第21章:それぞれの英雄譚ー1
血塗れの伝令が絶望を叩きつけ、大広間が狂乱のような戦略会議の準備へと雪崩れ込んだ、その少し後。
ウルシア王城の最も高い城壁の上は、喧騒から切り離されたように、別の意味で静まり返っていた。
夜風が、氷のように冷たい。
足元ではウルシア王都の黄金色の灯りが平和を謳歌するように瞬いているというのに、城壁の上の空気だけは、すでに戦争のそれに切り替わっていた。
月明かりの下、巨大な二頭の飛竜が、喉の奥でグルルと低い鳴き声を上げながら待機している。
「……じゃ、そういうわけで」
愛竜の太い革手綱をギュッと握り締めながら、カエサルの竜騎士レイズが、いつもと変わらぬ軽い声で振り返った。
「俺とミストは、一度カエサル本国へ戻る。
……カエサル王とオジキに、グリンデル陥落と魔族復活の報を最速で叩き込んでから、すぐに戻ってくる」
言葉のトーンは限りなく軽薄だ。だが、その瞳の奥には、一切の笑みが存在していなかった。
血に飢えた猛獣が、狩りの前に極限まで神経を研ぎ澄ませているような、冷酷な戦士の目。
「戻れるのか? すぐに」
俺が訝しげに尋ねると、レイズはニカッと白い歯を見せて野獣のように笑った。
「当たり前だろ。こいつらはカエサル自慢の飛竜だぞ? 空を真っ直ぐぶっ飛ばせば、片道一日、往復で二日ありゃ十分だ。……それに、俺が早く戻ってこねぇと、カリナが寂しくて泣き崩れちまうからなァ!」
「ええ、泣いてしまいます」
「ガハハハッ! なんつってなあ〜! ……って、え!? マジで!? 聞いたかミスト! ついに俺の純愛がカリナの氷の心を溶かしたぞ!!」
城壁への階段を上ってきたカリナの、あまりにも真顔の謎対応に、いつもは氷点下のツッコミを入れるミストでさえ、目を丸くして少しだけ驚いたような顔をした。
「……カリナ。あなた、時々レイズを玩具にして遊ぶわよね」
「あら、ミストさん。私はいつでも真剣ですよ」
カリナはふわりと微笑んだ。
彼女はドレスからすでに聖騎士の礼装へと着替えていた。まだ重い白銀の鎧こそ身に着けていないが、その凛とした佇まいは、暗闇の城壁の上でも国の光そのもののように輝いている。
レイズはひとしきり豪快に笑った後、ふっと、その顔からすべての表情を消し去った。
「……正直な話をするとだ」
レイズの低い声が、夜風に混じる。
「魔族の、それも魔王軍のトップですらない下位貴族ひとりとその部下の五体だけで……聖剣を二本も抱えてるあの大国が、たった半日で完全陥落したって聞いた時。……生まれて初めて、背筋が凍るような悪寒がしたぜ」
隣で、ミストが風に水色混じりの銀髪を揺らしながら、静かに、そして重く頷いた。
「ええ。……本物の魔族の実力が、歴史の中でどれほど絶対的なものなのか。私たちは所詮、千年前の文献や、誇張されたおとぎ話の伝承でしか知らない。……それが今、現実のバケモノとして、すぐ近くの国を蹂躙している」
ミストは、手すりの石壁を強く握りしめた。
「だからこそ、一時の感情ではなく、国としての冷静な判断が必要になる。……我がカエサルが、どれだけの戦力をグリンデル奪還作戦に割けるのか。逆に、自国を防衛するためにどれだけの戦力を残すべきなのか。それを決めるのは、私たちではない」
「――それを決めるのが、カエサル王と、オジキの役目だ」
レイズが言葉を引き継ぐ。
「俺たちの役目は、王の命令を寸分違わず確実に実行し、敵をブチ殺すこと。……自分の頭で勝手に考えてウルシアに残ることは、カエサルの軍人として許されねぇ」
「……王の剣であり、盾であること。それが竜騎士の誇りですからね」
カリナが、深く共感するように頷いた。
「へいへい。その通りですわ、ミストお嬢様。……って言ったら、また後頭部殴る?」
「ええ、躊躇いなく殴りますわ」
「ですよねー」
この二人は、こんな世界の危機という極限状態でも、絶対に自分たちのテンポを崩さない。
その血の通った軽口の応酬が、聞いている俺たちに不思議なほどの安心感を与えてくれていた。
「レイズ殿。ミストさん」
カリナが、背筋を真っ直ぐに伸ばし、ウルシア王国を代表する聖騎士として、威風堂々と声を張った。
「ウルシア王国の名において、カエサルへの急使をお願い申し上げます。……カエサル王とウォール閣下に、グリンデルの危機を。そして――我々ウルシア王国は、必ずや魔族の首を獲り、グリンデル奪還へと向かうと、お伝えください」
