第24章:グリンデル王都ー1
四頭の飛竜の影が、分厚い石造りのグリンデル王都の外壁をなぞった瞬間。
肌に触れる空気が、明確に別の次元のものへと切り替わったのが分かった。
それは「冷たい」とか「重い」とか、そういう分かりやすい物理的なものではない。
もっと、本能の根幹を直接腐らせるような、嫌なものだ。
耳の奥がじくじくと痛み、神経のすべてが逆撫でされるような強烈な違和感。……ここはもう人が生きて呼吸をしていい場所じゃないと、脳よりも先に細胞そのものが理解して悲鳴を上げる感覚。
バサァァァンッ!!
四頭の飛竜が、城壁の外の広い空き地へとドスンと重い音を立てて降り立つ。土埃が舞い上がり、竜の翼が巻き起こした乾いた風が、俺たちの髪を乱暴に叩いた。
真っ先に飛竜から飛び降りたレイズが、大剣の柄に手を添えたまま、周囲を鋭く、そして険しい目で見回した。
「……妙だな」
声が、地を這うように低い。
いつもの彼なら「出迎えもねぇのかよ」とでも軽口を叩きそうな場面だが、今のレイズにはそんな余裕は一ミリも存在しなかった。
隣の飛竜から音もなく着地したミストも、一度静かに目を閉じ、大気の魔力を探るようにしてゆっくりと目を開いた。
「ええ……。おかしいわね。あの村で感じたような、魔族特有のあのドス黒い気配を……この王都からは一切感じないの。いるはずなのに、どこにもいない」
飛竜の鞍の上で、ソーが低く喉を鳴らした。
彼の腰に帯びた二振りの神話――聖剣ラナと魔剣オボロが、主の静かな怒りと連動するように、鞘の中で微かに、だが確かに共鳴の振動を続けている。
「……次の国へ移動した……なんてことはないよね。グリンデル王国を落として、最大の脅威である聖剣二振りを手に入れて、さっさと退いた。……そんな合理的な連中なら、こっちとしても随分と楽なんだけどね」
善のソーの冷静な分析の裏で、抑えきれない怒りの炎が青白く燃えているのが分かった。
その緊迫した空気の横で。
チャラいイケオジの風貌をした海神シンが、「んー」と短く無精髭の生えた顎を撫でた。
一見すれば陽気な南国の冒険者だが、その黄金の瞳だけは、深海の捕食者のように全く笑っていなかった。
「……いきなり言うのもアレなんだがよ」
シンが、飛竜の首を軽く撫でながら口を開く。
「俺はな……昔っから、他人の感情や空気の揺らぎってやつを、波として肌で感じ取ることができるんだわ」
「……ほんとにいきなりだな、オッサン」
俺が、空気を読めと言わんばかりに半眼で返すと、シンは「まぁ聞けって」と苦笑いした。
「海の上で長く生きてるとよ、大嵐やヤベェ海竜の気配より先に、水面下の感情の波が先に来て危険を知らせてくれる。……で、だ」
シンの声が、一段階低く、重くなった。
「ここに着いてから、お前ら全員から放たれてる感情の波は怒り、覚悟、そして不安が入り混じってる。……この状況なら、それは極めてごく自然な波だ」
ソーが、飛竜の上から吐き捨てるように言葉を割り込ませた。
「でェ? 何が言いてぇんだよオッサン。クソ簡潔に言えや」
シンは、ソーの口の悪さを全く気にした様子もなく、首だけをゆっくりと動かし――後方で弓の弦を調整していたレーオを真っ直ぐに見据えた。
「……レーオ」
「ん? どうしたの? シンさん」
レーオが、いつもの無邪気な笑みを浮かべて小首を傾げる。
「なんで……お前の波だけ、さっきから喜びと愉悦で満たされてんだ?」
――ピタリ、と。
俺たちの時間が、完全に停止した。
「……」
隣にいた姉のルーナが、無表情のまま一歩、レーオの方へと体を寄せる。
「……レーオ? どういうこと?」
レーオは、いつもの社交的な笑みを浮かべたまま――。
その顔の筋肉の形だけを不自然に残したまま、声色だけを全く別の何者かのものへと切り替えた。
