第25章:下位貴族ワーズー1
――数日前。
多種族が平和に共存する大国、グリンデル王国、王都の夜。
本来ならば、静かで冷えた黒い夜空の下、星明かりが石造りの屋根を淡く照らすだけの、この世界ではどこにでもある当たり前の平穏な時間が流れていた。はずだった。
――その当たり前の日常は、上空から理不尽に叩き潰された。
爆発の轟音ではない。
隕石の衝撃波でもない。
ただの、消失だった。
夜空が、音もなく裂けた。
その直後。王城を守る堅牢な城壁と、それに連なる市街地の一帯が――まるで、透明な巨大生物の顎によって空間ごと噛み千切られたように、ごっそりと無くなったのだ。
石が砕け散ったわけではない。崩れ落ちたわけでもない。
そこにあったはずの石、鉄の防壁、木組みの家、灯されていた火、大気の空気……そして、平和に眠っていた人々の悲鳴の発生源まで含めて、すべてが一瞬にして喰われた。
……数秒遅れて、音が来る。
ゴォォォォォウッッ――!! と。
突如として生じた空白の空間に向かって、そのバグを修正するかのように周囲の空気が猛烈な勢いで流れ込む爆音だけが、王都全域を不気味に震わせた。
その、削り取られた空間の境目に。
それは、ふわりと降り立っていた。
長身。腰まで届く漆黒の長髪。女性のように細くしなやかな体躯。
その全身から漂っているのは、闘気のような暑苦しい威圧感ではない。明確な殺気ですらない。
ただただ、純度の高い丁寧な残酷さだけが、夜霧のように静かに立ち込めていた。
魔王軍下位貴族――ワーズ。
彼の華奢な肩には、その体格には全く不釣り合いな、超巨大で禍々しい大剣が片手で無造作に担がれている。
魔王軍の頂点に君臨する最上位貴族の一柱、オリオンから直々に賜ったという絶望の魔具――『贄喰い』。
「……あぁ。風の音が心地よい、本当に良い夜ですね」
声だけは、嘘偽りなく穏やかだった。
教養ある礼儀正しい貴族の男が、夜会で淑女に挨拶をするかのように。
だが、その足元には、さっきまで生命だったはずの痕跡が、まるでゴミ屑のように散らばっている。
いや、散らばっているというよりは、彼が喰い残してこぼれ落ちてしまったという表現の方が正確だった。
ワーズは、恐慌状態に陥り、絶叫を上げて逃げ惑うグリンデルの市民たちを見下ろし、この世で最も優雅な笑みを浮かべた。
「さあ、人間諸君。……あなた方のちっぽけな人生が惨めにあっさりと終了する、絶望の準備はできていますか?」
◆
――時は戻り、現在。
グリンデル王城・玉座の間。
薄暗い広間の中で、俺とソー、そしてワーズの三者は、沈黙の中で鋭く対峙していた。
俺の耳元で、黒龍のピアスがチリチリと小さく震えた。
俺の心臓の底から湧き上がる恐怖や怒りに呼応したのか、それともワーズの圧力に反応したのか。……どっちでもいい。今は、そんな己の感情の機微を確かめている暇など、一秒たりとも存在しない。
張り詰めた氷のような静寂の中――隣に立つ男が、無言で一歩、前へ出た。
「……僕が行く」
ソーの声は、短く、そして恐ろしいほどに硬かった。
決意をわざわざ言葉で飾る必要すらない。すでに己の命を天秤の皿に乗せきった者の、覚悟の声。
「……十秒、稼いでくれ」
俺は、腰に帯びた黒い刀――【魔剣ムラマサ】の柄に、右手をそっと添えた。
柄を握る指先が、氷水に突っ込んだように冷える。呼吸が極限まで浅くなる。
全神経を、鞘の中の刀身へ集中させる。
『時を切裂く刀』魔剣ムラマサ。
その反則的な「五秒戻し」の能力を発動させるためには、一つの絶対的な制約がある。
――【抜刀状態にするまでに、十秒間の時間を要する】。
柄に手を掛けてから、刀身が鞘から完全に解放されるまでの、長く、重く、地獄のような十秒間。魔剣ムラマサの能力は、抜刀後にしか使用できない。
意地悪なほどに現実的で、そして、今この瞬間においては死に直結する重い縛り。
