで、先端に強烈な魔力を帯びた白銀の矢の穂先が、一斉に俺たちの喉元や心臓へと向けられる。
殺気は、ない。
彼らは一流の戦士ゆえに、感情で殺気を漏らすような三流の真似はしない。
ただ、その透き通るような美しい瞳の奥にあるのは、穢れた外界から森を侵しに来た人間という種族に対する、拒絶だった。
(……速ぇ。飛竜の降下速度に合わせて、照準できるように既に包囲陣を敷いてやがったのか)
俺は額に冷や汗を流し、無意識のうちに腰の魔剣ムラマサの柄に手をかけようとした。
「――待つんだ」
俺が剣に触れるより早く。
ギリーエが、スッと一歩、俺の前に出た。
武器も持たず、防具すら着けていない無防備な細身の青年が、数十本の魔弓の切っ先の前に、文字通り身一つで立ち塞がったのだ。
「っ……!?」
エルフの弓兵たちの瞳が、その王族の常軌を逸した行動に僅かに揺らぐ。
ギリーエの声は、決して張り上げてはいない。
恫喝もしていない。
だが、その声は、分厚い森の奥深くまで浸透していくような、極めて特殊で奇妙な通り方をした。
「シルアの誉れ高き戦士の皆様。突如の訪問、ご容赦願いたい。
私は、ウルシア王国第二王子、ギリーエ・ウルシアと申します」
ギリーエは、自身の胸に手を当て、完璧な所作で一礼した。
「本日は――謝罪と、尊き魂の返還のため、罷り越しました。我々に、剣を抜く意志は一切ありません」
シンッ、と。
森の空気が、凍りついた。
言葉の形、敬意の示し方、イントネーション、そして王族としての隙のない立ち振る舞いが完璧なだけじゃない。
そこには、絶対に嘘を吐かない、決して裏切らないという、自らの命を天秤に懸けた真摯な熱があった。
武器を持たず、しかし誰よりも強く、誰よりも重い言葉の刃。
一国の王子が、わざわざ最前線で命を懸けて頭を下げているという圧倒的な事実が、エルフたちの警戒心を根底から揺さぶったのだ。
弓兵のリーダー格である長身のエルフが、静かに槍を下ろし、ギリーエを見据えた。
「……王族自らが、わざわざこんな人里離れた土地に? ……人間とは、我らが思う以上に奇妙な生き物のようだな」
「ええ。我々人間は、不器用で、時に愚かです。ですが……受けた恩と、共に戦った誇りだけは、決して忘れません」
ギリーエは、伏せていた顔を上げ、リーダーの目を真っ直ぐに射抜いた。
「この命に代えても、彼らを故郷の土へとお返しする。それが、生き残った我々の最低限の義務です」
エルフのリーダーは、しばらくギリーエの瞳の奥を探るように沈黙し……俺たちが来た理由を察し、やがて、短く息を吐いて周囲の兵たちに合図を送った。
スッ……と、俺たちに向けられていた数十本の矢が一斉に引かれ、エルフ兵たちが左右に分かれて、森の奥へと続く一本の獣道を開いた。
「……長老の館へ案内する。ついてこい、人の王子よ」
「感謝いたします」
王城で燻っていた、外交の天才。
その名が伊達ではないと。彼が戦えない弱者などではなく、誰よりも恐ろしい盤面の支配者であることが、このたった一瞬の空気の制圧で完全に証明されたのだ。
「……すげぇな、お前」
俺が背後でボソリと呟くと、ギリーエは振り返らずに、口元だけで微かに微笑んだ。
「言葉は、時として剣よりも深く敵の心臓を貫きます。……さあ、行きましょう。我々の、重すぎる責務を果たしに」
俺は、飛竜の荷台から二つの木箱を慎重に下ろし、両腕にしっかりと抱え直した。
美しくも冷酷なエルフたちの視線に晒されながら。
俺たちは、数千年の時間が積もる聖域の奥深く――長老の待つ館へと、重い足取りを進めていった。
森の奥深く。大樹の根を編み込んで作られた、エルフの国の心臓部――神聖なる長老の館。
天井の葉の隙間から、まるで光の粒子が絶え間なく降り注ぐような、現実離れした神秘的な空間。
その最奥の玉座で、数千年の時間をそのまま飲み込んだような深い瞳が、静かに俺たちを見据えていた。
シルアの長老だ。
俺の顔を見た瞬間、彼女の顔に、またあの一瞬のひどく懐かしむような色が浮かびかけた。
だが、俺の腕に抱えられた二つの木箱と、そこに染み付いた死の匂いを察知した途端。彼女はすぐにその感情を厳格な鉄面皮で完全に上書きし、絶対零度の声で言い放った。
「……また来たか、人の子よ。それも、よからぬ土産を持って」
俺は、無言で前へ進み出た。