「――いやはや。これは驚きです。ただの人間ごときに、海神が加護を与えているとは」
ルーナの美しい眉が、ほんの僅かに、だが確かにピクリと動いた。
双子だからこそ分かる。弟のレーオが、こんな芝居がかった気味の悪い言い回しをするはずがない。
「レーオ、何を言って――」
ルーナが手を伸ばしかけた瞬間。
「――離れろッ! ルーナッ!!」
シンの、海を割るような怒声が響き渡った。
――その瞬間だった。
レーオの首が、彼自身の胴体からズルリと落ちた。
いや、落ちたのではない。
レーオの首から下の胴体が、彼自身の生首の髪を掴んで持ち上げ、あたかもその生首が喋っているかのように、手で顎を動かして口を開かせたのだ。
「……え……?」
俺の喉から、間の抜けた声が漏れた。
「皆殺しです」
切り落とされたレーオの頭を手でパクパクと喋っているかのように動かし、底なしに冷酷な言葉が紡がれる。
胸の奥が、一気に冷え込んだ。
理解が追いつく前に、世界が最悪の答えを突きつけてきた。
次の刹那。
レーオの首なしの胴体が、ドス黒い不気味な靄となって崩れ落ち、そこから――背の高い、異様に細身の男がゆっくりと立ち上がった。
腰まで届く漆黒の長髪。貴族のように洗練された丁寧な所作。
そして、その華奢な体躯には不釣り合いなほど巨大で禍々しい、血に飢えた大剣。
――魔王軍下位貴族ワーズ。
レーオではなかった。
このバケモノは、いつの段階からか分からないが、レーオを殺してその皮を被り、俺たちの部隊の中に最初から潜り込んでいたのだ。
ワーズは、レーオの生首を片手に持ったまま、俺たちに向かって優雅に一礼した。
「初めまして、人間諸君。……そして、歓迎しよう、我が国へ」
その丁寧な言葉が終わるよりも早く。
ワーズの持つ巨大な剣が、残像すら残さずに横一閃に薙ぎ払われた。
――ドサッ。
ルーナの身体が、前へと倒れた。
倒れたというより、体を支えるためのすべての力を一瞬で奪われたように、糸の切れた人形のように崩れ落ちたのだ。
「ルーナッ!!」
ソーが絶叫し、飛竜から飛び降りる。
シンが怒りの形相で一歩を踏み出す。
ミストが氷の軌跡を引いて跳ぶ。
レイズが地面を粉砕して突進する。
――だが、届かない。間に合わない。
ワーズは、崩れ落ちたルーナの身体を、空いた片腕で軽々と抱き上げた。まるで、愛しい姫君を抱きかかえるように丁寧に、優しく。
その洗練された所作が、何よりも、胸糞が悪かった。
「人間諸君、この姫君は私が預かろう。……生きて返してほしくば、私の王城へ来るといい」
礼儀正しい口調で、最も残酷な宣告。
レイズが獣のように歯を剥き出しにして吠える。
「逃がすかァァァッ!!」
ミストも同時に踏み込み、竜騎士の闘力を乗せた刃がワーズの首元へと迫る。
だが、ワーズはそこにいたはずなのに、次の瞬間にはいなかった。
空間の影が、不自然に折れ曲がる。背後の城壁の石の模様がグニャリと揺れ、空気が嘲笑うように歪む。
――変身。あるいは、変身の応用。己の存在そのものを、周囲の景色や無機物へと滑り込ませる、ワーズの魔法。
ワーズの姿は、ルーナを抱えたまま、影の中に溶けるように完全に消え去った。
残されたのは、石畳の上にボトリと転がった、レーオの本物の生首だけ。
ワーズがわざわざ置いていった、俺たちに対する最高の嘲笑の証拠だった。
「……レーオ……ッ」
ソーの声が、掠れて、やるせない悲痛な響きを帯びて溢れ出した。
俺の胸元で、ラナの心がガタガタと震えているのが分かった。
それは恐怖ではなく、極限の怒り。
『相棒……ッ! ……あいつの悪意に、飲まれないで……っ!』
「分かってる」
俺は短く答えた。言葉を少しでも長く発すれば、俺自身の理性がブチ切れて、心が壊れそうだったからだ。
「……急ごう。レーオの死を、無駄にはしない」
――ガギィィィィンッッ!!