「言われなくても」
ソーが、俺に背を向けたまま短く応えた。
その瞬間。彼の身体に、聖剣ラナに由来する純白の魔力紋様が、血管を浮き上がらせるようにバチバチと走った。
神王獣化。
ただし、全身への完全な顕現ではない。彼が己の器の限界を見極め、一点にのみ神王獣の暴威を圧縮させた極限の闘法。
彼の左腕のみを、金属の装甲のような白銀の鱗が這い上がり、腕の骨格の密度が神話の獣のそれへと強制的に書き換えられていく。
――部分神王獣化。
「行くぞ、ワーズ……ッ!!」
言い終わるよりも早く。ソーの姿が、玉座の間から完全に消滅した。
いや、消えたのではない。神王獣の力で石畳を蹴り砕く速度が速すぎて、人間の網膜からの脳の処理速度を完全に置き去りにしただけだ。
俺はムラマサの鞘を左手で強く押さえ込み、抜刀にかかる途方もない魔力の重圧に耐えながら、頭の中で死のカウントダウンを刻み始めた。
(……一秒)
玉座の空気が、爆発的に揺れた。
ワーズの立っていた周囲の気圧が、ソーの神速の踏み込みによって真空状態となり、鼓膜を劈くような破裂音が生じる。
ソーの放った神王獣の左拳が、ワーズの心臓を完璧に捉えて斬り込んだ――はずだった。
だが、ワーズはそこにいなかった。
(……二秒、三秒、四秒)
「……なにッ!?」
ソーの声が、ほんの僅かだけ乱れた。
そして、その神速の領域における僅かな乱れこそが、死に直結するのだ。
ワーズは、ソーの速度から逃げて消えたわけではない。
気配を絶って隠れたわけでもない。
――変わったのだ。
ソーの足元。彼が踏み砕いた石畳から跳ね飛んだ、ただの小さな小石。
その小石が、空中で一瞬にしてグチャリと不気味に膨張した。
石が肉になり、汚れが骨になり、ホコリが皮膚になり、ヒビが漆黒の髪になる。
物理法則を完全に無視した、あり得ない速度。あり得ない変異。
「……動きが、直線的すぎて逆に遅いですね」
ソーの足元の真下から。
穏やかで礼儀正しい声のまま、石からワーズの肉体へと変異した直後の左拳が、ソーの死角の顎下めがけて恐ろしい速度で突き上げられた。
ただの拳だ。
――なのに、その拳の軌跡上の空間が、ギリギリと悲鳴を上げて歪む。
ただの打撃だ。
――なのに、それを見ている俺の視界の端が、地震のように激しく震える。
「ッッ!!」
ソーは、空中にいながら間一髪で神王獣化した左腕を盾として交差させ、その拳を受けた。
完璧に、強靭な神王獣の腕でガードしたはずだった。
しかし――。
ドガアァァァァァァァァンッッッ!!!!!
「がぁぁっ……!?」
たった一発の拳の衝撃波だけで。
ソーの身体が、玉座の間の分厚い石壁を三枚連続でぶち抜きながら、王城の奥深くへと弾丸のように吹き飛ばされたのだ。
ゴンッ! ガガンッ! ドガアァァァンッッ!!
石と鉄と木材が粉微塵に砕け散る、暴力的な破壊音。
猛烈に飛散する瓦礫の向こう側で、ソーが床を数百メートルにわたって抉りながら、ようやくその身体を停止させた。
(……五秒、六秒、七秒)
俺は、冷や汗を流しながら、決してムラマサの柄から手を離さない。
ワーズが、ゆっくりと歩き出した。
まるで、貴族の庭園を優雅に散歩するかのように。丁寧に、そしてゆっくりと。
その歩みの先で。
転がる瓦礫が、砕けた石壁が、そして何もない空気が――次々とワーズの姿へと形を変えていく。
「この城に存在する物質は……私がその気になれば、すべてが私自身になり得るのですよ」
気づけば、俺の視界のあちこちに、無数のワーズが増殖していた。
玉座の影から。割れた床石の隙間から。転がっていた折れた槍の穂先から。
すべてが同じ質量、同じ魔力、同じ声。本物を見抜くことなど、物理的に不可能。
「――さぁ。あなた方に、私の悪意が防げますか?」
無数のワーズが、一斉に優雅な笑みを浮かべた。
(……八秒、九秒、十秒!)
