第22章:魔の一族たる所以ー1
四頭の巨大な飛竜の影が、雲を切り裂き、グリンデル王国の国境線を越えた瞬間。
肌に触れる空気が、明確に異質なものへと変わったのが分かった。
風が、やけに乾いている。
大地から湧き上がるはずの土と緑の匂いが薄く、代わりに……鼻腔の奥にへばりつくような、濃密で甘ったるい死と腐敗の気配が立ち込めていた。
「……気持ち悪ぃな」
並走する飛竜の鞍の上から、レイズがツバを吐き捨てるように唸った。
いつもの彼なら、必ず最後に軽口や冗談の尾ひれをつける。だが、今のレイズの声は凍りついたように硬く、瞳孔は肉食獣のように細く絞られていた。
「グリンデルは、本来こんな死の匂いに満ちた土地じゃないわ」
ミストが、冷たい風に水色混じりの銀髪をなびかせながら静かに続ける。
「かつて私が訪れた時は、森と清流に溢れた美しい国だった。……地脈そのものが、何かに汚染されているような」
俺の隣で飛竜の手綱を握るソーは、何も言わなかった。
ただ、その藍色の瞳に静かな怒りの炎を灯し、じっと前方の大地を睨み据えている。
彼の腰に帯びた二振りの神話――聖剣ラナと魔剣オボロが、主の怒りに呼応するように、鞘の中で微かに共鳴の振動を漏らしていた。
俺の胸元のペンダントが、心臓の上で冷たく揺れた。
『……相棒。……嫌な感じがする』
ラナの声が、ひどく低く、沈んでいた。
ふざける余裕など1ミリもない、かつての聖剣ラナの適合者としての本能的な警戒警報。
「……あぁ、そうだな」
俺が短く返した時、飛竜たちが不意に高度を落とした。
国境から少し内陸へ入った開けた場所に、一つの村の影が見えたのだ。
――いや。
それはかつて村だったものの、凄惨な残骸だった。
木造の家々は半ば焼け落ち、煙突から生活の煙は上がっていない。
丁寧に耕されていたはずの畑は、なにか強大な力でめちゃくちゃに荒らされている。
だが、俺たちの目を何よりも釘付けにしたのは、村の入り口の広場だった。
生き残った村人らしき十数人の大人の男女が、地面を這いつくばりながら、何やら異様な作業を無言で続けているのだ。
上空から飛竜を旋回させ、その作業の中身が見えた瞬間。
俺は、胃袋の底がそのまま喉までせり上がってくるような、強烈な吐き気を覚えた。
――人間の、千切られた小さな手足。
――えぐり取られた胴体。
――そして、虚ろな目をした無数の頭部。
それらの部位が、パズルのピースのように並べられ、地面に巨大なイーリス大陸の文字の形を造り出していたのだ。
血と肉で描かれた、狂気の歓迎のメッセージ。
『 よ う こ そ 魔 の 国 へ 』
「…………ッ!!」
言葉の形を脳が認識した瞬間、遅れて爆発的な怒りが視界を真っ赤に染め上げた。
よく見れば、並べられている手足や頭部のサイズは、まちまちだったが。明らかに、大人のそれよりも一回り小さいものしかなかった。
「……笑えねぇ」
レイズが、ギリッと奥歯が割れるほどの音を立てて唸った。
「笑えねぇぞ……魔族のクソ外道どもが……ッ!!」
後方の飛竜に乗っていたジークが、鞍の上で完全に硬直していた。
血の気を失った唇をガタガタと震わせ、息を吸おうとしているのに、喉がひっついて酸素が肺に入っていない。
「……ひ、ひどすぎる……こんなの……地獄だ……っ」
「……」
ソーの横顔が、微かに、だが決定的に歪んだ。
普段の温厚な王子の空気は完全に消え失せ、そこには冷酷な戦士の顔があった。
そして――ソーの瞳から光が消え、声が一瞬だけ別人のように荒く、低く濁った。
「……クソ胸糞わりィなァ、おい」
悪のソーが、一瞬だけ表に覗いた。
だが、いつものように分かりやすく、人格が切り替わることはなかった。善と悪、二つの相反する魂が、今は同じ純度の殺意を共有して激しく怒り狂っているからだ。
――ズガァンッ!