血に塗れた巨大な黒鉄の城門を押し開き、一歩足を踏み入れた瞬間。
俺たち六人の息が、同時に詰まった。
そこに広がっていたのは……地獄という二文字すら生ぬるい、狂気の極致だった。
かつて美しいエルフや人間、様々な種族が穏やかに行き交っていたであろう大通りの両脇。
崩れかけた民家の壁には、何十人もの市民の遺体が、まるで壁画のように不自然な形で半ば埋め込まれていた。
石畳の上には、猛烈な力で叩きつけられ、原型を留めずに弾けた無数の肉片。
さらに異様なのは、並木道の巨木たちだ。
葉を落とした枝々には、別々の人間の頭部、胴体、手足が、あべこべな順序で不気味に繋ぎ合わされ、糸や皮紐で狂気のオブジェのように括り付けられていたのだ。
「……クソ胸糞悪ぃ……ッ! クソが……ッ!」
ソーの濁った声が、腹の底から絞り出された。
普段は人を小馬鹿にして嗤うあの高圧的で傲慢な男が、刃物のような殺意を隠そうともせず、二振りの刀身を狂ったように鳴らしている。
レイズは、もはや笑い声一つ漏らさなかった。
両手を強く握り潰す拳からは血が滲み、目だけが血に飢えた獣のようにギラギラと光っている。
「……許さねぇ。魔族だけは……絶対に生かしてちゃいけねぇんだ……」
ミストは、周囲の地獄を死んだような冷たい目で見渡し、低く、震える声で呟いた。
「……恐怖を過剰に植え付け、生き残りの抵抗する意志を完全にへし折り……その上で、この光景を愉しんでいる……。
……人間の尊厳に対する、最大級の冒涜よ」
ソーが、激しい不快感に肩を揺らしながら、深く息を吸い……そして、力なく吐き出した。
「……くそッ……まともな判断を失っちゃダメだ……! 僕たちがここで怒りに任せて取り乱せば、完全にワーズの思う壺だ……! だから、冷静に行動を――」
その言葉を、制するように。
「――待て。焦るな、お前たち。……一度、呼吸を整えろ」
静かに前に出たのは、シンだった。
「落ち着いていられるかよッ!!」
俺の叫びが、自分でも驚くほど荒く、怒りに跳ね上がった。
胸の奥で、ドロドロとした黒い怒りが脈打ち、視界を赤く染め上げている。俺自身の怒りだけじゃない。胸元のペンダントから伝わるラナの激怒も混ざり合って、脳内が沸騰しそうだった。
だが――シンは、俺の怒鳴り声に対しても、怒り返しもしなかった。
荒れ狂う大波を幾度も乗り越えてきた海の男特有の、圧倒的な器の深さ。彼は静かな黄金の瞳で俺を真っ直ぐに見つめ、その太い手で俺の肩をドンと強く叩いた。
「落ち着けってのはなぁ……怒るなって意味じゃあねぇんだよ」
シンの重い声が、俺の沸騰した脳髄に直接届く。
「怒りを握れ。……自分の中で、感情の荒波を越えるために舵をしっかり握って操るんだよ。」
シンは、足元の石畳を軽く靴底で踏み鳴らした。
「いいか、よく聞け。……この王都の中に転がっている全ての物質が……ワーズそのものである可能性があるんだ」
――ざわっ。
その場にいた全員の皮膚に、鳥肌が立った。
「石、木、壁、門、転がる瓦礫、落ちている剣、死体……そして俺たちの足元の影すらもだ。
お前らも見ただろう、 ……あいつはただ人間の姿に変身するだけじゃねぇ。そこに物として存在すること自体を別の形に偽装して溶け込める」
ミストが、青ざめた唇を強く噛み締め、低く呟いた。
「……では一体……どうすれば……」
「だからこそ、だ」
シンは、波を読むように一秒、二秒の間を置いた。
「現状の六人という人数で一塊になって動くのは、最も危険だ。気を配る仲間が増えれば増えるほど、ワーズに対する死角が増える。……だから、予定通り三手に分かれるぞ」
レイズが深く首を縦に振った。いつもの軽薄さは消え失せ、完璧な騎士の顔だ。
「戦闘隊がふたつ。それと……ジークの援護射撃と退路の確保。……外周の押さえだな」
俺は、腰の魔剣ムラマサの柄を握り直し、前を見据えた。
「ワーズは……俺とソーで追う。魔族に対抗するために聖剣と魔剣はあるんだ」
レイズが、牙を見せて獰猛に笑った。
「いいねぇ。じゃあ……残りの二体の魔族は、俺とミストで確実に叩き殺す」
ミストも「当然」と言うように大きく頷く。
「一体たりとも逃走は許さないわ。魔族がこの街で何を引き起こしたのか、情報も集めながら進む。情報は武器になるわ」