俺の右手の中で。
魔剣ムラマサが、ほんの僅かに、だが確かに動いた。
まだたった数ミリ。
だが確かに、鞘の中で黒い刃が、時を喰らう深い呼吸を始めたのだ。
――ズガァァァァァンッッ!!!
瓦礫を破砕し、王城の奥深くから立ち上がってきたのは、血みどろになりながらも瞳の奥に狂気の焔を滾らせたソーだった。
ワーズの圧倒的な打撃によって腹部の肋骨は数本折れ、神王獣化した左腕の白銀の装甲には大きな亀裂が入っている。
だが……彼の表情には、一切の恐怖も迷いも存在しなかった。
「……ハッ! 少しは楽しめそうなモノを叩き込んでくれるじゃないか……ッ!」
ソーは、左手で口元の血を乱暴に拭うと、迷うことなく腰の左側に帯びた黒い鞘へ手をかけた。
千年前の封魔戦争において、聖剣ラナと並び称されたもう一振りの力――魔剣オボロ。
――スゥッ……。
漆黒の刀身が鞘から滑り出たその瞬間。
玉座の間全体の空間の輪郭が、まるで水面に落とした墨のようにグニャリと揺らぎ、曖昧に変形した。
空気の質感、影の濃淡、視覚的な距離感……そのすべてが、ドス黒い不気味な薄霧の中に閉じ込められたかのように歪んでいく。
【魔剣オボロ】第一の能力――【朧斬】。
太刀筋に次元の揺らぎを纏わせ、相手の持つ物理防御、魔力障壁、果ては概念上の防護すら完全に無視して次元ごと切断する、絶対防御不能の一閃。
「……死ねよ、魔族」
ソーの一閃が放たれた。
音もなく、残像もなく、ただ空間そのものに一本の黒い直線が引かれる。
ズバッッ……!
三メートル先で散歩のように優雅に佇んでいたワーズの本体。その左肩から腹部にかけての肉体が、不自然な切り口で次元ごと削り取られ、ごっそりと消失した。
だが――。
「素晴らしい切れ味……。
いや、消されましたか。 ですが」
肉体を削り斬られたはずのワーズは、悲鳴一つ上げなかった。
激痛に顔を歪めることすらなく、ただ穏やかな笑みを貼り付けたまま、欠損した己の胴体を見下ろしている。
ズズズズズ……ッ!
削り取られたはずの肉が、骨が、皮膚が、黒髪が。
彼が踏みしめていた玉座の間の石畳の成分を吸い上げるようにして、コンマ一秒で完全に再生された。
傷痕すら残らない、完璧な再生。
「四肢の欠損や、肉体の損傷など……万物と同化し得る私にとっては、爪を短く切った程度の些事に過ぎないのですよ」
ワーズの灰色の瞳に、冷酷な光が宿る。
彼は肩に担いでいた超巨大な大剣『贄喰い』を、片手で滑らかに旋回させた。
――次の瞬間。
ドガアァァァァンッッ!!!
