第20章:刹那の愉悦と永遠の絶望ー1
王都ウルシアの夜空が、まるで白夜のように明るかった。
それは花火の光ではない。
王城の尖塔にずらりと並べられた最上級の魔法灯、城下町の隅々まで灯された無数のランタン、祝宴のために組まれた巨大な篝火。そして、あちこちの酒場からこぼれ出る人々の熱気と喧騒。
そのすべての光と熱が混ざり合い、夜の闇そのものを、ほんのりと温かい黄金色に染め上げていたのだ。
八咫烏の本拠地強襲作戦、ならびにウルシア・カエサル両王都の防衛戦。
血を吐くような極限の死闘が続いた数ヶ月が、ようやく「一区切りついたのだ」と、世界そのものが安堵の溜息をついて教えてくれているみたいだった。
(……いいよね、こういう夜)
胸元のペンダント――【ラナの心】が、俺の心臓の鼓動に寄り添うように、くすくすと柔らかく笑った。
(相棒がこっちの世界に転移してきてから、私たち、本当に移動と血みどろの殺し合いしかしてなかったもんね)
「……確かに」
俺は、王城の大回廊を歩きながら、ふと足を止めて窓の外の黄金色の王都を見下ろした。
日本でブラック企業に勤めていた頃は、こんな煌びやかな光景などアニメの世界のファンタジーだった。
異世界に放り出されて、ギルドで雑用係になり、理不尽に殺されかけ、気がつけば世界を揺るがす神話の武具を巡る戦争のド真ん中に立たされている。
ここで初めて、「俺は一体、誰のために、何のために戦っているんだっけ?」と、一瞬だけゲシュタルト崩壊のような眩暈がしたが――すぐに考えるのをやめた。
死にたくないから。そして、死なせたくない奴らができたから。理由はそれだけで十分だ。
王城の大広間――祝宴の会場へ一歩足を踏み入れた瞬間、そのあまりにも平和で非日常的な熱気に、俺は少しだけ眩暈を覚えた。
◆
大広間は、むせ返るような酒と肉の匂い、そして爆発的な熱気で満ちていた。
吹き抜けの巨大なドーム状の壁には、青地に金獅子の【ウルシア王国】の国章と、黒地に白竜の【軍事国家カエサル】の国章が、並び立つように誇らしげに掲げられている。
天井には、宮廷魔導士たちがちりばめた光の魔法の粒が、まるで本物の星空のように瞬いていた。
何十メートルも続く長テーブルには、最高級のローストビーフ、香草を練り込んだ焼き立てのパン、海の幸の濃厚なスープ、山盛りの果物、そして樽ごと運ばれてきた極上のエールと葡萄酒。
普段なら「王侯貴族専用」と言われるような贅沢な料理の数々が、今日は泥にまみれて戦い抜いた兵士や冒険者たちの木皿に、これでもかとばかりに山積みにされている。
カエサル側からは、竜騎士ミスト、竜騎士レイズ、そして白いマントを翻す数十名のホワイトナイトたち、星を刻んだ七つ星冒険者たち。
ウルシア側からは、俺、第四王子ソー、第二王子ギリーエ、聖騎士カリナ、そしてパラディンや冒険者ギルドの面々。
つい最近まで、互いの喉笛を噛み千切るような全面戦争を視野に入れていた国同士の荒くれ者たちが。
今は全く同じテーブルで、肩を組み、酒をこぼし合いながら、腹の底からガハハと笑い合っているのだ。
「飲め飲めぇ! 遠慮すんじゃねぇぞウルシアの騎士ども! 今日は国境も、過去のしがらみも、全部この極上の酒で胃袋に流しちまえェ!」
カエサルの七つ星冒険者の一人が、木製の大ジョッキを両手に持って豪快に笑い声を上げる。
「ちょっ、少しはペースを抑えてください! 他国の王城で粗相をしたら、後でウォール閣下に首をへし折られますよ!」
ウルシアのパラディン・バルドと肩を組んでいたカエサルのホワイトナイトが、慌ててジョッキを取り上げようとするが、注意している当人の顔もすでに真っ赤に茹で上がっている。
なんだかんだで、彼らもこの信じられない夜を全力で楽しんでいる証拠だった。
「なんか……すっげぇ変な感じだな」
