第23章:死への道中
四頭の飛竜の背は、想像していたよりも遥かに揺れなかった。
上空数千メートル。雲海を切り裂き、グリンデル王都へと一直線に突き進む凄まじい速度。
だが、その物理的な安定感と静寂が、今の俺たちにとっては、逆に腹の底をドス黒くざわつかせた。
鼓膜を叩くのは、鼓動のように規則正しい竜の羽ばたきと、冷たい風を切る音だけ。
誰も、喋らない。
いつもならくだらない軽口を叩いて空気を引っ掻き回すレイズも、無邪気に笑う双子のレーオも、完全に口を閉ざしている。
恐怖からくる沈黙ではない。
――激怒しているからだ。
八人全員が、同じようにグリンデル王都の方角を睨みつけている。
だが、その視線の先に見据えているのは、まだ見ぬ王都の姿ではない。
さっき飛び立ってきた、あの村の光景だ。
地面に並べられた、千切られた手足と頭部。
狂気によって描かれた『ようこそ 魔の国へ』という身体文字。
希望だった冒険者を生きたまま食い殺させられた村人たちの、魂が完全にぶっ壊れた虚ろな瞳。
魔族の、一切の理解を拒絶する底なしの悪意。
あの吐き気を催す地獄のジオラマが、飛竜に乗ってどれだけ距離を離れようとも、全員の網膜に焼き付いたまま、一ミリも剥がれ落ちないのだ。
「…………ッ」
前方で飛竜の手綱を握り締めるレイズの背中から、ギリッ、と奥歯が割れそうな音が聞こえた。
その広い肩の筋肉は極限まで張り詰め、体から漏れ出す怒りの闘力と魔力で、彼を包む空気が蜃気楼のように陽炎を立てている。
隣のミストは視線を落とし、水色混じりの銀の髪を乱暴な風に遊ばせたまま、ただ氷のように静かだ。
怒鳴らない。
だが、彼女のその絶対零度の沈黙は、すべてを破壊し尽くす嵐の前のそれだった。
ソーは唇を固く引き結び、己の太ももの上で、何度も何度も拳を開いては握り直している。
いつもなら温厚なはずの善のソーの人格であっても、到底抑えきれない怒りと殺意の濁流が、震える指先から明確に滲み出ているのが分かった。
魔族の殲滅。その一点においてのみ、今のソーは善も悪も関係なく、完全に一つの殺戮兵器として同期している。
ジークは、何も言わない。
ただ、自らの腰に抱えた黒と朱のアーティファクト・ヒナワを、自分の命綱のように強く、痛いほど胸に抱きしめて必死に耐えていた。
目は血走り、涙で赤く潤んでいる。だが、絶対に泣かない。
ここで一粒でも涙をこぼしてしまえば、自分の中の何かが完全に壊れてしまうと、彼自身が痛いほど分かっているからだ。
ルーナは、無表情のまま遠くの森を見下ろしている。
だが、エルフ特有のその恐ろしく鋭敏な感覚は、すでに遠方から漂ってくる異変の気配や、風に混じる血の匂いを冷徹に数え始めている。
そして――レーオは、笑わない。
あれほど饒舌で、人を食ったような態度を崩さなかったエルフの少年が、一切の笑みを捨てて完全に口を閉ざしている。
それが、何よりも異常な光景だった。
そんな、いつ空中で暴発してもおかしくない極限の火薬庫のような空気の中。
一人だけ――海神シンは。
飛竜の太い首筋を、まるで泣きじゃくる赤子をあやすように、ゆっくりと、一定のリズムで撫で続けていた。
荒れ狂う海を波一つで鎮めるような、完璧に無駄を削ぎ落とした指の動き。
「……おい。ここで一度、降りるぞ」
強風吹き荒れる上空で、最初に口を開いたのはシンだった。
声は決して大きくない。低く、落ち着いている。
だが、その一言には、一切の反論や拒否を許さない、絶対的な強者の重みが乗っていた。
「はァ……!?」
レイズが、殺意の籠もった目を血走らせて振り返った。
「何言ってやがる、オッサン! こんな所で油売ってる暇なんか一秒も――」
「飛竜を休ませる」
シンは、レイズの殺気を柳に風と受け流し、淡々と告げた。
「あの村からずっと、お前らが無意識に垂れ流してるその殺気に当てられて、コイツらも限界まで神経をすり減らしてる。このままじゃ、王都に着く前にコイツらがダメになっちまう」
「ッ……」
「それから――俺たち自身もだ。冷静になれテメェら」
シンは、ギロリと黒の瞳を光らせ、全員の顔を順番に射抜いた。
「今のテメェらのそのツラ……使い物にならねぇ、ただのド素人のツラだ」
誰も、反論できなかった。
レイズは血が出るほど唇を噛み切り、短く、ただ一回だけ無言で頷いた。
飛竜の進路が、大きく下へと向く。
王都グリンデルまであと数十キロ。森と草原の境目にある、岩がむき出しになった小さな荒野。
