第28章:哀歓の帰還ー1
空から降る黒い細かな瓦礫が、まるで季節外れの雪のように、焼け焦げた王都の石畳を薄化粧していく。
勝った。
戦局というマクロな視点で見れば、俺たちは魔族の下位貴族ワーズを討ち取り、世界を救う鍵である『聖剣エクス』と『聖剣ソラス』の二振りを無事に奪還した。
このイーリス大陸の歴史の教科書に、特大の文字で刻まれるであろう大勝利だ。
それでも――。
飛竜の待つ外壁へと向かって瓦礫の間を歩く俺たちの間に、歓喜の空気など一ミリたりとも存在していなかった。
眼前に広がるグリンデル王都は、すでに都市と呼べる代物ではない。
魔族という純粋な悪意が、ただ人間の心をへし折ることだけを目的に蹂躙し、叩き潰し、焼き尽くした残骸の巨大な寄せ集め。
国としての機能も、歴史も、人々の誇りも。そのすべてが、二度と元には戻らない完全な終わりを迎えていた。
俺の腕の中には、粗末な布で何重にも厳重に包まれた、二つの小さな木箱があった。
その中身は。
つい先日まで、俺たちと共に笑い、共に飯を食い、背中を預け合ったエルフの双子の姉弟――ルーナとレーオの、頭部だ。
ワーズの悪趣味な精神攻撃のために弄ばれ、泥に塗れていた彼らの顔を、俺たちは水で洗い、目を閉じさせた。
驚くほどに、軽い。
だが、この二つの箱は、俺の腕の骨をへし折らんばかりに、絶望的に重かった。
「……クソがっ」
ガキィッ!!
静寂を破り、竜騎士レイズが足元の瓦礫を力任せに蹴り飛ばした。
石の破片が弾け飛び、崩れかけた壁に突き刺さる。
「……クソッ……クソがァッ……!! なんだってんだよ、このザマは……!!」
普段はカリナの尻を追いかけるナンパな男が、今は火竜の異名そのままに、やり場のない怒りで獣のように牙を剥き出しにしている。
彼の大剣には、魔族を斬り伏せたどす黒い血がべっとりとこびりついたままだ。
「落ち着け、レイズ。……叫んでも、死者は戻らない」
その隣で、氷竜の異名を持つミストが、冷たく、だがひどく震える声で窘めた。
彼女は愛用の白銀の槍を杖代わりに地に突き立て、目を閉じ、天へ向かって静かに祈りを捧げていた。
だが、その整った横顔は、張り詰めた氷のように青白く……祈りというよりも、今にも爆発しそうな殺意を無理やり冷却しているようだった。
「分かってんだよ……ッ! 分かってるけどよォ……ッ!」
レイズが、自身の赤い髪を乱暴に掻きむしる。
「俺たちがもう少し早く着いてりゃ……俺がもっと上手く立ち回ってりゃ……アイツら、死なずに済んだんじゃねぇのかよ……ッ!」
その自責の言葉は、レイズ自身に向けられたものでありながら、ここにいる全員の心臓を鋭く抉った。
「……っ、うぅ……っ……ヒグッ……」
俺の斜め後ろで、小柄なウルシア第五王子ジークが、アーティファクト・ヒナワを両腕で押し潰さんばかりに抱きしめながら、漏れ出す嗚咽を必死に噛み殺していた。
ヒナワでの超遠距離狙撃という神業でワーズの息の根を止めた最大の功労者。だが、彼の幼い心は、目の前で散っていった命の重さに耐えきれず、小刻みに揺れ続けている。
そして。
第四王子であるソーは、一言も発しなかった。
凛とした金髪の聖魔の王子は、ただジッと、灰の降る虚空を見つめている。
だが、俺には分かっていた。
彼の中で今、猛烈な善と悪の殺し合いが起きていることが。
(……許サネェ……全テノ魔族ヲ、クソミンチニシテヤル……!)
