第26章:武装化新ルールー1
上空から王城の屋根をぶち破り、外壁へと着地した俺の耳には、まだ遅れて届く瓦礫の雨音がパラパラと鳴り響いていた。
空を見上げる。
黎明の薄明るい光が、地獄と化したグリンデル王都を冷たく照らし出し始めている。
魔族ワーズの支配は終わった。
だが……この国の悲しみが完全に癒えることはないだろう。王都の惨状を見る限り、グリンデル王国は政治的にも物理的にも、もう国家としては戻らない。いずれ、大陸の地図からその名が消えてしまうかもしれない。
でも――その絶望的な未来の全貌が、今の俺にはひどく遠い話に感じられた。
ただ、目の前にある現実だけが、やけに鮮明で生々しかった。
真っ二つにへし折れた、最上位貴族オリオンの魔具贄喰いの黒い残滓。
そして――アーティファクト・ヒナワの極大火炎によって胸に風穴を開けられ、静かに倒れ伏しているワーズの身体。
肉体は、黒い霧となって崩れ去ってはいなかった。
美しい漆黒の長髪も、華奢な骨格も、血の気の引いた白い肌も――あの丁寧な残酷さを纏っていた時の姿のまま、ただの人間の死体のように静止している。
「……ほんとに、死んだんだよね」
ソーが、少し離れた屋根の縁からゆっくりと近づいてきた。
次元を裂く魔剣オボロはすでに鞘に納められている。彼の左腕に走っていた神王獣の白銀の紋様も、ジュワッと音を立てて薄れ、部分神王獣化が解けかけていた。
「あぁ。完全に死んでる。……けど、クソほど気味の悪い死に方だな」
「だね。……さっきまでの魔族は、死んだら黒い霧になって消えたのに……貴族ともなると、死骸が物理的に残るのか」
俺は、ワーズの身体を見下ろしたまま、ゴクリと重い喉を鳴らした。
――ふと、俺の脳裏に一つの疑問がよぎった。
(……この魔族の死骸に触れたら、一体どうなる?)
俺の異能【武装化】の発動条件は、「完全に死んだ、人間以外の生物の死骸であること」。
ワーズは人間ではない。魔族だ。しかも、下位とはいえ明確な貴族階級に属する、超高密度の魔力の塊。
条件は、完璧に満たしている。
ただ――。
今まで俺が武装化の対象にしてきたのは、クリスタルワイバーンやアークサーペント、あるいは黒龍といった、あくまで自然界に存在するモンスターだった。
例外はラナだが、彼女の場合は人間から神王獣化した特殊なケースだ。
だが、魔族は根本的に違う。
人間と同じように言葉を話し、高い知能を持ち、嘘をつき、人間をあざ笑い、社会や階級を形成している。言わばもう一つの霊長類だ。
それでも、死ねば、武装化できるのか?
「……ソー。ちょっとだけ、こいつに触るぞ」
俺は自分自身に言い聞かせるように低く呟き、ワーズの胸元へと右手を伸ばした。
「え……ちょっと、流石にそれは趣味が悪――」
ソーが止めようとしたが、俺の指先がワーズの冷たい頬に触れたのが先だった。
――触れた瞬間。
ヒヤリ、とした異質な感触が、俺の指先から脳髄まで氷の針のように刺さった。
それは単なる死体の冷たさではない。
魔族という種族が根本的に抱えている、絶対的な虚無と冷酷さそのもの。
そして次の瞬間――!
ワーズの身体が、巨大な排水溝の穴に吸い込まれるように、激しく渦を巻き始めたのだ。
「っ!?」
ぐるり、ぐるり、と。
空間の空気ごと強引に捻り潰すように、漆黒の髪がほどけ、白い皮膚が裂け、骨格が粉々に砕け散り、肉がドス黒い霧へと変換されていく。
俺は反射的に危険を感じて手を引こうとしたが、もう遅い。
その巨大な黒い渦は、俺の右手の平の中へと、凄まじい引力で吸い込まれていく。
圧縮。
凝縮。
最後に、その黒い靄が手のひらの中で完全に形を取った瞬間。
俺は、思わず息を呑んだ。
「……仮面……?」
そこにあったのは、一つの黒い仮面だった。
表面は恐ろしいほど滑らかで、光を一切反射せず、すべてを漆黒の中に吸い込んでいる。
目の部分の穴だけが、ワーズの瞳と同じように、赤黒い薄気味悪いガラスのように透けていた。
俺は咄嗟に気持ち悪くなり、その仮面を石畳の上へ放り投げた。
「うおッ!?」
カラン、と。
仮面は軽い音を立てて転がった。……だが。
「……え?」
隣で見ていたソーが、完全に固まっていた。
「え……え、え? ちょっと待って。……今の、何?」
「……俺の武装化が、発動した」
「魔族の死体で!? 人間みたいな姿の奴を!?」
「そう……たぶん…」
俺は額に冷や汗を流しながら、転がっている仮面をもう一度拾い上げ、手の中でひっくり返した。
質量としてはひどく軽い。紙でできているかのようだ。
……なのに、その内側に詰まっている魔力の圧のようなものが、とてつもなく重い。
俺は、もう一度その仮面を地面へと手放してみた。
ポイッ。カラン。
……戻らない。
仮面は仮面の形のまま、石畳の上に転がっている。
先ほどまでそこにあったワーズの体や、血も、骨も、髪も、どこにも残っていない。
