第27章:聖剣エクスと聖剣ソラス
そして、崩れた書庫は、まるで墓場だった。
知識の集積地であったはずの巨大な書庫は、文字通り巨大な墓標へと成り果てていた。
壁は半分以上が原型を留めずに崩落し、天井からは外の空が覗いている。
床一面を覆い尽くしているのは、焼け焦げた羊皮紙の残骸、粉々に砕け散った歴史ある書架、そして、原形を留めないほど高熱でドロドロに溶け落ちた魔導具のスクラップ。
空気に混じるのは、紙が焦げた匂いと、濃密すぎるほどの血と鉄の匂い。
ここは、かつて世界を守るための英知を蓄えた場所。
そして最後は――その英知と命を対価にして、人類の希望を死守するための、凄惨な防衛陣地となった痕跡だけが色濃く残されていた。
ザッ、と灰を踏みしめ、俺たちはその中心へと歩を進めた。
「……こいつは、ひでぇな」
レイズが、忌々しげに舌打ちをして周囲を睨みつける。
だが、俺たちの視線はすぐに、その不釣り合いすぎる光景へと釘付けになった。
完全に壊滅し、灰と瓦礫に沈んだ書庫の中心。
そこだけが、まるで神がコンパスで線を引いたかのように、直径数メートルの完全な円形空間として無傷のまま切り取られていた。
一歩近づくだけで分かる。空気が、違う。
その円形空間の周囲だけ、大気中の魔力密度が狂ったように跳ね上がっている。肌をビリビリと刺すようなプレッシャー。
そして――触れなくとも、魂で理解できる。
(……この空間に染み付いているのは、ただの魔法じゃない。意志だ)
命に代えてでも、絶対に守り抜く。
そんな凄まじいまでの情念が、空間そのものに分厚く塗り込められていた。
その結界の最奥。
円形空間の中心には、二振りの剣が、不可視の台座に置かれたように静かに宙に浮かび、鎮座していた。
――聖剣エクス。
――聖剣ソラス。
周囲がこれほどまでに破壊し尽くされているというのに、その白銀の剣身には、一切の傷も、埃ひとつすら付着していない。
まるで、ほんの数秒前まで、誰かがその剣の傍で祈り続けていたかのような、神聖で、残酷なまでの美しさを保っていた。
その聖剣を包み込むように展開されているのは、幾何学模様が複雑に絡み合った、幾重にも重なる多重結界陣。
「……なるほどな」
レイズが、低く息を吐きながら、目に見えない結界の壁を指でなぞるように見つめた。
「周りがこれだけ派手にぶっ壊されてるのに、あの二振りの聖剣だけが無事だった理由は、これか」
レイズの隣で、ミストは一歩も前へ踏み出そうとしなかった。
いや、踏み出せないのだ。
常に冷静沈着な竜騎士であるはずの彼女の顔から、スッと血の気が引いていた。
「……なんという、結界だ」
ミストの声が、微かに震えている。
「ただの結界じゃない。術式そのものに、人間の生命力が直接編み込まれている。何人もの高名な僧侶や魔法使いが…… 命と引き換えにして、ようやく発動できる代物だ」
その言葉に、場が静まり返った。
命と引き換えの結界。だからこそ、どれほどの暴力にも耐え抜き、この聖剣を守り通したのだ。
「命と引き換えに発動する禁術……ねぇ」
シンが、自身の髪を掻き上げながら肩をすくめた。
言葉の響きこそいつものように軽かったが、その鋭い海色の瞳には、一切の冗談が含まれていなかった。ただ、凄絶な覚悟で散っていった者たちへの、静かな敬意だけが宿っている。
ソーは、結界の奥で眠る聖剣を、面白くもなさそうに、だがどこか真剣な眼差しで見つめていた。
「……グリンデルのヤツらは」
ソーが、ゆっくりと、噛み締めるように言った。
「文字通り、クソ命懸けで敵から聖剣を奪い返し、そして……クソ命懸けで、守り抜いて死んだってわけか。クソ正直で、クソ不器用な連中だ」
口は悪いが、その言葉の裏にある重みを、その場にいた全員が理解していた。
グリンデルの勇者達が最後に残した希望が、今、俺たちの目の前にあるこの二振りなのだ。
「……っ、う……」