魔族の気配がまだ届いていない、戦火を免れた静かな場所。
ズゥン……と四頭の飛竜が地に降り立つと、張り詰めていた空気がようやく、重く地面へと落ちた気がした。
◆
着陸するなり、シンは一切の無駄口を叩かずに行動を開始した。
まず、持参していた革の水袋を開け、疲労しきった飛竜たちの口元へ丁寧に水を含ませる。
次に、鞍の留め具や手綱の緩みを、一つ一つ指先で弾いて音を確認しながら点検していく。
それが終わると、彼は岩陰に手頃な薪を集め、無言で焚き火を起こし始めた。
魔力は、一切使わない。
火打ち石と鋼を打ち合わせ、火口に火花を落とし、優しく息を吹きかけて種火を育てる。
その古臭く、手間の掛かる、だが生きた人間の営みを感じさせる慣れた手つき。
パチッ、パチパチッ……と。
小さな炎が生まれ、赤い光が岩肌を照らし出した。
「……海の上でも、陸の上でもな」
シンは、揺らめく炎を見つめたまま、ぽつりと、独り言のように言った。
「どれだけ強かろうが、どれだけ魔法が使えようが……自分の怒りに呑まれて準備を怠った奴から、最初に死んでいく」
その言葉には、途方もない説得力があった。
深海の神獣や、荒れ狂う嵐。人間の感情など一切通じない大自然の理不尽の中で、数えきれないほどの仲間の死を見てきた者だけが放てる、命の重さ。
ジークが、震える足取りで、恐る恐るシンの隣へと近づいた。
「シン、さん……」
ジークの声は、かすれていた。
「……怒って、ないんですか……? あんな……あんな酷いものを見たのに……っ」
シンは、一瞬だけ、本当に一瞬だけジークを見た。
そして、ふっと自嘲するように笑った。
「怒ってるさ。……腹ワタが煮えくり返って、今すぐあの魔族どもを海溝の底に沈めて、水圧で肉片一つ残さずすり潰してやりたいくらいにはな」
「……え?」
「だから……こうして火を見てるんだよ」
シンは、手元の小枝をポキンと折り、静かに焚き火へとくべた。
「いいか、強大。……怒りに身を任せて特攻すれば、一時的に力は出るかもしれねぇ。だがな、視界が狭まり、仲間の動きが見えなくなり……結果として、本来なら救えるはずだった命すらも、救えずに取りこぼす。……俺は、海の上でそういうバカな死に方を、何百と見てきた」
パチッ、と。
炎が大きく爆ぜ、シンの横顔を赤く照らした。
「怒りは刃だ。……研ぎ澄ませば、魔族だろうが斬り裂く最強の武器になる。だが……自分自身でその刃を制御できなきゃ、振り回した勢いで、自分や仲間の首を真っ先に斬り落とすことにもなる」
その静かで重い言葉に。
レイズが、ハッとしたように目を見開き、自身の腰の大剣を強く握り直して歯を食いしばった。
ミストが、ほんのわずかに目を伏せ、己の中の殺意を極低温の氷へと再凍結させるように、深く息を吐き出す。
ソーも、震えていた指先をピタリと止め、腰の聖剣と魔剣に静かに手を添えた。
この男は、一見すればただの軽薄な酒好きのオッサンだ。
だが……その軽薄な皮のすぐ裏側に、決して揺るがない深海の如き経験の重さを隠し持っている。
――これが、海洋国家オーシャンの頂点に立つ冒険者、【海神】。
俺は、その大人のやり取りを少し離れた岩陰から見つめながら、冷たい地面に深く腰を下ろした。
昂ぶっていた心臓の鼓動が、シンの焚き火の音のおかげで、少しずつ本来のリズムを取り戻していくのが分かった。
すると、一切の足音も、風の気配すらも立てずに。
双子エルフの片割れのレーオが、俺のすぐ隣に腰を下ろしてきた。
「……君が、あの武装化の戦士かい?」
焚き火の爆ぜる音が、ふっと遠のいた気がした。
俺の真横。何の気配も足音すら立てず、いつの間にかエルフの少年――レーオが岩腰に腰を下ろしていた。
その顔には、いつも浮かべていた薄っぺらく不躾な笑みはない。
深緑色の瞳が、夕闇の影を宿して静かに俺の顔を見つめている。
「オレのことを知ってたのか?」
「うん。シルアを発つ前、長老様からじっくり話を聞かされたからね」
レーオは膝を抱え、遠くの薄暗い空を見上げた。
「君の使っているその異能……シルアではね、何千年も昔の伝承として今も細々と語り継がれているんだよ。神獣を身に纏いし、名もなき最初の封印者として、古びた石板に刻まれてね」
「……あのばあさんか」
思わず自嘲気味な苦笑が漏れた。
「石板はオレも直接見せてもらったよ。……まあ、書いてある文字は一字たりとも読めなかったがな」
「そりゃそうさ。ボクにも読めないんだから」