ソーの内側から、世界そのものを呪うような悪のソーのどす黒い殺意が間欠泉のように噴き出そうとしている。
それを、善のソーが、己の精神をすり減らして必死に押さえ込んでいるのだ。
彼の両手に握られた拳は、指の骨が白く透け、爪が革手袋を突き破って血が滲むほどの異常な力が込められていた。
仲間を愛する優しき王子。だからこそ、その優しさが今は彼自身をズタズタに引き裂く凶器となっている。
王城の外壁。
俺たちを迎えに来た飛竜たちが、主の痛みを悟ったように、悲しげな鳴き声を上げて身をかがめた。
飛び立つ直前、俺は飛竜の鞍に手をかけたまま、一度だけ振り返った。
崩壊した王城の中心に、ぽっかりと空いた巨大な風穴、ワーズの理不尽な空間切断と、俺たちの死闘が刻み込んだ、物理的な爪痕。
――ここで、ルーナは死んだ。
――ここで、レーオも死んだ。
胸の奥底を、遅効性の猛毒のように、ドロドロとした痛みが焼き焦がしていく。
(……俺に力が、もっとあれば)
俺は、血の滲んだ自分の手のひらを見つめた。
(俺に魔力と闘力があって……武装化した神獣の能力を、最初から100パーセント引き出せていれば……)
そんなどうにもならない後悔が脳裏をよぎった、その瞬間だった。
『――相棒。アタシたちの前で、自分を卑下するようなこと言ったら、本気で怒るよ』
胸元のペンダントから、ラナの凛とした声が直接脳内に響いた。
その声は、泣きそうなほど震えていたが……同時に、絶対的な芯の強さを持っていた。
『あんたは魔力ゼロのからっぽだよ。でも、だからこそアタシの力を純度100パーセントで受け入れて、ワーズをブチ殺したんじゃない。……ルーナもレーオも、あんたが自分を責めることなんか、絶対に望んでない』
(……ラナ)
『悲しいなら、泣けばいい。ムカつくなら、叫べばいい。……でも、後悔だけは絶対にしないで。あんたは、誰よりも前で命を張ったんだから』
彼女もまた、理不尽な裏切りによって命を奪われた被害者だ。
だからこそ、この静かな怒りの温度と、死者を背負って生き残る者の重圧を、誰よりも深く理解している。
「……あぁ、そうだな。ごめん、相棒」
俺の口から落ちた声は、自分でも驚くほど低く、ひどく乾いていた。
俺は、抱えていた二つの木箱を、飛竜の荷台にしっかりと、大切に固定した。
そして、己の顔を一度両手で強く叩き、全員に向かって静かに告げた。
「……帰ろう」
誰も反対しない。
レイズも、ミストも、ジークも、ソーも、シンも。無言のまま、それぞれの飛竜の背へと跨った。
バサァァァッ……!!
飛竜が巨大な翼を打ち据え、灰の降る死の都を背にして、鈍色の空へと舞い上がった。
眼下で、かつて美しかったであろうグリンデル王都が、ミニチュアのように小さくなっていく。
この国は、終わった。
だが――終わらせたままには、絶対にしない。
必ず、この絶望をバラ撒く魔族どもを、一匹残らずこの世から消し去り、代償を支払わせる。
そのドス黒く、マグマのように煮えたぎる想いだけが、生き残った俺たち全員の背骨を、太く、鋭く貫いていた。
ウルシア王国への帰還は、凱旋というにはあまりにも重く、まるで葬列のように静まり返っていた。
本来ならば、魔王軍の下位貴族討伐と、失われた【聖剣エクス】および【聖剣ソラス】の二振りの奪還は、歴史の教科書に太字で刻まれ、国を挙げて三日三晩の祝宴が開かれるほどの特大の戦果である。
王都のメインストリートには、英雄たちの帰還を祝おうと、無数の民衆が花吹雪を握りしめて詰めかけていた。
だが。
城門をくぐり、大通りに姿を現した俺たちの姿を見た瞬間――。
歓声を上げようと大きく開かれた民衆たちの口から、声という声が完全に消滅した。
この世の全ての不幸を背負ったような表情。
飛竜の荷台に括り付けられた、不自然に小さな二つの木箱。
そして何より、俺たち全員の全身から立ち上る、戦場の最底辺を這いずり回ってきた者特有の……あまりにも冷たく、重く、どす黒い死のプレッシャー。
