第20章:刹那の愉悦と永遠の絶望ー2
――バアァァァァァンッッ!!!!!
大広間の重厚な双開きの鉄扉が、壊れんばかりの凄まじい衝撃音を立てて力任せに蹴破られた。
楽団の優雅な弦楽器の演奏がピタリと止まる。
兵士たちの歌声が途切れ、爆笑が氷のように凍りつく。
広間全体に、血と汗と泥の混ざった不快な匂いと、重い鉄鎧が擦れ合う悲痛な音だけが響き渡った。
「――無礼をッ! 無礼を…お許しくだ…さいッッ!! ウルシア…王…国!・第三騎士……団所属!伝令兵…マルス!
急報を……お届けに…参上いたし…ました!」
破られた扉からなだれ込んできたのは、全身の甲冑を血と汗と砂埃でドス黒く染めた、一人の伝令騎士だった。
肩で激しく息を吐き出し、膝をガクガクと震わせながらも、何とか倒れまいと血塗れの槍を杖代わりに突いている。
誰の目にも明らかだった。彼が死の淵から命からがらここまで駆け抜けてきたのだということが。
それを見た人々がざわざわと話し始め、その波紋が広がり始めた時。
「静まりなさい! 落ち着いてください……マルス」
いち早く動いたのは、ギリーエだった。
彼はさっきまでの祝宴の柔らかな表情を一瞬で消し去り、王族としての平静を纏って、階段を駆け下りて傷ついた伝令の肩を抱きかかえた。
「マルス。 ここにいる者はすべて、貴方の味方です」
マルスと名乗った若き騎士が、ギリーエの声に救われたように、血の気のない唇を震わせた。
俺よりも年下に見える若い騎士だ。その目の下には深い疲労のクマが刻まれ、精神の限界を超えて走り続けてきたことが見て取れた。
「どこの国からの……どのような急報ですか?」
ギリーエの静かな問いに、マルスは溢れ出る涙を拭いもせず、血を吐くような絶叫を上げた。
「――グリンデル! グリンデル王国より……救同の急報にございますッッ!!」
その国名が発せられた瞬間。
広間を満たしていたすべての熱気が、一瞬でコンクリートのように固まった。
【グリンデル王国】
大陸の中央に位置し、人間、エルフ、ドワーフ、獣人など多様な種族が共存する、歴史と文化の平和な大国。
そして何より――千年前の封魔戦争における【二振りの聖剣】の伝承を今なお継承し、屈強な二人の勇者を抱えていると噂される、不落と謳われた大国だ。
レイズの顔からヘラヘラした笑みが消え去る。
ミストの瞳が凍りつく。
カリナの背筋が、槍のようにピンと張り詰める。
「……グリンデル王国に、一体何が起きたというのです?」
ギリーエの声から、完全に温度が失われていた。
マルスは震える手で、懐から血に濡れた羊皮紙の密書を取り出し、両手で掲げた。
「グリンデル王都より……命からがら脱出に成功した近衛兵の生き残りからの……遺言にございますッ!!」
ギリーエがそれを受け取り、魔法灯の光の下で手早く密書を開く。
その肩越しに、ソーとカリナが息を呑んで覗き込み、カエサルのミストとレイズも身を乗り出した。
俺の耳に、マルスの途切れ途切れの絶叫が、直接脳髄を削るように叩きつけられた。
「……魔族の直接侵攻を確認……ッ! 現れたのは……魔王軍下位貴族ワーズ……ならびに、その配下の魔族が四体……! ――計五体の魔族の急襲により――」
生唾を飲み込む音すら、広間から消えていた。
「――グリンデル王都は……わずか半日で……完全陥落……ッ!! 王城は制圧され、市街地は文字通りの地獄絵図となっております……ッ!!」
「……たった……五体に……!?」
ホワイトナイトの一人が、信じられないものを見る目で絶句した。
あまりの焦りからか、文官たちは上層部しか知り得ることができない情報を、次々と口を滑らしていく。
「馬鹿な……! グリンデルには、人類最高峰の聖剣の適合者が二人もいるんだぞ!?」
「二本の聖剣を抱える大国が……たった半日で滅んだというのか……っ!?」
広間に、波のような動揺と恐怖が広がっていく。
だが、伝令マルスの地獄からの報告は、まだ終わっていなかった。
「……聖剣の適合者たる二名の勇者様は……」
マルスが激しく歯をガチガチと鳴らし、床に突伏して哭いた。
「……王城前広場にて……下位貴族ワーズの手により……なすすべもなく首を刎ねられ……斬首……ッ!