そして、ルーナとレーオの遺体が入った二つの木箱を、冷たい大理石の床に、音を立てないように静かに置いた。
膝を折り、そのまま、己の額を、冷たい石の床にガンッ!と力強く擦り付けた。
「……二人を、守れなかった」
床に顔を押し付けたまま、喉の奥から絞り出した声は、自分でも引くほどに掠れ、震えていた。
「俺は、あいつらに救われた。あいつらの優しさに、命を繋いでもらった。なのに……」
脳裏に、ワーズがレーオとルーナを弄んだ瞬間の絶望がフラッシュバックする。
「……俺の力が足りないばかりに。俺の、見通しが甘かったばかりに……二人を、死なせてしまった……ッ!」
喉が詰まる。ギリッと奥歯を噛みしめ、血の味が口内に広がる。
死者に対する謝罪の言葉なんて、どれだけ美しく並べ立てたところで、結局は生き残った者のただの自己満足だ。
俺がここで百回土下座をして頭を割ろうが、死んだ二人の命は永遠に戻らない。
そんなことは分かっている。分かっていても、このどうしようもない罪悪感を、遺族の足元に泥のように吐き出すことしかできないのだ。
俺の隣で、ギリーエが静かに、だが深く膝をつき、完璧な礼をとった。
「ルーナ殿、レーオ殿の御父君と御母君、そしてシルアのすべての民へ。……ウルシア王国を代表し、深く、深くお詫び申し上げます」
ギリーエの声は、王族の威厳を保ちながらも、確かな悲痛な熱を帯びていた。
「同時に――彼らが世界の絶望を食い止めるために最後まで戦い抜き、その尊き命を賭して我々に未来を繋いでくれたことに、我がウルシアは永劫の敬意と感謝を捧げます」
ジークも、床に両手をつき、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら震える声で続いた。
「ぼ、僕も……っ。あの二人がいなければ……! ごめんなさい……二人を返せなくて……本当に、ごめんなさい……っ!」
長老は、無言のまま、床に置かれた二つの箱をじっと見つめていた。
その皺の刻まれた顔から、感情は一切読み取れない。
ただ、数千年の重みを持つ、長く、深い息が、静かな館にフゥッと吐き出された。
「……返還と謝罪、確かに受け取ろう」
長老の合図で、側近のエルフたちが音もなく進み出た。
彼らは、俺が床に置いた二つの箱を、まるで壊れ物を扱うように恭しく抱え上げ、奥の部屋へと運び去っていく。
部屋の中に、氷のような冷たい空白が落ちた。
本来なら、ここで立ち去るのが人間としての最低限の礼儀だ。
だが、俺は自らの手で、その空白を乱暴に切り裂かなければならない。生き残った者の、呪われた責務として。
「……長老。すまないが、もう一つ、聞きたいことがある」
俺が額を床から離し、顔を上げた瞬間。
部屋の空気が、物理的に凍りついた。
長老の目が、まるで罪人を射抜く刃のように鋭く細められる。
「このシルアが所有しているという、アーティファクトの情報が欲しい」
――ピキィッ……!
周囲の護衛のエルフたちの手から、明確な殺気が膨れ上がった。
「……欲しい、か」
長老の声には、今度こそ明確な軽蔑と嫌悪が混じっていた。
「相変わらず、己の業に恐ろしいほど正直な男だな。同胞の遺体を返しに来たその口で、涙も乾かぬうちに、次は力を寄越せと要求する。……貴様ら人間という種族のその底知れぬ強欲さには、反吐が出るわ」
最悪の要求だ。俺自身、自分がどれほど人間のクズの振る舞いをしているか、痛いほど理解している。
ギリーエが、俺の隣で顔を上げ、冷静に言葉の盾を展開する。
「ご無礼は百も承知の上です。我々を外道と罵っていただいて構いません。……ですが、魔族は国を壊し、命を弄びました。次の絶望を止めるために、我々にはどうしても守るための力が必要なのです。このままでは、シルアの森もいずれ魔族の業火に焼かれる」
長老はしばらくの間、氷のような沈黙を保ち。
やがて、疲れたようにぽつりと答えた。
「……その話は、わしではない」
長老の視線が、館の外――森のさらに深く、光の届かない奥底の方角を指し示した。
「ライーオに聞くがいい。……ルーナとレーオの、父にな」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の背筋に、太い氷の杭を直接ねじ込まれたような強烈な悪寒が走った。