不意に、隣から小さな嗚咽が漏れた。
見ると、ジークが、両手の拳を白くなるほど強く握り締め、うつむいて肩を震わせていた。
「あんな、絶望の中で……。誰一人、助けに来ない中で……っ。最後まで……っ、諦めずに……っ」
ジークの唇が震え、そこから先は言葉にならなかった。
ポタッ、ポタッ、と、石畳に涙が落ちる。
それは恐怖から来る嗚咽ではない。声を殺して耐える、若き王子の、どうしようもない悔しさと、死んでいった英雄たちへの痛切な敬意、そして、間に合わなかった自分たちの無力感が入り混じった涙だった。
俺は、無言のまま一歩前に出た。
そして、ジークの肩にポンと手を置き、静かに、だがはっきりと告げた。
「泣くな、ジーク」
「……っ、でも……」
「俺たちは、俺たちにできることをやった。結果として間に合わなかったとしても、後悔で涙を流すのは、あいつらに対する冒涜だ」
俺は、結界の奥で輝く二振りの聖剣を真っ直ぐに見据えた。
「胸を張れ、とまでは言わない。……ただ、祈るんだ」
「祈る……?」
ジークが、涙で濡れた顔を上げる。
「ああ。彼らが己の命をとして守り抜いたこの剣で、これから先……俺たちが、誰かの命を守れるように」
それは、英雄たちの死を無駄にしないための、俺なりの不器用な手向けだった。
俺の言葉に、ジークは強く唇を噛み締め、両手で乱暴に涙を拭って、深く頷いた。
『……ふふっ。 いいこと言うね、珍しく』
胸元のペンダントの中から、ラナの温かい声が頭の中に響いた。
(珍しくは余計だ)
俺が内心で毒づくと、張り詰めていた俺の中の空気が、ほんの少しだけ和らぐのを感じた。
だが、現実はまだ目の前に横たわっている。
英雄たちの想いを受け継ぐためには、この『絶対不可侵の結界』を突破しなければならないのだ。
「……さて。お涙頂戴の時間は終わりだ」
ソーが、首の骨をゴキリと鳴らして口を開いた。
「とりあえず、目の前のこのクソ面倒くせぇ封印をどうにかしないと、お前らのクソ綺麗な決意もただの絵に描いた餅だぜ」
「力技でいくか」
レイズが、獰猛な悪い笑みを浮かべて両手の拳を打ち鳴らす。
「いったん、俺の全力で外からぶっ壊してみるか?」
「やめておけ。魔力密度の次元が違う」
ミストが即座に、レイズの提案を切り捨てた。
「この多重結界は、外部からの物理的・魔力的な衝撃を完全に反射するよう組み上げられている。
……もし、これを力技だけで壊せたら、お前は『竜王』を名乗れるよ」
(……竜王ウォールなら、このデタラメな結界も壊せちまうってことか)
『……っていうことだよね、相棒』
俺は、剣を師事した、竜王ウォールの規格外の圧倒的力を思い出し、脳内で同時にブルッと身震いした。
「チッ……なら、手品を使うしかねぇな」
ソーが、肩をグルグルと回しながら一歩前へ出た。その手には、禍々しい紫黒のオーラを放つ魔剣オボロが握られている。
「おい、クソ大将。念のため、ムラマサ抜いとけ」
ソーが、俺の方を振り返りもしないで言った。
「おお、なんでだ?」
俺が問い返すと、ソーは魔剣オボロの切っ先を結界へと向けた。
「この魔剣オボロの能力で、結界の次元ごとスッパリ切り裂いてみる。
だが、こんだけクソ高密度の魔力が圧縮されてるんだ。次元を割った瞬間に、何が起こるか分からねぇ」
俺は、その言葉の意味を瞬時に理解した。
「……なるほどな。万が一、次元の反動で大爆発でも起きた時のための保険か」
俺は、迷うことなく腰の魔剣ムラマサの柄に手をかけた。
チャキッ、と鯉口を切る。
十秒後、抜刀完了。いつでも、五秒の世界を巻き戻せる準備が整った。
「よし。いつでもいいぞ、やれ」
俺の合図と共に。
ソーが、結界のド真ん中へと鋭く踏み込んだ。
「――朧斬ッ!!」
ブゥンッ!
紫黒の刃が虚空を薙ぎ、魔剣オボロの次元を断ち切る太刀筋が結界の壁面へと接触した、まさにその瞬間だった。
カァァァァァァァァァンッ!!!!!