そのお首は現在も……見せしめとして……王城の門に晒されているとのことです……ッ!!」
ドスッ、と。
心臓を氷の錐で直接突き刺されたような、絶対の絶望が全員の全身を駆け抜けた。
『……嘘……でしょ……?』
俺の胸元で、ラナの声が……かつて見たこともないほど、ガタガタと酷く震えていた。
『聖剣を二本も持ってた国が……そんな、虫ケラみたいにあっけなく……っ』
「市街地では今も……残された四体の魔族どもが……愉悦のままに民を惨殺し……殺戮の遊戯を楽しんでいる模様……ッ! 二本の聖剣はすでに……敵の手に落ちたと見て間違いありません……ッ!!」
マルスの叫び声は、途中から崩れ落ちるような咽び泣きへと変わっていた。
ウルシアの兵士たちの顔から、酒の酔いなど一瞬で吹き飛んでいた。
カエサルの荒くれ者たちも青ざめ、ホワイトナイトたちは無意識のうちに腰の剣の柄を壊れるほど強く握りしめていた。
「……魔族……」
ミストが呟く。その声には、絶対の冷気と、燃え盛る激しい憤怒の熱が混ざり合っていた。
「千年の封印を破り……ついに本格的に動き始めたというわけね」
「しかも、魔王軍のトップですらない下位貴族クラスで……この惨状かよ……ッ!」
レイズが猛獣のように歯を剥き出しにし、拳を硬く握りしめて震わせていた。
「人間の首を晒して遊んでいる……? ふざけるのも大概にしろ……ッ!」
カリナは唇を血が出るほど強く噛み締め、俯いたまま拳を握りしめていた。白銀のガントレットがみシミシと不気味な悲鳴を上げる。
「グリンデル王国は……多種族共存の象徴たる国です。……そこが魔族の手に堕ちたとなれば、大陸中の人々に、取り返しのつかない絶望が広がります……」
ソーの声は低かった。いつもの穏やかな善のソーの声でありながら、その奥にはドス黒いまでの絶対の怒りが宿っている。
ギリーエは、密書から目を離さない。
額から伝わる冷や汗を拭おうともせず、一文一文を脳裏に焼き付けるように凝視していた。
(……おいおい……冗談だろ……)
俺の胃が、雑巾のように固く絞り上げられる。
つい十数分前まで。俺たちは平和を祝って笑っていたのだ。
レイズとミストのバカみたいなやり取りを酒の肴にし、カリナの美しいドレス姿に見とれ、ソーと「明日もこうして笑えるといいな」なんて、呑気に語り合っていたのだ。
それが、どうだ。
「聖剣を二本持った大国が、たった五体の魔族に半日で壊滅させられました」
天国から、奈落の底への急降下。
心臓の脈動が狂い、吐き気が喉まで込み上げてくる。
◆
ギリーエが、ゆっくりと密書から顔を上げた。
その細められた瞳からは、さっきまでの穏やかな光が完全に消失し、冷徹な一国の指導者としての光だけが宿っていた。
「――宴は、これにてお開きといたしましょう」
たった一言。
だが、その言葉が大広間のすべての空気を物理的に切り替えた。
ガタガタガタッ! と一斉に椅子が引かれ、誰からともなく全員が立ち上がる。
鎧の留め具を急いで締め直す者。
残った酒を床にぶち撒け、水で口を洗う者。
己の頬を強く叩き、酔いを力ずくで吹き飛ばす者。
「カエサル国代表、ミスト殿。レイズ殿。
ウルシア国代表、カリナ殿。
ソー。
……そして――」
ギリーエの鋭い視線が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「……」