「……なぁ、ソー」
俺は、自分の声が微かに震えているのを誤魔化すことができなかった。
「俺の能力は……武装化を手放せば元の死体に戻るのが能力のルールだったんだ。……なのに、戻らないってことは、だ」
ソーが、ハッとして顔をしかめた。
「つまり、それって……」
「あぁ。……俺以外の人間も使用可能の、ユニークアイテムとして定着しちまったってことだ」
俺の異能のルールが、ここで明確に変わった。
いや、正確には――今まで俺自身も知らなかった仕様が、魔族という特殊な触媒を通して露わになったのだ。
魔獣や神獣の武装は、俺の意識を介して着ているだけだから、手放せば死体に戻る。故に俺しか使えない。
だが、魔族は違う。人間と同じように複雑な社会や知能を持つ霊長類だからなのか。それとも、魔族そのものが魔力の結晶体に近い存在だからなのか。
理由は分からない。
『……相棒。それ……すっごくヤバい感じがする』
胸元で、ラナの声がキュッと小さく縮こまる。
普段の余裕のある軽口じゃない。勇者としての本能が、その黒い仮面を世界に存在してはいけないバグとして警告を発している。
(……あぁ、分かってるよ。でも……)
俺は、手の中の仮面をじっと見つめた。
「……これ、どんな能力なのか……一回、付けてみるか」
「やめときなよ!!」
ソーが、王子らしからぬ大声で即答で止めてきた。
「だってそれ、ワーズだよ!? さっきまで僕たちを殺そうとしてた魔族の顔面だよ!? 呪われるから絶対やめてよ!!」
「顔面じゃなくて、ただの仮面だ」
「同じだよ! 被った瞬間、体を乗っ取られて『クフフ……素晴らしい身体ですね』とか言い出したらどうするのさ!?」
……ソーの言うことが、いちいち正論すぎて腹が立つ。
でも、俺の手の中にある仮面は、やけに静かだった。
魔剣ムラマサのような、己の意志を強要してくる禍々しい自己主張がない。ただの便利な道具として、主人が使ってくれるのを静かに待っているような……従順な気配がするのだ。
(……この仮面の使い方……なんとなく、直感で分かる気がする)
俺がそう思った瞬間――。
仮面から、直接俺の脳髄へと情報が流れ込んできた。
言葉ではない。文字での説明でもない。
機械の取り扱いマニュアルのような、極めて無機質で合理的な使用手順。
『本武装・幻影の仮面。
使用法:顔面に装着。
効果:使用者の想像を起点とし、肉体の外観、骨格、声帯、対象の持つ気配までを完全に変身させる。
代償:変身中は継続的に精神力を消費する。想像が揺らげば、変身の形も揺らぎ、崩壊する』
なるほど。
幻術のように他人の脳に直接錯覚を見せるのではなく、自分自身の肉体そのものを物理的に一時的に作り変える能力。
変身の精度は、使用者の精神の強さとイメージ力に完全に比例する。
(……もし、あの幻術使いのヴラーナがこの仮面を手に入れてたら、間違いなく即死コンボの地獄だったな……)
『うん、それ最悪の組み合わせ。想像しただけで吐き気する』
ラナが、心底嫌そうに同意してくれた。
俺は、仮面を高く掲げ、隣で嫌そうな顔をしているソーの方へと向けた。
「なぁ、ソー」
「やだ」
「いいから」
「絶対やーだ!」
「頼む。このユニークアイテムが俺以外の人間でも使えるかどうか、確認しておかないと……次の魔族との戦いで、死ぬかもしれないんだ」
その死という一言で、ソーの表情が一瞬で切り替わった。
どんなに軽口を叩いていても、この男は自分の嫌悪と命の重さを天秤にかけるような真似は絶対にしない。俺の本気を、あいつはちゃんと拾ってくれる。
「……わかったよ。顔につければいいんでしょ、顔に。……呪われたら、一生恨むからね」
ソーは渋々といった様子で、ジリジリと近づいてきた。
俺は、黒い仮面をスッと差し出した。
「つけてみてくれ」
「……絶対、被った瞬間になんか仕掛けあるじゃん……」
「あぁ。絶対、なんかあるよ。
お前の顔に吸い付いて一生取れなくなったりしてな」
「そういう冗談が一番タチ悪いんだよ!」
ソーは深く深呼吸をして、意を決したように――仮面を自分の顔へと押し当てた。
「……つけたよッ!」
ピタッ、と。
仮面が、ソーの顔に吸盤のようにピタリと吸い付いて収まった。
一瞬、仮面の赤黒いガラスの目の部分が、ギランッと不気味に発光する。
ビクンッ! と、ソーの肩が大きく跳ね上がった。
「……うわ、何これ! 頭の中に、急に変な情報が――」
「使用方法が流れ込んできただろ」
「……あぁ、来てる来てる。気持ち悪っ、脳味噌に直接文字書かれてるみたい」
ソーは、仮面をつけたまま両手を広げて、空気を確かめるように指をワキワキと動かした。
「えーと……『なりたいものを、頭の中で強く想像する』……?」
「そうだ。誰でもいい、なりたいヤツを頭の中で強くイメージしてみてくれ」
「急にそんなこと言われても……」
ソーは、仮面の奥で目を閉じた。
――その瞬間。




