第19章:傷を負った黒い羽根ー2
「……次は、俺たちの番だな」
部屋の入り口の薄暗い影から、静かで冷たい声が滑り込んできた。
腰に二本の曲刀を帯びた小柄な剣士――【クロウ】。
そして、そのクロウの背後から、自身の右腕を肩口から先ごとドス黒い封印の布でぐるぐる巻きに包んだカラス本人が、静かに歩み出てきたのだった。
カラスの右肩からは、今なお禍々しい異次元の封印の紫の紋様が、毒のように薄く漏れ出している。
「まずは……情けない失敗から報告しよう」
カラスは、何事もないかのように淡々とした声で言った。
「軍事国家カエサル王都の制圧ならびに、王の暗殺作戦は……叶わなかった」
静かな言葉。
だが、その短い一言の背後に、どれほど絶望的な死闘が存在したのか、部屋にいる全員が肌で察し、息を呑んだ。
「カエサル王都には……事前予測で配置されているはずだった竜王ウォールはいなかった。……その代わり、本来なら表舞台に立たないはずの聖騎士ローディオが、いた」
「……なっ!?」
ヴァリスが目を見開く。
「結果として……我々はあのローディオというただ一人の人間の力の前に足止めされ、カエサル王都への侵攻は完全に不発に終わった」
カラスは一呼吸置き、自身の封印された右肩を、残された左手で静かに触れた。
「……ただし。全てが徒労に終わったわけではない」
「その右腕の凄惨な傷は……?」
コラキが、痛む目を細めて尋ねる。
「この腕は……ローディオという人間の性能を正確に測定し、奴の最大の武器を物理的に潰すための代償だ。……俺の寿命と引き換えに放った絶対の禁忌封印の成果だな」
カラスの口元に、冷酷な勝利の笑みが浮かぶ。
「俺の右腕がこの異次元封印の状態にある以上……現在、ローディオの右腕もまた、完全にこの世界から消滅し、封印されている。……奴の看板である右腕の転移パンチは、二度と打てない」
クロウが、自身の二本の曲刀の柄に手を添えながら、重い声で言葉を継いだ。
「ローディオの放つ力は……文字通り桁外れだった。五重の楔で出力を半分以下に強制封印してなお、俺の本気の二刀流の斬撃をノーガードで耐え抜き、あまつさえ左拳の一撃で俺の内臓を粉砕してきた。……怪物という言葉すら生ぬるい」
クロウの喉が、ごくりと渇いた音を立てて鳴る。
「……だが。勝ち筋は明確に見えた。少なくとも……あの男は神ではなく、血を流す人間だ。利き腕を奪い、死角から能力の隙を突けば……殺せる」
「そして……もう一つ、最大の成果がある」
カラスは、残された左手の指先で、広げられた大陸地図の最北端と火山帯をトン、トンと叩いた。
「千年前の封魔戦争で失われたとされる、残り二本の最後の魔剣――【魔剣オニマル】ならびに【魔剣ムネチカ】。……その絶対の封印の所在地に関する明確な手がかりを、王城の機密文書から奪取した」
円卓の地図の上に、新たな二つのドス黒い印が刻み込まれる。
一つは、イーリス大陸の北端近く、永久の吹雪と極寒の氷に閉ざされた孤独の孤島。
もう一つは、今なお赤々とマグマが脈打つ、死の火山帯の最深部。
「どちらも、千年前の封魔戦争よりも遥か昔の神話の時代の古代遺跡と深く結びついている。……この膨大な情報と手がかりを得られただけでも、今回払った犠牲と損失は、釣りが来るほどだ」
カラスはそこで、一度深く、静かな呼吸を吐き出した。
「――以上が。我ら八咫烏の、今回の全作戦における成果と損失のすべてだ」
静まり返った薄暗い隠れ家の中央。
無造作に広げられた大陸地図を囲むように、傷だらけの烏たちが息を潜めて立っていた。
コラキ。
ヴァリス。
クレーエ。
クロウ。
そして、自らの右腕を犠牲にして死線を潜り抜けたカラス。
円卓の上には、かつてここにあったはずの三つの影が存在しない。
レイヴン。
ヴラーナ。
クエルボ。
誰一人として、その死んだ仲間の名を軽々しく口にしようとはしなかった。
名前を出したその瞬間に、部屋に張り詰めた緊迫の糸が切れ、絶望の波が押し寄せてくることを、全員が本能で理解していたからだ。