レーオは、自嘲するように軽く肩をすくめた。
「あれは神話の時代の古代文字。……うちの森の都シルアでも、あの文字を正確に解読できるのは、長老様と……千年前の封魔戦争を実際に生き延びて、生き証人となった極一部の古老たちくらいなものさ」
「……いったい何歳なんだよ、そのじいさんたちは」
「少なくとも、千歳は軽く越えているね」
レーオは少しだけ柔らかく笑った。
「エルフは、人間から見れば悠久に近い永い時を生きる生き物だよ。……でもね、決して無限じゃない。寿命だってあるし、不慮の事故や戦争で命を落とすことだって普通にある。……あと数百年もすれば、あの古代文字を読める者なんて、この大陸から一人もいなくなるだろうね」
「……なんだか、寂しいな」
気付けば、俺の口からそんな言葉が零れ落ちていた。
人間の儚い命に比べれば、あまりにも膨大な時を生きるエルフ。
それなのに、彼らが積み上げてきた歴史や言語すらも、時と共に風化し、消えていく。
レーオは一瞬だけ口を閉じ、静かに風の音を聴いていた。
やがて――彼は己の豊かな胸元にそっと手を当て、静かに言った。
「形あるものは、いずれ全て消えるよ。……文字も、石板も、形ある国も、そして僕たちの命だってね」
「…………」
「でもね」
レーオは、ハッとするほど澄んだ瞳で、俺の目をまっすぐ見つめた。
「誰かを想うことや怒り、誰かを護りたいと願った誓いや悲しみ……そういう魂の叫びだけは、時を越えて必ず誰かの中に残るんだ。そして、それが次の時代を生きる誰かへと確かに繋がっていく。……ちょうど今、君があの村の惨劇に怒りを燃やしているようにね」
胸の奥が、熱い温泉に浸されたように、じんわりと温かくなった。
『……ふふっ。素敵な考え方だね、エルフの男の子』
胸元のペンダントから、ラナの優しい声が心臓の鼓動に重なって響く。
「……ありがとうな、レーオ」
「礼なんていらないよ」
レーオはふわりと立ち上がり、背中の巨大な弓の位置を直した。
「君は、ちゃんと痛みを痛みのまま抱えられる人間の心を持っている。……だからボクらは、君に命を預けるんだ」
その華奢な背中を見送りながら、俺は心から思った。
――エルフは冷徹でも、感情がないわけでもない。
ただ、膨大な時を生きるがゆえに、己の感情を無駄に浪費せず、本当に大切な瞬間のために研ぎ澄ませて留めているだけなのだと。
「――ねぇ」
歩き出し掛けたレーオが、ふっと足を止めて振り返った。
「君たち、アーティファクトを探しているんだって?」
「あぁ。魔族や八咫烏の手から世界を守るためにな」
「……ボクらの国の最奥の秘境にもね、一つだけ、アーティファクトの伝承が眠っているんだ」
「! 本当か!?」
俺は思わず立ち上がった。
「うん。……だからさ」
レーオは、今度こそ彼らしい不敵で無邪気な笑みを浮かべてみせた。
「このグリンデルの戦いが無事に終わったら……ボクらの森へ来なよ。一緒にそのアーティファクトを探しに行こう」
「あぁ……約束だ!」
「――そこまでよ。二人とも、そろそろ出発の時間だわ」
岩陰から現れたのは、銀髪を夜風になびかせた双子の姉、ルーナだった。
その声は相変わらず氷のように冷やかだが、背中の弓を握りしめる細い指先には、揺るぎない覚覚悟が宿っていた。
焚き火の周りでは、レイズが豪快にバキバキと指関節を鳴らして立ち上がっていた。
先ほどまでの刺々しい暴走する殺気は綺麗に消え去り、その眼光は、極冷の殺意を秘めた凄絶な竜騎士のそれへと昇華されている。
「……行くぞ、野郎ども」
レイズの声が、低く響く。
「次は――グリンデル王都だ。……魔族どもに、人間の命の重さってやつを骨の髄まで教え込んでやる」
誰も、大声で叫ばない。
誰も、安易な誓いの言葉を口にしない。
だが――集まった八人の戦士たちの瞳には、全く同じ色の光が宿っていた。
怒りを無駄に散らさず、絶対の破滅へと変えるための、極限まで研ぎ澄まされた刃の目。
俺は、自分の胸元に静かに手を当てた。
「……ラナ」
『うん』
その声は、いつになく優しく、そして鋼のように強く澄んでいた。
『……行こう、相棒。……今度こそ、あんな地獄を二度と繰り返させないために。救うために!』
「――あぁッ!!」
四頭の飛竜が、一斉に巨大な翼を広げて大地を蹴った。
ドガアァァァンッ!!
静かな怒りと、絶対の討滅の誓いを乗せて。
飛竜たちは雲を突き抜け、闇に包まれたグリンデル王都の空へと――一直線に滑空していったのだった!