「……分かってるよ」
俺は自分の足で、前に踏み出していた。
カリナが静かに頷く。
ソーは表情を引き締め、だがその瞳で「一緒に行こう」と無言の信頼を投げてくれる。
ミストは短く「頼りにしているわ」と告げ、レイズは歯を剥き出しにしながら「暴れられる本当の戦場が決まったな」と両の拳を叩き合わせた。
さっきまでの宴の喧騒が、遥か数千年前の幻のように遠く感じる。
たった数分前まで、ここは温かい光と笑い声に満ちていた。
「よく生き残った」と互いを称え合い、「これからもよろしくな」と肩を叩き合っていた。
その酒の熱がまだ身体に残っているというのに、目の前にあるのは、二本の聖剣を奪われ、首を晒されて蹂躙された大国のグリンデルの現実だ。
『ねぇ……相棒』
ラナが、胸元でそっと問いかけてきた。
『……大丈夫?』
「……正直に言っていいか? ……めちゃくちゃ、いや死ぬほど怖いよ」
強がりなんて言えなかった。
聖剣を二本持ってた勇者たちが、半日で首を斬られて殺されたのだ。
魔族は民を虫ケラのように惨殺し、その首を門に晒して笑っている。
そのバケモノどもと、次は……俺たちが直接殺し合いをするのだ。
『……うん。アタシも、本当はすごく怖いよ』
ラナはあっさりと自分の恐怖を認め、それから、ふっと誇らしげに小さく笑った。
『でもね……怖いからこそ、行こう。……今度は、誰も死なせないために!』
「……あぁ。助けに行かなきゃな。グリンデルの人たちを」
胸元のペンダントが、熱を持ってトクンと力強く脈打った。
「――グリンデル王国を見捨てるわけにはいきません!」
カリナの凛とした声が、静まり返った大広間に響き渡った。
「聖剣の勇者たちが倒れたのなら……その無念と誓いを引き継ぎ、魔族を討つのが、今生きている私たちの義務です!」
「同感だね」
ソーが、腰の二振りの柄に手を添える。
白銀の【聖剣ラナ】と、漆黒の【魔剣オボロ】が、主の怒りに呼応するように微かに共鳴の振動を上げた。
「僕たちはもう、自国だけを守っていればいい段階を完全に過ぎている。……封魔戦争の真の残響と、真正面から向き合わなきゃいけない立場なんだ」
レイズが大剣を肩に担ぎ直し、豪快に鼻を鳴らす。
「いいねぇ! 分かりやすくなってきたじゃねぇか! ぶっ潰すべき本当の敵がハッキリしてる方が、俺は大好きなんだよ!」
ミストは呆れたように小さく溜息をつきながらも、その氷の瞳には揺るぎない決意の光を宿していた。
「……まったく。少しくらい、ゆっくり休ませてほしいものだけれど……カエサルの竜騎士として、魔族の好き勝手を許すわけにはいかないわね」
ギリーエは、頼もしい戦士たちの顔を見渡し、ゆっくりと深く頷いた。
「では――中断された宴の続きは、グリンデル王国を奪還した後に、盛大に執り行いましょう」
ギリーエの口元に、一瞬だけ、優しく力強い笑みが浮かんだ。
「これより全軍を緊急招集し、各方面へ伝令を飛ばします。……始めましょう。魔族と、奪われた二本の聖剣を取り戻すための……人類の反撃の第一手を!」
安堵と高揚に満ちていた黄金の夜は、そこで完全に終わりを告げた。
代わりに訪れたのは、千年ぶりに復活を遂げた魔族との、人類の存亡を懸けた血みどろの最終戦争の序曲――。
その絶望の引き金が引かれた音が、俺の脳裏で、嫌なほどハッキリと響き渡っていたのだった。