カラスは、封印された自らの右肩に静かに手を当て、淡々と口を開いた。
「――総括しよう」
抑揚のない、だが一言一言が重く石のように部屋へ落ちる声。
「我々八咫烏は……仲間三名をほぼ同時に失った。レイヴン、ヴラーナ、クエルボ。……結成以来、初めての壊滅的損害だ」
その名が明確に発せられた瞬間、ヴァリスの分厚い肩が微かに揺れ、クレーエが唇を血が出るほど噛み締め、コラキは「ふぅ」と長く不気味な溜息を吐いた。
クロウはそっと目を閉じ、心の中で三人の冥福を一度だけ祈った。
「さらに、アーティファクト・デザート&イーグルの一対を敵に奪還された」
コラキの顔が歪む。悔しさと自嘲が混ざり合った、歪な笑み。
「全体的な戦略として見れば……今回の作戦は我々の完全敗北だ。言い逃れの余地はない」
誰も反論しなかった。
だが、カラスの瞳の奥の漆黒の炎は、1ミリすら衰えてはいなかった。
「だが――成果も確かに残った」
カラスは、左手の指を一本ずつ折って数え上げていく。
「敵の最重要索敵能力であったセイレーンの能力を完全に破壊。
ウルシア最強・ローディオの右腕を封印し、奴の理不尽な戦術の限界を見破った。
カエサル最強・竜王ウォールの戦闘データと癖をクレーエが完全に型として抽出。
そして、残された二本の魔剣と《ムネチカ》の所在地を特定。
……なにより、ウルシアとカエサルの最高戦力たちの能力、連携、そして人間的な弱点を、完璧に把握することができた」
カラスの目が、生き残った幹部たちを一人ひとり見回す。
「そして……なによりも大きいのは。ここにいる誰一人として、戦うことを諦めていないということだ」
クレーエの瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
ヴァリスが大きな手で、彼女の頭を乱暴に、だが温かく撫で回す。
「――故に、我々はこれより次の段階へと移行する」
カラスの宣言が、部屋の空気を一瞬で引き締めた。
「次の段階に進む」
◆
「今までは、千年前の封印戦争の残響をただ揺さぶる試運転の段階だった。
ウルシアとカエサルという大国がどれほどの武力を抱え、どれほど聖剣や魔剣に依存しているか……それはもう十分に理解できた」
カラスは、残された左手で地図上の両国の国境線をなぞる。
「だが、ここから先はそれだけでは足りない。……本当の世界の封印の解除を行うには、武具を集めるだけではなく、この世界の理そのものを叩き潰す絶対的な軍勢が必要だ」
「ヒヒッ……つまり、本格的な兵隊集めってわけかい? カラスよぉ」
コラキが、痛む顔を歪めてニヤニヤと笑う。
「仲間を集めるのだ」
カラスはさらりと言い切った。
「人間に限らない。封魔戦争の時代から虐げられてきた魔人、亜人、あるいは秘境に封じられた古き異形の種族。……歴史の裏側に追いやられた者たちを掘り起こし、我らの牙とする」
カラスは、個別に指示を出し始めた。まずはクレーエに向き直る。
「クレーエ。お前はしばらくの間、前線での直接戦闘から完全に外れろ」
「えっ……!?」
驚いて顔を上げるクレーエ。
「持ち帰った竜王ウォールの型を安全な拠点内で完全に安定させろ。……それから、今回交戦した敵全員――ウォール、ローディオ、ミスト、カリナ、ソー、そしてあの武装化の小僧の戦闘データを完全に整理し、解析しろ。お前は我々の最高の頭脳だ」
「で、でも……私、また失敗しちゃったら……っ!」
「失敗しても構わない」
カラスは即答した。
「お前は失敗しても死なない安全な位置で戦えばいい。お前が存在しているというただそれだけで、我らの勝率は跳ね上がる。……お前は八咫烏にとって、絶対に必要不可欠な存在だ」
クレーエの目から、今度は温かい嬉し涙が溢れ出した。自分を道具ではなく仲間として認めてくれる頭領への、強い忠誠心が芽生える。
「ヴァリス」
「おうッ!」
「お前は、人里離れた古き魔獣の領域へ向かえ。……獣化を極めたお前なら、言葉を持たぬ魔獣どもとも対話ができるはずだ。竜王ウォールのような神獣の血を引く異形の存在や、人間の支配を嫌う種族と飲み交わしてこい」
