第4章:力の使い方ー1
鼓膜を焼くような絶叫と爆音が、嘘のように遠ざかっていく。
ミリアの街を飲み込んでいた死の喧騒が、ようやく疲労と安堵が入り混じり始めつつあるころ――俺はまだ、血と鉄の匂いが充満する解体場の最奥に立っていた。
巨大な作業台の向こう側。
そこには、たった今、俺がその身に宿し、俺と共に聖剣ラナと上空で殺し合った二体の神獣の死骸が横たわっていた。
クリスタルワイバーンと、アークサーペント。
今はもう、ただの物言わぬ巨大な肉塊に戻っている。
飛竜の誇り高き翼はだらりと床に垂れ、美しかった結晶の鱗は沈黙の泥に塗れている。紫電を撒き散らしていたアークサーペントの長い胴体も、今はただ圧倒的な重力に縛られ、冷たく横たわっていた。
……あれから、しばらくの時間が経った。
聖剣ラナの暴走が止まった。
外では生き残った人々が泣き叫び、誰かが空を見上げて「英雄だ!」と喚き、勝手に謎の結晶の戦士の神話を紡ぎ始めている。
その隙を突き、俺は人混みからそっと離れ、誰にも見られずにこの場所へ戻ってきたのだ。
全身を覆っていたクリスタルワイバーンの装甲はとっくに解け、今の俺は、埃と汗にまみれたただの雑用係の普段着に戻っている。
誰も、あの聖剣ラナを倒した化け物じみた結晶の戦士と、この貧相でからっぽな雑用係を結びつけようなどとは思わない。
ありがたいことに、人間の認識というやつは、自分たちの常識の範疇でしか機能しないようにできている。
俺は息を整え、再びクリスタルワイバーンの死骸へと右手を伸ばした。
指先が、冷たい鱗に触れた瞬間。
――ガァンッ!
先ほどと全く同じ、脳髄を直接殴られるような衝撃が駆け抜ける。
世界がカチリと噛み合うような鮮烈な感覚。神獣の残存魔力が一気に俺の毛細血管を駆け巡り、視界が澄み切った水色に染まり上がった。
全身を包み込むクリスタルの重装甲。
聖剣の斬撃すら弾き返した完全なる絶対防壁の装甲。
さっきと寸分違わぬ威力だ。いや、一度極限状態での使い方を魂で記憶した分だけ、魔力の流れが最適化され、よりスムーズに顕現している。
「……戻れ」
俺が小さく呟き、意識の糸を緩めると。
装甲はまるで春の雪のようにすっと溶けて消え、再び巨大な飛竜の死骸が元の位置へと戻った。
死骸は崩れも腐りもせず、武装化する前の状態のまま、ただそこに時間停止したように存在している。
次は、アークサーペントだ。
巨大な蛇の、抉れた胴体の中央に触れる。
――バチィッ!
紫電の刺激が腕を走り、両手のひらにズシリとした殺意の重みが生まれる。
黒い鱗を纏った、長大な双剣。
柄の部分には、まるで生きているかのように明滅する稲妻の紋様が浮かび上がっている。軽く振るだけで、刃先から細い雷光がチリチリと迸った。
これも、さっきと同じだ。
やはり、俺の武装化は、死んだ生物をそのまま武器や防具として身に纏い、手放すと元の状態の死体に戻るらしい。
「……だが、問題はここから先だな」
俺は深く息を吐き、双剣を解除して、クリスタルワイバーンの胸の辺りに目をやった。
実戦を経て、俺の頭の中にひとつの仮説が浮かび上がっていた。
スライムやゴブリンのときは、ただ死体に触れて、装備にして、戻しただけだ。彼らは質量が小さいから、丸ごと武装化しても問題なかった。
だが――神獣クラスとなると話は別だ。
これだけの莫大な質量と魔力を放つ存在を、常に丸ごと持ち運ぶなんて冗談じゃない。持ち運べたとしても街中であんなの持ってたら常に職質対象だ。
ならば――。
「……少しだけ、もらう」
俺は腰のベルトから、ギルド支給の安物のサバイバルナイフを引き抜いた。
俺はクリスタルワイバーンの胸の鱗の一枚の隙間に、ナイフの刃先をねじ込んだ。
「すまん、ちょっとだけ」
テコの原理で、慎重に剥がす。
カンッ、と硬質な音が響き、俺の掌に収まるくらいのサイズの、美しい水色の結晶片がポロリと取れた。
縄張り争いで致命傷を受けてズタズタになっているのだ。今さら鱗が一枚剥がれたところで、死体の価値や状態に大きな変化はない。
次に、アークサーペントの巨大な口腔に手を突っ込み、ひび割れていた牙を一本だけ、力任せにへし折ってもらい受ける。
こちらも、無数にある凶悪な牙からすれば、誤差みたいな欠片だ。
「よし……素材は揃った」
俺は血塗れの鱗の欠片と、紫電を帯びた蛇の牙を両手に乗せた。
これを、丸ごとではなく俺の都合のいい形に変換することができれば――。
俺は目を閉じ、先ほど全身を武装化した時の魔力の波長と、スライムのような小型モンスターを武装化した時のサイズの感覚を頭の中で掛け合わせる。
掌の上の二つの素材に、極限まで意識を集中させ、形を圧縮していくイメージ。
キィィィィィィン……ッ!