「おう。任された」
レイズは、普段の軽薄な態度を完全に捨て去り、右手の拳を左胸に当てるカエサル式の見事な敬礼を返した。
ミストも同じく胸に右手を当て、静かに、そして深く頭を下げる。
それから、レイズはふっと鼻で笑い、自分の胸をドンと叩いた。
「魔族の首を獲って国を取り戻すのは、この俺、竜騎士レイズ様だ! グリンデル奪還の主役の座なんざ、てめぇらに持ってかれてたまるかよ!」
「主役は……魔族を倒して一番目立った者じゃないよ」
横から、静かで、だが芯のある声が口を挟んだ。
階段の影から歩み出てきたのは、二振りの神話の剣を腰に帯びた第四王子ソーだった。
今日のソーは、温厚な善の人格だ。だが、その藍色の瞳の奥には、決して折れることのない冷たく研ぎ澄まされた光が宿っている。
「泥をすすってでも最後まで生き残って、次の戦いにもその両足で立てる奴だ。……僕は、そう思う」
「あァ? なんだよ偉そうに」
「えらい。第四王子。一応」
「ハッ! 生意気な王子様だな。……でもまぁ、同感だな」
レイズはソーの肩を軽く小突き、それから、真っ直ぐに俺の方を見た。
「おい、大将」
「は? 大将?」
「絶対、死ぬなよ」
レイズの声から、一切の冗談の色が消え去った。
「相手が魔族だろうがなんろうが、挑む前に……まずは自分が絶対に死なないことを最優先に立ち回れ。お前のその能力は、人類の希望だ」
それは、何度も俺と共に死線をくぐり抜けてきた、生粋の戦士からの重い遺言のような忠告だった。
俺の胸のペンダントが、同じタイミングで小さく熱を帯びて震えた。
『……同感だよ、相棒』
ラナの声が、いつになく真面目で、少しだけ震えている。
『聖剣の勇者でも、最強の竜騎士でも……死んだらそこで、すべてが終わり。……泥臭くても、無様でも、死なないで最後に立って勝つってのが……一番かっこいいんだから』
「分かってるよ」
俺は、レイズとミストの顔を見据え、短く、はっきりと答えた。
「お前もだぞ、レイズ。ミスト。……命は懸けてもいいが、絶対に無駄にはすんなよ」
「……それ、魔剣ムラマサを持ってる君が、この中で一番言われるセリフだと思うけど?」
ソーが、空気を読まずにさらっとツッコミを入れてきた。
「そうですね。貴方がそれを言うと、言葉の説得力が完全にゼロどころかマイナスですね」
カリナも、口元を手で覆って上品に小さく笑う。
「ひどくない? 俺、めっちゃいい事言ったつもりだったんだけど」
「ひどくないです。事実です」
そんな俺たちの緊張感のないやり取りに、レイズが腹を抱えて豪快に笑った。
「ガハハハッ! いいねェ! その余裕があれば、魔族相手でも余裕だろ!」
レイズは、飛竜の分厚い革の鞍にひょいっと足をかけ、そのままくるりと軽やかな身のこなしで飛び乗った。
ミストも、一切の無駄のない洗練された動きで、自分の飛竜の背へと続く。
「じゃあな、ウルシア王国。……次に来る時は、騎士の顔で会おうぜ」
レイズが、バサッと竜の翼を広げながら片手を上げる。
俺も、ソーも、カリナも、無言でそれに手を上げて応えた。
二頭の巨大な飛竜が、夜空に向かって力強く翼を打ち下ろす。
――ズガァァァァンッ!!
突風と轟音と共に、二人の竜騎士は、カエサル国境へ向けて漆黒の闇の中へと一直線に飛び立っていった。
「……行ったか」
竜の巻き起こした風が一瞬だけ強く吹き抜け、俺の髪を乱暴に揺らした。
『……戻ってきて、くれるかな』
ラナが、ぽつりと不安そうに零す。
『だって……カエサルだって、魔族の侵攻から自分の国を真っ先に守らないといけないんだし……』
「……そうだな。こればかりは、あのオッサンの判断次第だ」
俺は胸元のペンダントを軽く指先で押さえ、城壁の向こうに広がる、星の見えない黒い空を静かに睨みつけた。
魔族。
グリンデル王国の完全陥落。
下位貴族、ワーズ。
(……待ってろよ、魔族ども)
俺の胸の奥深くで、恐怖を塗りつぶすように、小さく、だが絶対に消えないどす黒い炎が静かに燃え始めるのを感じながら。
俺たちはそれぞれ、迫り来る魔族討伐の戦略会議へと向かうため、夜の城壁を後にしたのだった。
ウルシア王都を飛び立ってから、不眠不休で空を駆け抜け、わずか一日――。