ワーズの一振りが、大気を力任せに断ち切った。
ソーは、神王獣の反応速度で即座にその斬撃の軌道を見切り、紙一重でバックステップを踏んで躱した――と思った。
油断していたわけではない。
『次元ごと切り裂く魔剣オボロの斬撃を、何事もなかったかのように再生してみせた』という魔族の理不尽さに、ほんの数ミリ、コンマ数秒の驚愕による隙が生じてしまったのだ。
そして、ワーズという最悪の捕食者は、そのコンマ数秒の隙を見逃すほど甘くはなかった。
――スッ……。
宙を舞う、一筋の血の飛沫。
静寂の中で。
ソーの左腕が、肩口から先ごと、綺麗に切り離されて空中を舞っていた。
贄喰いの能力――捕食。
刃が掠めただけで、対象の肉体と魔力の繋がりを切り離し、存在そのものを喰らい尽くす、概念上の絶対切断。
「……あ……っ?」
ソーの口から、信じられないものを見たような茫然とした声が漏れる。
大量の鮮血が、肩の断面から勢いよく吹き上がり、彼の白銀の甲冑を真っ赤に染めていく。
宙を舞う彼の左腕が、夜風の中で一瞬だけ静止したかのように見えた――。
――その瞬間。
俺の右手の中で、十秒間の抜刀に耐え抜いた魔剣ムラマサの黒紫の刃が、咆哮を上げて鞘から完全に解き放たれた!
「――戻れぇぇぇぇぇッッッ!!!!!」
魂の底からの俺の絶叫と共に、世界が激しく軋んだ。
音でもない。風圧でもない。
時間という不可逆の概念そのものが、無理やり逆方向へ擦れ落ちていく強烈な悪心と浮遊感。
――【5秒巻き戻し】発動。
逆再生される景色。
噴き出した血が、激しい勢いでソーの肩の傷口へと吸い込まれていく。
空を舞っていたソーの左腕が、元の接合部へと巻き戻り、寸分狂わずくっついていく。
――そして、5秒前。
ソーの左腕が、まだワーズの贄喰いによって切断される直前の、コンマ数秒前の世界へ。
「……っ! 合わせろ、ソーッ!!」
切断される未来の記憶をムラマサ越しに完全に保持したまま巻き戻った俺は、世界が正常な時間に追いついたその瞬間、全速力で踏み込んだ。
クリスタルワイバーンの最高出力の魔法防壁を、ソーの切断されるはずだった左腕の直前へ、間一髪で滑り込ませて展開する!
ガギィィィィィィンッッ!!!
贄喰いの刃が、透明な結晶の防壁と激突し、火花と衝撃波を撒き散らした。
同じ軌道。同じタイミング。
だが――今度は、ソーの左腕は落ちなかった。
「……なっ!?」
ワーズの端正な顔立ちに、初めて明確な動揺と驚愕が走った。
完璧に捉え、完璧に切り落としたはずの腕が、なぜか最初から防がれていたかのように、透明な結晶の壁に阻まれているのだから。
ソーもまた、一瞬目を見開いたが……すぐに己の身に起きた違和感の正体を悟り、ニヤリと凶悪に笑った。
「サンキュ……! ムラマサかな!」
「あぁ……! どんな最悪な未来が来ようが、俺が全部変えてやるッ!!」
ワーズの灰色の目が、細く鋭く収縮する。
彼が長年抱いていた人間に対する絶対の余裕の中に、初めて不気味な違和感が混ざり込んだ。
「……ほう? 完全に左腕を切断し、存在を食らった手応えがあったのですが。……それを防ぐとは」
「お前ごときの決まり切ったクソ攻撃なんてなぁ……最初から全部読めてるんだよ、クソ魔族が!!」
ソーが自信満々に煽り始める。
俺はムラマサを硬く握り直し、その黒い刃の圧倒的な重みを感じ取った。
5秒間の時間を巻き戻せる。だが、一度発動すれば、再使用までに5秒間の待機時間が必要だ。
無限に時間を戻せるわけではない。タイミングを一歩でも誤れば、即座に全滅へと繋がる極限の綱渡り。
ワーズが、俺の全身を舐めるように凝視してきた。
「……未来視か。超直感か。あるいは……時そのものを繰る禁忌の術か。……いずれにせよ、人間という矮小な枠組みを、少々踏み越えているようですね」
「……企業秘密だ、クソバカクソ野郎」
ソーが血の滲む口角を吊り上げ、オボロを構え直す。
俺は大きく息を吸い込み、魂の底から叫んだ。
「――ラナッ!! 全武装、解放だッッ!!」