空気が鋭く軋むような、耳鳴りに似た高音が響いた。
目を開けると、掌の上の結晶片が、自らの意志を持ったようにゆっくりと形を変えていた。
鋭い角が削れ、面が滑らかな曲線を描き、金属とも宝石ともつかない深い光を宿しながら――一つの指輪の形へと収束していく。
「……おお」
俺は感嘆の声を漏らした。
サイズは少し無骨で大きめだが、俺の右手の中指にぴったりと収まる太さ。
リングの表面全体には、クリスタルワイバーンのあの美しい鱗の紋様が、精密な彫刻のように刻み込まれていた。
アークサーペントの牙も同じだ。
凶悪な尖端が丸められ、細く鋭い黒銀の環となり、俺の左手の人差し指に収まるリングへと変化を遂げた。
――【装飾品化】。
そうとしか呼べない、俺の能力の新たな進化。
巨大な死骸から素材をごく一部だけもらい、それをコンパクトな形に変え、そこを起点として簡易的な武装化を行う。
さっきの完全武装化とは違い、スケールや出力はガタ落ちするだろうが、その分、発動もスムーズで、何より他人の目を完全に誤魔化すことができる。
「……テストだ」
俺は、右手のクリスタルワイバーンの指輪にそっと意識を流し込んだ。
ピキィッ!
指輪が淡く青い光を放ち、小さなクリスタルの手甲が、指先から手首までの範囲だけを覆うように顕現した。
さっきの全身装甲の、わずか二十分の一程度のサイズ感だ。
だが――あの聖剣を弾き返した絶対防御の強固な気配は、確かにそこに凝縮されていた。
本体を丸ごと呼び出しているわけじゃない。神獣の魔力を、蛇口を絞ってごく一部だけ借りている感覚。
続いて、左手のアークサーペントの指輪を意識する。
バチッ、と軽い放電音を立てて、掌の中に一本の雷のクナイが現れた。
さっきの巨大な双剣のような派手さはない。だが、黒い刃先に走る微かな紫電が、ただの鉄の暗器ではないことを静かに主張している。
「よし。完璧だ。これなら、街中でもただの護身用の武器として誤魔化せる」
武装を解除すると、クナイも手甲も消え、ただの無骨な二つの指輪だけが指に残った。
指輪という形にしている間は、神獣の魔力がゆっくりと自然回復しているような、そんなエコな感覚すらある。
問題は――このチートを、どう隠し通すかだ。
「……こっちだよな」
俺は、背後に殺到してくる複数の足音に気づき、ゆっくりと振り返った。
バンッ!!
解体場の入り口の扉が乱暴に開かれ、ミリアの武装した兵士たちと、ギルドの職員、そして顔見知りになった少しだけ偉そうな連中が雪崩れ込んできた。
彼らは一様に血相を変え、薄暗い解体場の奥に立つ俺を凝視した。
「おい、お前! 大丈夫か!!」
「どこに隠れてたんだ、荷物運びの雑用係!!」
怒号のような声。
だが、その声の端々には、俺が生きていることへの安堵が混じっていた。
(リード、カナ、ガロウ……)
奪還部隊が全滅したという報せ。彼らが死んだと頭では分かっているのに、まだ実感が全く追いつかない。
そんな鉛のように重い頭のまま、俺は両手を軽く上げながら入り口へと歩いていった。
「悪い。……外が地獄みたいになってたから、ここでずっと息を潜めて隠れてた」
実際は隠れてなどいない。隠れるどころか、神獣二体の死骸にしがみつき、空で暴れ回っていた。
だけど、それを馬鹿正直に説明するつもりはない。
ギルドの責任者らしき、顔に深い傷のある中年男が歩み寄り、俺の肩をガシッと力強く掴んだ。
「隠れてて正解だ。あんな絶望を見せられちゃあな。戦えない人間はそうするのが一番だ。……で、ここから見たか?」
「何を」
「結晶の剣士だよ」
中年は、興奮と熱に浮かされたような、少し酔った目で俺を見た。
「美しい、青き水氷の鎧を纏った、謎の結晶の剣士だ。
聖剣を持った冒険者とあの化け物たちと空で真正面から渡り合って、最後は黄雷の稲妻のように落ちて――見事にアレを斬り伏せた。
空を割るような音だった。……お前、見えなかったか?」
「……いや。俺はもう、裏路地の木箱の陰で頭を抱えてて。爆風と地響きだけで精一杯だったよ」
「そうか。そいつは惜しいことをしたな、お前」
中年は本当に残念そうに肩をすくめ、それから、少しだけ誇らしげに空の見える窓を指差した。
「ここミリアは、絶対に後世まで残る歌になるぞ。雷と結晶の英雄譚だ。
吟遊詩人どもがこぞって食いつく。神々の使いか、はたまた古の英霊か。……謎の結晶の剣士、ってな!」
――俺の胸の奥で、何かがひどく皮肉に、くすぐったく笑った。
俺の右手の中指。左手の人差し指。
さっきまで世界を救ったその結晶の戦士の絶対の装備だったものが、今はただの金属の輪っかになりすまして、ひっそりと俺の指に嵌っている。
誰も、それに気づかない。
それでいい。
むしろ、そのほうが都合がいい。
「……とにかく、無事に生きててよかったな。よく持ち堪えた」
中年男はそう言って、ぽん、と俺の肩を優しく叩いた。
その温かい一言で、俺の肩にのしかかっていた得体の知れない重圧が、少しだけ軽くなった気がした。
神獣の猛威によって半壊したミリアの街は、悲しみと混沌を抱えたまま、それでも生き残った者たちの手で泥臭く前へ進み始めていた。
崩れ落ちた石造りの民家の撤去。
瓦礫の山からの救助と、引き揚げられる物言わぬ遺体。
ミリアの兵士とギルドの冒険者たちが入り乱れ、昼夜を問わず街中で血と汗を流している。
当然、俺も雑用係として、骨が軋むほどのフル稼働を強いられていた。
だが、体が動いている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
古城へ向かい、二度と戻らなかったリード、カナ、ガロウの三人の背中のことも。
俺の手の中で静かに息を潜めている、二つの神獣の指輪のことも。