シンが、後ろで硬直していたジークの華奢な肩を、ぽんと叩いた。
「俺とジークは、王城の外周だ。……狙撃と退路の完全封鎖。もし手薄になった城の外から魔族の援軍が来たら、俺たちが全部引き受ける。……怖いか、兄弟」
ジークは、真っ青な顔で血の気を失っていた。だが……彼は必死に首を横に振った。
「こ、怖いです……! 死ぬほど怖いです……! でも……ッ! ここで僕が逃げたら、一生自分を許せない……! 僕は……こういう、誰かを護らなきゃいけない時のために……血の滲むような特訓をしてきたんですからッ!!」
ジークの指先はガタガタと酷く震えていた。
だが――ヒナワの黒い銃身を握り締める両手だけは、決して離そうとしなかった。
『……ねぇ、相棒。……あの子』
胸元で、ラナの声が柔らかく澄んだ響きを帯びる。
『いいね。……泥臭くて、諦めなくて。アタシ、ああいうカッコいい男の子、大好きだよ』
「……オレもだ」
俺は、無言で自分の右拳を中央へと突き出した。
レイズが。
ミストが。
ソーが。
シンが。
そして、ジークが――。
それぞれの拳にそれぞれ命の覚悟を乗せて、ゴツンッ、と重ね合わせた。
「――死ぬなよ、野郎ども」
レイズが言った。軽口ではない、戦士の約束。
「死なないよ。……絶対に取り戻す」
ソーが言った。誓いのように。
「……死なせないわ。全員を護る」
ミストが言った。自分への暗示のように。
「死ぬわけねぇだろ。俺を誰だと思ってやがる」
シンが言った。海神の自負。
そしてジークが、涙目のまま声を絞り出した。
「……死にませんッ! 絶対に、引き下がりませんッ!!」
重ねた拳が離れたコンマ一秒後。
全員の背中に、同じ巨大な覚悟が宿っていた。
その後ジークとシンは後方支援の配置に向かい。
地獄と化した王都のメインストリートを、俺たち四人は王城の正門を目指して進んでいた。
歩調は完全に同じ。だが、互いの距離は五メートル以上離れ、決して一箇所に固まろうとはしない。
仲間を庇い合うために密着するのではない。
誰かが突如として別の何かにすり替わった時、あるいはいきなり即死の奇襲を受けた時、残りの三人がいち早くその異変を察知し、即座に殺しにかかれるための距離感。
張り詰めた糸のような静寂の中、俺の首元で、ペンダントのラナが震える声で囁いた。
『ねえ、相棒……。あいつ……本当にヤバかった。……勝てる、かな』
かつての勇者ですら本能で恐怖する、底なしの悪意と能力。
だが、俺の心に一切の迷いはなかった。
「勝つ」
俺は前を見据えたまま、即答した。
「勝たなきゃ世界が終わるだけ。……それだけのことだ」
隣を歩くソーが、横目でスッと俺を見た。
今の彼は温厚な善のソーだ。だが、その藍色の瞳の奥には、静かで、途方もなく熱い炎が燃えている。
「……うん。僕もそう思うよ」
ソーは、腰の二振りの剣の柄にそっと手を添えた。
「怒りに任せて剣を振るうんじゃない。……自分の中の怒りを操り、制するんだ」
ミストが、前方の暗闇から目を逸らさずに告げた。
「そろそろ城前よ。――気を引き締め直しなさい。ここから先、どんな凄惨な光景が広がっていようと、絶対に足を止めてはダメ」
レイズが、大剣の柄を握り締めながら低く返す。
「分かってる。……大将。もしお前が絶望して足を止めそうになったら、俺が背中を力任せに蹴っ飛ばしてやる」
ミストの冷たい口元が、一瞬だけ微かに弧を描いた。
「私も蹴るわ」
「お前ら、二人がかりで蹴るのはやめろ」
そんな、死地に向かう戦士たちの不器用な軽口。
だが、そのほんの短いやり取りが、極限まで張り詰めていた俺たちの呼吸を、少しだけ人間のそれに引き戻してくれた。
◆
王城の正門前。
巨大な鉄格子の前に、二つの人影が佇んでいた。
座っている。
男の魔族が、何か球体のような物の上に足を組み、まるでそれを極上の椅子であるかのように扱って、愉悦の笑みを浮かべている。
その隣に、女の魔族が寄りかかり、クスクスと下品な笑い声をこぼしていた。
「……おい」
レイズの喉の奥から、獣の唸り声のような音が鳴った。
全員の足が、少しだけ減速する。
男の魔族が尻に敷き、泥に塗れさせていた球体。
――それは、先ほどまで俺たちと共に行動していた双子エルフの姉、ルーナの生首と、引きずり出された内臓だった。