飛竜たちが村の入り口付近に着地し、激しい砂埃が舞い上がった。
その突風と轟音に、作業をしていた村人たちがビクッと肩を震わせた。
……なのに。彼らは決して、そのおぞましい死体並べの作業をやめようとしないのだ。
涙をボロボロと流し、嘔吐しながら、それでも何かに操られているかのように、無言で頭部を並べ続けている。
「おいッ! お前ら、何やってる! もうやめろッ!!」
レイズが飛竜から飛び降り、大声で叫んだ。
だが、村人たちの目は誰も焦点を結んでいない。声を掛けても反応が数秒遅い。
自分の魂と意志を、どこか別の場所に置き去りにしてきてしまったかのように。
「レイズ、待って。……彼らは、魔法じゃない。精神的な呪縛をかけられている」
ミストが素早く飛竜を降り、的確な指示を飛ばした。
「全員、武器をしまって。……まずは生存者の保護が優先。ルーナ殿、レーオ殿、周囲の警戒を!」
「了解しました。……《聖樹の抱擁》」
「任せてよ! ……ヒドいことするよねぇ、ホント」
エルフの双子、ルーナとレーオが素早く呪文を詠唱し、村人たちを包み込むように清らかな緑色の魔力結界を展開する。
その光を浴びて、ようやく村人たちの手から、ボトリと肉塊が滑り落ちた。
俺たちは、その地獄のような死体の文字に近づく前に、まずは膝から崩れ落ちた生存者の側へと駆け寄った。
「……もう大丈夫だ。俺たちはウルシアとカエサルの連合軍だ。助けに来た」
ソーが泥だらけの地面に膝をつき、震える壮年の女性と目線を合わせる。
声はどこまでも優しかった。だが、彼の膝の上で握られた拳は、あまりに強く握られ白く、激しく震えていた。
女性は、濁った目でソーを見つめ返し……ようやく、カスカスに乾いた声を絞り出した。
「……おそ……い……」
その言葉は、俺たちを責めているというよりも――すでに完全に心が壊れきった者の、絶望の反響音だった。
「……何が、あったんだ」
俺は一歩前に出て、慎重に問いかけた。
女性は、口を開きかけて、すぐに閉じた。
目だけが、入り口に並べられた文字を凝視し、激しい吐き気を堪えるように腹部を波打たせている。
「……王都が……魔族に堕ちたと……逃げてきた旅の商人から聞いて……」
やっと出た声は、紙やすりのように掠れていた。
「……村の皆で……国境へ向けて……逃げようと、したんです……。でも……」
「そこに、二体の魔族が、空から降りてきたんだ」
傍らでうずくまっていた村の男が、虚ろな声で言葉を引き継いだ。
「……うちの村には、常駐で警備を行ってくれていたAランクとBランクの冒険者の二人がいた。……強くて、とっても頼りがいのある、優しい若者たちだった。……でも……っ」
男の言葉が途切れた。
誰かがヒッ、と短い嗚咽を漏らし、別の誰かが……顔をグチャグチャに歪めて、まるで笑い出すかのように口角を引き上げた。
それは笑顔じゃない。極限の恐怖と精神崩壊による、脳神経の完全な誤作動だ。
「……魔族は、俺たちの希望だった冒険者の二人を……一瞬で、指一本触れずに手足を叩き折って、行動不能にしたんだ」
男の目が、ブチブチと音を立てて血走っていく。
「そして……魔族が、俺たちに言ったんだ。
『死にたくないなら、今から一時間以内に……この生きた冒険者二人を、お前たちが食い尽くせ。……骨一つでも残せば、村の人間を皆殺しにする』って……ッ!」
別の村人の女性が、自身の髪を力任せに毟り取りながら、懺悔するように泣き叫んだ。
「俺たちは……! 泣き叫びながら『助けてくれ』『やめてくれ』と命乞いをする彼らを……自分たちが助かりたい一心でっ……生きたまま……食ったんだぁっ……!! 奴らは、それを見て、ゲラゲラと腹を抱えて笑っていたよ……っ!!」
俺の背筋に、氷の刃が突き刺さったような悪寒が走った。
「あぁ……あぁぁっ……! そして、それを見届けた次の奴らの遊びは……自分たちの子供を殺して……あの文字を……あぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
その結果が、あの入り口の死体の文字なのだ。
「もういい……。もう、喋らなくていい」
俺は、男の肩を強く抱きしめた。
それ以上は聞かなかったし、聞けなかった。
後ろで、ジークが口を両手で強く押さえ、膝から崩れ落ちた。