「そうかい?」
俺が呆れたように呟くと、隣でジュースのグラスを持っていたソーが、ふっと小さく笑った。
今日のソーは、荒々しい悪の人格を完全に奥へ引っ込め、基本人格である【善のソー】として、この狂騒の空間を穏やかに俯瞰していた。
柔らかな微笑み。礼儀正しい所作。そして、腰に帯びた相反する二振りの絶対的な力――【聖剣ラナ】と【魔剣オボロ】。
あの八咫烏のアジトで、半身を血で染めながら狂ったように笑い合っていた死神と同じ人間だとは、到底思えない。
「まぁ、何はともあれ……あの地獄みたいなアジト襲撃と防衛戦から、誰も死なずに全員が生きてここに立ってるんだ。……奇跡みたいなもんだな」
俺は、琥珀色に輝くエールの入ったグラスを傾け、冷たい酒を喉の奥へと流し込んだ。
「……美味い」
思わず声が漏れた。
極上の酒だからか。それとも、「泥水をすすってでも生きて帰ってきた」という絶対的な実感とセットで飲む酒だからなのか。
今日の酒は、細胞の隅々まで染み渡るように、妙に美味かった。
◆
「――さて。皆の衆、少しだけ静粛に」
大広間の中央。
カチ、カチ、カチ……と、スプーンでグラスを叩く澄んだ音を響かせながら、優雅に立ち上がったのは、ウルシア王国第二王子――【ギリーエ】だった。
栗色の美しい髪を軽くかきあげ、口元には完璧に計算された柔らかな笑みが貼り付いている。
一見すれば、線の細いただのインテリ王子にしか見えない。だが、その細められた瞳の奥には、死線と修羅場を幾度も潜り抜け、大国同士の権力闘争を盤上で支配してきた「本物の勝負師」の光が宿っていた。
彼が立ち上がっただけで、大広間の喧騒が潮が引くようにスッと静まり返る。
「ウルシア王国、そして……偉大なる軍事国家カエサルの誇り高き戦士たちよ。……この二つの大国の代表が、こうして武器を置き、同じ円卓につき、同じ極上の酒を笑って飲んでいる。……それ自体、ほんの数ヶ月前までなら、狂人の戯言だと一蹴されていた光景でしょう」
ギリーエの言葉に、両国の騎士たちの間から、くすくすと自嘲気味な笑い声が漏れた。
「しかし今、その『狂人の戯言』は、現実としてここに実現している!」
ギリーエの声が、ふっと熱を帯び、大広間の隅々にまで力強く響き渡った。
「我らは共に血を流し、背中を預け合い、世界を破滅へ導かんとする狂信の群れ【八咫烏】たちを退けた! そして、奪われていたアーティファクト・デザート&イーグルを、完璧に我らの手へと奪還してみせた! 魔族復活の不気味な足音が近づく中、我ら人類は、ついにそれに抗うための同盟の形を成し得たのです!」
言葉の端々に、この不可能な同盟を水面下で導き、カエサルとの折衝を死ぬ気でまとめてきた彼自身の強烈な自負が滲み出ている。
それでも嫌味に聞こえず、むしろ戦士たちの心を熱く昂らせるあたり、流石は外交の天才と呼ばれるだけのことはある。
「この杯は、両国の誇り高き新たな同盟に。
そして……理不尽な死線から生還を果たした、この場にいるすべての英雄たちに捧げましょう!」
ギリーエが、黄金の葡萄酒が注がれたクリスタルのグラスを、天高く掲げた。
「「「乾杯ッッ!!!!」」」
数百人の戦士たちの、腹の底からの雄叫び。
木製のジョッキ、金属の杯、クリスタルのグラスが、四方八方で乱暴にぶつかり合い、重厚で心地よい音が弾ける。
酒が、熱を帯びて喉を落ちていく。
胃がカッと熱くなる。
周囲で笑顔で肩を叩き合う戦士たちを見ていると、「ああ、本当に……今だけは、嘘みたいに平和なんだな」と、身体の奥底まで納得する確かな感覚があった。
『……いいね、この空気』
ラナが、いつになく澄んだ、素直な声でポツリと言った。
『誰も血を流してなくて、誰も泣いてなくて。みんなが未来のことを笑って話してる。……こんな時間が、永遠に続けばいいのにね』