鼓膜を直接針で刺されたような、高音の金属反発音が崩壊した書庫に鳴り響く。
弾かれた。
いや、そんな生易しい生ぬるい現象ではない。魔剣オボロが次元ごと切り裂こうとしたその空間の歪みそのものが、結界の放った圧倒的な神聖な魔力の質量によって、真っ向から物理的に粉砕されたのだ。
次元を裂くはずの黒い斬撃が、行き場を失って四方八方へと爆散する。
オボロの魔力と結界の拒絶反応が混ざり合い、強烈なショック波となって周囲の空間をバキバキとひび割れさせていく。
大気が悲鳴を上げ、このままでは一瞬にして書庫の残骸ごと俺たちの身体が塵に変わる――。
「やべぇ!!」
脳髄が弾き出した結論に、俺の身体は完全に反射で動いていた。
手にしたムラマサを力強く握り、その漆黒の刃を閃かせる。
「戻れ!!!!!」
――【時間逆行】。
五秒。
世界からすべての色彩が消え去り、濁流のような逆再生のノイズが視界を駆け巡る。爆散した黒い斬撃がオボロの刃へと吸い込まれ、崩れかけた瓦礫が元の位置へと浮き上がり、時間が巻き戻る。
ハッと息を呑んだ時には、世界に色が戻っていた。
ソーは、まだ魔剣オボロの柄を握り、まさに今から結界を切り裂こうと一歩を踏み出す寸前の姿勢のまま静止している。
その直前、ソーの正面へと、俺は弾丸のような速度で割り込み、魔剣ムラマサを鞘へと収めた。
「そこまでだ。ムラマサを使った。あとは、察しろ」
俺が肩で息をしながら短く告げると、ソーは一瞬だけ目を見開き、それからすべてを理解したようにチッと忌々しげに舌打ちをしてオボロを引いた。
「……なるほどな。そういうことか」
ソーは冷や汗の流れる額を乱暴に拭い、結界を睨みつける。
「次元ごと切り裂いて無理やりこじ開けようとしても、その因果ごと押し潰されるってわけだ。無駄骨どころか、まともに喰らってりゃあ全員消し飛ぶな」
シンが腕を組み、低く唸るように言った。
「次元を裂く刃すら無効化する結界なんて、お目にかかったこともねぇ。……詰み、か」
誰もがその異常な理不尽さに息を呑み、再び不穏な沈黙が書庫を支配しようとした、その時だった。
「――困りごとかな?」
サラリと、まるで背後から親しい友人にでも話しかけられたかのような、極めて自然で、緊張感の一切ない柔らかな声が響いた。
「「「ッ!?」」」
心臓が凍りつくような戦慄が駆け抜ける。
全員が一斉に地を蹴り、背後へと跳躍しながら即座に完全な臨戦態勢へと移行した。
ジークがヒナワを構え、ミストが槍の穂先を向け、ソーが再び魔剣オボロの殺気を滾らせ、聖剣ラナを抜く。
おかしい。気配が、全く無かった。
殺気も、魔力の揺らぎも、足音すらも。
だが――そこにただ佇んでいるというだけで、皮膚がピリピリと裂けそうになるほどの、圧倒的な格の違いだけが、その空間を不気味に支配していた。
崩れた壁のすぐ傍。いつからそこにいたのか、影のように佇んでいたのは、全身を闇に溶けるような黒装束で包んだ一人の男だった。
シンだけが、その海色の瞳を極限まで細め、低く地の底から響くような声で呟いた。
「……お前か」
シンの声には、明確な敵意と、それ以上の警戒が混じっていた。
「グリンデルの王都に入った時からだ。
どこか遠くで、ずっと俺たちの動きを品定めするように見てやがった奴がいると思ってたが……」
黒装束の男は、クスクスと口角を上げた。
「ほう。気づいていたか。さすがは海神のシン。気配を消している私を気取るとはな。海神と呼ばれるわけだ」
俺は魔剣ムラマサの柄に手をかけたまま、一歩前に出て男を鋭く睨みつけた。
「……てめぇ、何者だ。この状況にノックもなしに割って入ってくるなんて、いい度胸してるぜ」
男は、大仰に両手を広げてみせた。その動作一つ一つに、一切の隙がない。
「自己紹介が遅れた」
男の目が、妖しく光る。
「私は――八咫烏。名を、カラスという」
カラス。
その名が放たれた瞬間、大広間の空気が完全に凍りついた。
ソーが、フンと鼻で笑って魔剣の切っ先をカラスへと向けた。
「へぇ……。わざわざ敵の大将首が、クソ丁寧にも単身で挨拶回りに来てくれたってわけか。
だったら話がクソ早ぇ。ここでその烏の羽を一枚残らず毟り取って、クソ肉塊にしてやるよ」
凄まじい殺意の波動がソーから放たれるが、カラスは小さく首を横に振るだけだった。
「勘違いするな、聖魔の王子よ。私は君たちと戦いに来たのではない」
カラスは淡々と、まるで事務的な報告をするかのような口調で言葉を継いだ。
「魔王軍と戦い。心身ともに疲弊した君たちと、万全である今の私。
……ここで戦えば、無傷では済まないだろう? 私は無駄な命の削り合いは好まないのだよ」
レイズが、獣のような鋭い犬歯を剥き出しにしてカラスを睨みつける。
「戦う気がないなら、なおさら何の用だ。ここは俺たちの戦利品だ。コソ泥みたいに横から掠め取りに来たなら、タダじゃ返さねぇぞ」
「掠め取る? まさか。もう私たちはそこまで飢えてはいない」
「私たちはすでに――【魔剣オニマル】、および【魔剣ムネチカ】の二振りを所有している。」
場が、二度目の凍結を起こした。
世界に四本しか存在しない魔剣。そのうちの二本を、この男はすでに手中に収めているという最悪の事実。
カラスの冷徹な視線が、ゆっくりと移動し、最後に真っ直ぐ俺の顔へと注がれた。
「……そして、君だ。転移者よ」
「なんだ」
カラスは、俺の指に嵌る2つの神獣の指輪を一瞬だけ見つめ、それから意味深な間を置いて、静かに、だが鋭く問いかけてきた。
「君が、コラキを倒した武装化の能力者……。問いたい。君は何のために戦っている? なぜ、そこまでしてウルシアという国のために命を張る?」
カラスの問いは、崩壊した書庫の静寂をさらに深く鋭く切り裂いた。
俺は、言葉に詰まった。
何のために戦っているか、だと?