「あ……」
「嘘、だろ……? 勝ったんじゃ、ないのか……?」
民衆たちは静かに息を呑み、何かのバケモノに怯えるように、モーセの十戒のごとく後退りして道を空けた。
握りしめていた祝いの花吹雪が、力なく石畳へとポロポロと落ちていく。
その花を踏み躙りながら、俺たちはただ無言で、王城へと歩を進めた。
◆
王城の最奥の重厚な彫刻が施された大扉が開かれ、俺たちは謁見の間へと足を踏み入れた。
玉座の前には、ウルシア王――かつて戦王と畏怖されたエルムンド・ウルシア三世が、巨大な獅子のように威圧的に座している。
その両脇には、国の運営を担う恰幅の良い文官たち、騎士団の幹部、そして冒険者ギルドの上層部がズラリと顔を揃えていた。
玉座の前まで進み出た俺たちは――誰一人として、片膝をついて跪くことはなかった。
「……貴様ら、王の御前であるぞ! 頭が高いッ!」
空気を読めない文官の一人が、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる。
だが、俺たちは微動だにしなかった。
それは、王に対する無礼や反逆ではない。
凄惨な死地を生き抜き、理不尽に殺された仲間の死を背負って帰還した者としての矜持。
安全な王宮の絨毯の上でぬくぬくと生きている連中になど、絶対に自分たちの誇りを見下ろさせるわけにはいかないという、無言の拒絶だった。
「――よい。黙れ」
エルムンド王の、腹の底のマグマを揺らすような低い声が、謁見の間を震わせた。
王の眼光は、俺たちの血塗れの姿と、纏う尋常ならざる死の気配を瞬時に値踏みし、すべてを察したように静かに顎を引いた。
「……死地であったようだな。報告を」
報告の矢面に立ったのは、第四王子であるソーだった。
彼は一歩前へ出ると、淡々と、正確に、己の感情というノイズを完璧に削ぎ落とした氷のように冷たい声で語り始めた。
グリンデル王都への魔族の襲来、付近の村の惨状。
想定外の事態を何度も起こした、変身能力を持つワーズ。
下位貴族ワーズがもたらした、理不尽な蹂躙と残虐極まりない精神攻撃。
そこからの死闘。そして、聖剣エクスとソラスの回収。
八咫烏のカラスとの邂逅
ソーの口から語られる魔族の規格外の能力と、虫を潰すような虐殺の事実に、先ほどまで偉そうにしていた文官たちは次々と顔色を失い、滝のような冷や汗を流し始めた。
だが。
ソーの報告の最後の一言が、謁見の間の空気を完全に、そして決定的に凍りつかせた。
「――以上を持ちまして。同盟国であるグリンデル王国は、事実上崩壊しました」
ざわり、と。
謁見の間が、恐怖と動揺で激しく揺れた。
「王都は壊滅。生存者はごく僅か。王城のみならず大地すら広範囲に焼き尽くされており……国としての再建は、不可能と判断します」
大国が、ただの一度の襲撃で、地図から完全に消滅した。
その圧倒的な事実の重さに、重臣たちは言葉を失い、ガチガチと歯を鳴らして震え上がった。
エルムンド王は、しばらく何も言わなかった。
深く刻まれたシワの奥で、その鋭い眼光がゆっくりと伏せられる。
「……そうか」
短く、重い一言。その背中に、また一つ消えた国の重圧がのしかかる。
「父上」
ソーが、さらに一歩、玉座へと近づいた。
その声には、王族としての体面や周囲の目すら捨て去った、一切の躊躇がない。
「この戦いは、もはや我々ウルシアやカエサルという一国単位で抱えられる次元の事態ではありません。奴ら魔族は、国や領土を奪うのではなく……命を壊すことそのものを娯楽として楽しんでいる」
ソーの腰に下げられた二振りの剣――聖剣ラナと魔剣オボロが、主の静かな怒りに呼応するように、微かに、だが鋭い共鳴音を立てた。
「次は、必ず別の国が狙われます。奴らは、絶望の種を世界中にばら撒くために動く。だからこそ――」
ソーは、顔を上げ、謁見の間全体に響き渡る通る声で、とんでもない爆弾を投げ落とした。