「……珍しく、柄にもなくロマンチックだな。どうしたんだよ」
俺が少しからかうように言うと、ラナの声が、ほんの少しだけ恥ずかしそうに、柔らかく溶けた。
『そりゃそうだよ。だって――』
胸元のペンダントが、チカチカと心臓の鼓動に合わせて優しく明滅する。
『相棒、今……全然ビビってないからさ』
「……戦争の極限状態と、この平和すぎる空気のギャップに、盛大にビビり散らかしてる最中なんだけどな」
『ふふっ、いいことだね。平和にビビれるのは、人間らしい証拠だよ』
俺とラナがそんな誰にも聞こえない軽口を叩き合っていると、広間の中央から、また騒がしい声が響いてきた。
「今日も一段と美しいな、カリナ!」
祝宴の熱気が少し落ち着いた頃、広間の一角から聞き飽きた軽い声が響いた。
声の主は、やはりカエサルが誇る竜騎士レイズだ。
「なぁなぁ、いい加減、俺の愛を受け入れて俺の女になってさー! カエサルで一緒に空飛ぶ竜騎士やろうぜ? なぁ! 絶対毎日楽しいって!」
「謹んで、心よりお断りいたします」
カリナは、一切の猶予もなく即座に真顔で言い放った。
今日の彼女は、いつもの白銀の甲冑の上に、薄い軽装の仕立ての良い礼装を羽織っている。黄金の髪は綺麗に結われ、魔法灯の光を受けて神秘的な輝きを放っていた。どこからどう見ても、一国の姫君と見紛うほどの美しさだ。
「なぁ~んで即答なんだよぉ! じゃあ、いっそのこと俺がウルシアの騎士団に転職しちゃおうかな~? あ、でもそうなると、俺がいなくなってミストが毎晩寂しくて枕を濡らすことに――」
――ゴッ。
「静かに飲め、バカ」
何の予備動作もなく、ミストの鋼のガントレットが、無駄のない完璧な軌道でレイズの後頭部へと落とされた。
「いってぇぇぇぇッ!? ミストお前、今日は加減ってものを完全に忘れてるだろ!?」
「毎回、寸分違わぬ口説き文句で断られて、よくもまぁ飽きないものね。……新しい語彙が出るまで、脳のシワを殴って増やしてあげようか?」
「コワ~……今日のミストちゃん、寒気するほど冷たくない?」
レイズとミストのやり取りを、カリナは苦笑しながら眺めている。
「仲が良いのですね」
「全然、ただの腐れ縁よ。……ほら、お水」
文句を言いながらも、ミストは文官から受け取った水差しで、レイズの空になったグラスへ手際よく冷水を注いでいた。
本当に嫌悪している相手なら、そんな身の回りの世話など焼きはしない。言葉の暴力の裏にある、不器用な長年の腐れ縁。
俺とソーは並んで壁に背を預け、その微笑ましい光景を最高の酒の肴にしてグラスを傾けていた。
「こういう、くだらないどうでもいいやり取りが日常としてできるのってさ……」
ソーがポツリと、グラスの氷をカランと揺らしながら呟いた。
「本当は……すごく特別で、奇跡みたいに幸せなことなんだろうね」
「そうだな。……その幸せを当たり前の日常にするために、俺たちは戦ってきたんだろ」
「……そうだね。ごめん、僕としたことが湿っぽくなっちゃったな」
ソーは照れくさそうに頭をかきながら苦笑したが、その藍色の瞳の奥には、確かな王子としての絶対の覚悟が宿っていた。
『……みんな、すっごく良い顔してるよね』
胸元のペンダントから、ラナの温かい声が脳内に直接届く。
(良い顔、か?)
『うん。少なくとも、今ここにいる大好きな人たちが……明日も、来月も生きて笑ってる未来を、前よりずっと鮮明に想像できるもん』
その言葉に、俺も思わず口元を緩めた。
そうだ。八咫烏どもを叩き潰し、アーティファクトを取り戻した。
このまま両国が手を取り合えば、迫り来る魔族の脅威だって、きっと乗り越えられるはずだ――。
歴史の歯車が狂い、その甘い平和の予感が粉々に破砕されるまで。
あと、わずかコンマ数秒のことだった。