そんな高尚な目的、最初からありはしない。
俺はただ、理不尽にこの世界へ叩き落とされ、良くしてくれた人たちを、目の前でただ死なせたくなくて、必死に自分のできることをしただけだ。
国を救う英雄になりたいわけでも、ウルシアという国家に忠誠を誓っているわけでもない。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、微かに満足そうな、そしてどこか哀れむような笑みを浮かべた。
「……フッ、やはりな。君の目には、盲信的な騎士どものような愚かな忠義の光はない。ただ、己の意志で境界線に立ち続ける者の孤高の光がある。……まあいい。今は答えを急ぐ必要はないさ」
カラスはゆっくりと踵を返し、闇に溶けるように一歩、後退した。
「君が何を選び、どこへ向かうのか。 君とはいずれ……敵としてではなく、同じ深淵を見る者として、肩を並べて戦うことになるだろう」
「……待て!!」
ミストが槍を構え、鋭い叫び声を上げて突進しようとした、まさにその瞬間――。
シュッ、と。
まるで最初からそこに誰も存在していなかったかのように、カラスの身体が、掻き消えるようにその場から消失した。
「チッ、逃がしたか……!」
レイズが周囲の気配を獰猛に嗅ぎ回るが、毛ほどの残滓すら残っていない。
「……何しに来やがったんだ、あのクソ気味の悪いカラスの野郎は」
ソーが魔剣オボロを鞘に収め、吐き捨てるように呟いた。
だが、俺は、カラスが消え去ったその場所ではなく――背後、聖剣を包んでいた絶対不可侵の結界に意識を持ってかれる。
強烈な、違和感。
さっきまで俺たちの皮膚をビリビリと焼き、ソーの朧斬すら真っ向から粉砕したあの神聖魔力のプレッシャーが、嘘のように消え失せている。
「……おい。結界が、消えてるぞ」
俺の声に、全員の視線が一斉に円形空間へと向いた。
「なんだと……!? 馬鹿な、あれほどの禁術の封印が……跡形もなく解けているだと……!?」
ミストがその場に愕然と立ち尽くし、目を見開いた。
シンが、呆れたような、しかし戦慄を隠しきれない苦笑いを浮かべて腕を組む。
「凄腕の封印術師ってのは、解除の手際も神がかってるとは聞くけどよ……。
ノックもなしに割って入ってきて、一瞬でこれか。八咫烏のカラス……とんでもねぇ別格のバケモノだな、おい」
カラスの目的は、俺たちの命を奪うことでも、聖剣を奪うことでもなかった。
ただ、俺たちの前に現れ、圧倒的な力の差を見せつけ、そしてグリンデルの英雄たちが命と引き換えに残した最後の封印を、まるで子供の玩具の鍵を開けるかのようにあっさりと解除して去っていったのだ。
幸いなことに、誰も身体に異常はない。罠の気配もなかった。
結界が完全に消失した中心。
聖剣エクスと聖剣ソラスの二振りは、静かに、そして無防備に、床の上へと着地していた。
――こうして俺たちは、
二振りの聖剣を手に入れ、ウルシアへ帰還する。
レーオとルーナの遺体を回収して。
だが、俺の胸に残ったのは、勝利でも安堵でもない。
八咫烏。
魔族。
そして、肩を並べ戦うという言葉。
次の地獄は、もう動き出している。