激しい嘔吐感を堪えている。そして、大声で泣き叫びたいのを、必死に王子としての矜持で堪えていた。
「……魔族は、物理的に国を落としただけじゃないのね」
ルーナが、感情を完全に凍結させた無表情のまま、声だけを鋭く研ぎ澄ませて呟いた。
「人間の心を、尊厳を汚し、魂を破壊することを……ただ純粋に楽しんでいる」
レーオも、いつもの無邪気で軽い調子を完全に捨て去り、地獄の底から響くような声で言った。
「征服や侵略じゃない。……あいつらにとっては、これはただの遊びなんだね」
――その時だった。
村の奥の影から。
この世のあらゆる汚物と悪意をドロドロに煮込んで腐らせたような、とてつもなくドス黒いオーラが、ゆっくりとこちらへ向かって滲み出してきたのだ。
「んー? 何やら賑やかだと思えば……また妙に着飾った虫どもが湧いてきたなぁ?」
崩れかけた民家の影から、地面を滑るようにして二つの影が歩み出てきた。
黒紫色の硬い皮膚。血のように禍々しく濁った赤い瞳。
口元は耳まで引き裂かれ、尖った牙を覗かせてニヤニヤと歪んでいる。だが、その目は命ある者を見る目ではない。路傍の虫か、壊すための玩具を見る無機質な悪意。
「服装や装備から推測するに……いくつかの国と種族の混成部隊」
もう一体の魔族が、まるで実験台の小動物を観察するかのように落ち着いた声で続けた。
「……王都を落とされたと聞いて、大慌てで駆けつけてきた奪還部隊ということか。フフッ、思ったよりも虫の集まりが早かったな」
言葉の端々に滲み出るのは、絶対の優越と、人間という存在に対する底なしの蔑み。
それは強者の自信から来る余裕などではない。自分たち以外のすべての生命を自分たちが弄んで殺していいゴミと決めつけている、一族固有の狂気だ。
「お前らが……っ」
レイズが一歩前へ出た。
その声は恐ろしいほど低く、地響きのように重い。火を吹く直前の、火竜の咆哮。
「……お前らクソ外道どもが、村人たちに……あんな地獄を強いやがったのか……ッ!?」
ミストが、レイズの肩を強く掴んだ。止めるためではない。倒れそうな怒りを抑え、前へ踏み出すための背中を押す手だ。
「レイズ、熱くなるな。やるなら確実に殺すわよ。……相手の持つ魔力や闘力は未知数。全員で一気に叩く」
「――いいや」
レイズは首を横に振った。
目の奥の血走った殺意は冷え切っていた。頭は、恐ろしいほど冷静に冴え渡っている。
「お前たちは二人一組になって、すぐに村の中を索敵しろ。だが生存者の保護が最優先だ。
……この村の惨状を見る限り、他にも魔族の手下が残ってる可能性がある。ここで全員で固まって時間を使わされるな」
ミストが瞳を一瞬だけ見開き、即座に短く返した。
「……了解。二人一組で散開、生存者の捜索と他魔族の索敵に移行する!」
ミストの号令が飛ぶ。
「私とソー殿下! 北側へ!」
「シン殿とジーク殿下! 西側へ!」
「ルーナ殿とレーオ殿! 南側へ!」
「「「了解!!」」」
三組のペアが、一瞬で村の影へと散っていく。
見事な足取り。生存者を救い出し、これ以上の惨劇を広げないための最善の分散。
自由になった村の入り口の石畳の上に残されたのは、俺とレイズの二人。
目の前には、ヘラヘラとあざ笑う二体の魔族。
「ラナ……行くぞ」
『うん、相棒。……コイツらだけは、絶対に生かして返さない!』
胸元のペンダントが、燃え上がるような灼熱の熱を放つ。
それはただの怒りではない。命を弄ぶ悪魔に対する、絶対の討滅の誓い。
「さぁて……駆除の時間だな」
一体の魔族が、虚空でパチンと指を鳴らした。
――ズズズズズズッッッ!!!!!
次の瞬間、俺たちの全身を、超重量が圧し潰した。
足元の石畳がメリメリと音を立てて沈み込み、膝が一瞬だけガクリと折れそうになる。
「ぐっ……!? 空間の重力が……!?」
「ヒヒッ! 重力操作だ。潰れろ、虫ケラども!」
もう一体の魔族が、ドス黒い魔力を指先から足元の地面へと叩き込んだ。
地面が生き物のように不気味に蠢き、鋭利な岩の棘が無数に槍のように突き出してきた。
二体とも、これまで戦ってきた人間やモンスターとは次元の違う、理不尽な魔法を当たり前のように行使してくる。
だが――奴らは貴族クラスではない。ただの階級なき魔族だ。
「虫ケラだと……? 調子に乗ってんじゃねぇぞ、三下どもがァッ!!」
俺は、身に宿す武装化を全開にした。