「ギャハハッ! 任せやがれ!」
ヴァリスが豪快に胸を叩く。
「じっとしてるなんて性に合わないからな! 暴れながら最強の友達を連れて戻ってきてやるよ!」
「コラキ」
「ヒヒッ……嫌な予感しかしないねぇ、ボス」
「お前は、表舞台の裏工作に回れ」
意外な指示に、コラキが目を細めた。
「お前の本当の恐ろしさは、炎魔法の火力ではない。長年の経験に裏打ちされた知略と観察眼だ。各地の暗部に散らばる情報を統括し、手に入れたアーティファクト・コルトを使って、各国の要人や貴族たちの記憶を少しずつ塗り替えろ。我々のために動く無自覚な傀儡を世界中に増やしていくのだ」
「ヒヒヒッ……最高に趣味のいい役回りじゃねぇか……!」
コラキがベロりと舌を出して舌なめずりをする。
「いいねぇ。各国の要人を八咫烏の都合のいいスパイに変えていくなんて、昔からの夢でねぇ……!」
「やりすぎるなよ。……それと、お前自身が何か別の秘策を隠しているのも知っている。……自分の頭の中で完全に形になったら、いつでもいい、俺に言え」
コラキは一瞬だけ目を見張り、それから「……へいへい、分かってるよォ」と苦笑いして手を振った。
「最後に、クロウ」
「……あぁ」
「お前は、俺と一緒に来い」
クロウが、静かに二本の曲刀の柄に手を添えて眉をひそめた。
「どこへ行く?」
「最後の二本の魔剣――《オニマル》と《ムネチカ》が眠る地だ。……位置が特定できた以上、一刻も早く回収する。……今度は、無策では挑まん」
カラスが、ゆっくりと立ち上がった。
右腕を封印された痛々しい姿でありながら、その背中には世界を飲み込むような絶対の覇気が満ちていた。
「ローディオの右腕の封印が解けるまでの一年間。……その間に、我々は奴の存在すら凌駕する対抗手段を完成させる」
◆
「――最後に」
カラスは、部屋にいる全員の顔を静かに見渡した。
「我々は……まだ何一つ、負けてはいない」
その力強い一言が、隠れ家の空気を完全に塗り替えた。
「レイヴンも、ヴラーナも、クエルボも。……死んでいった仲間たちの命は二度と戻らない。……だが、彼らが命を賭して引きちぎった封印の鎖の痕跡は、確かにこの世界に刻まれている」
カラスは、指先で地図上の聖剣、魔剣、アーティファクトの位置に置かれた駒を、次々と力強く弾き飛ばした。
「千年前の封魔戦争は……終わってなどいない。ただ、人間どもの都合で先送りにされていただけだ。……俺たちは、その先送りされた歴史のツケを、今この時代で全てまとめて精算してやる」
隠れ家の外から、夜風に乗って、何羽もの黒いカラスの不気味な鳴き声が遠く響いてくる。
「聖剣も、魔剣も、アーティファクトも……最終的にすべて我らの手へと集う。……封印を解き、その解き放たれた未来の先で笑うのは……ウルシアでもカエサルでもなく、我ら八咫烏だ」
ヴァリスが獰猛に笑う。
コラキが「ヒヒヒッ」と喉を鳴らす。
クレーエが涙を拭いて強く頷く。
クロウが静かに曲刀を引き抜き、決意の光を込める。
「――全員、覚悟はできているな?」
返事は、短く、重く、そして絶対だった。
「「「「応ッ!!!!」」」」
カラスは、深く満足そうに目を細めた。
「――ならばこれより、八咫烏は戦力増強段階へと移行する。……まずは、散っていったレイヴン、ヴラーナ、クエルボ……我らが愛しき仲間たちの魂を、迎えに行くとしようか」
その宣言と同時に、隠れ家を包む漆黒の闇の中から、何羽もの黒い翼が、次なる破壊の目的地へと向かって一斉に夜空へ飛び立っていった。
千年前の封魔戦争の残響が、より禍々しく、より巨大な世界の終焉へと形を変え始めていた。
それはまだ、これから訪れる未曾有の災害の、ほんの小さな前触れに過ぎなかった。
だが、この血と傷に塗れた夜。
傷を負った黒き烏たちは、互いの絆を確かめ合い、世界を飲み込むための新たな旅立ちへと一歩を踏み出したのだった。




