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第19章:傷を負った黒い羽根ー1

 夜の底に沈んだような、音のない静かな谷だった。


 月光すら届かぬその谷底に、かつて古代の砦だったものの残骸がへばりつくように存在している。


 崩れた石壁をそのまま利用し、荒削りな木材で強引に継ぎ足し、穴だらけの天井には星の光を遮断するための分厚い黒い布が張られていた。


 冷たい夜風を辛うじて防ぐための、無機質で最低限の隠れ家。


 ――大陸の各地に点在する、八咫烏の無数のアジトの一つ。


 その中央の薄暗い部屋。


 粗末な円卓の上には、巨大なイーリス大陸の全図と、ウルシア・カエサル両大国の精緻な地図が広げられ、ところどころに戦況を示す黒と白の駒が無造作に置かれていた。


 その円卓の前に、一人の男が静かに座っている。


 八咫烏を統べる冷徹なる頭領――【カラス】。


 黒髪を短く刈り込み、一切の感情を排した深淵のような瞳。


 歴戦の闘士を思わせる分厚い肩と腕を持っていながら、羊皮紙に戦況を書き込む羽ペンを持つ指先の動きは、不気味なほど繊細で美しかった。


「……事前の想定より、幾分か傷が深いな」


 カラスが、感情の乗らない声で小さく呟く。


 大陸地図のあちこちに、血のような赤いインクの印がつけられていく。


 ウルシア王国王都。


 軍事国家カエサル王都。


 そして、コラキたちを囮として配置した、封魔戦争ゆかりの古代砦の遺跡群。


 そこへ――。


「……ヒヒッ……。おっそろしく冷えるアジトだなァ、カラスよぉ」


 重い木製の扉が軋む音と共に、血と焦げた肉の匂い、そしてねっとりとした嘲笑が部屋の中へと入り込んできた。


 背を丸め、腰をくの字に曲げ、いかにも性格の悪そうな笑みを貼り付けた老人。


 八咫烏の最高幹部にして、極限の炎魔法を極めた魔導士――【コラキ】。


 彼が羽織る赤黒いマントは半分以上が焼け焦げ、腕には血の滲む痛々しい包帯が巻かれ、顔にはいくつもの鋭利な切り傷が刻まれていた。


 いつもの「人を小馬鹿にした余裕の笑み」を貼り付けてはいるが、その足取りは隠しきれないほど重く、深い疲労が滲み出ている。


「戻ったか、コラキ」


「まぁなァ。なんとか、生きては、なぁ……ヒヒッ」


 カラスは羽ペンを置き、ゆっくりと顔を上げたが、すぐには核心を突くような質問はしなかった。


 ただ、その静寂の視線だけで、彼が問うていることは明確に一つだけだ。


 ――どうなった。


 それを悟ったように、コラキは血の滲む唇を舌なめずりして、円卓の向かいの椅子にドカッと腰を下ろした。


「まずは報告と行こうかねェ。……今回のアジト強襲戦における、我々の成果と損失。両方だ」


「順番は任せる」


 カラスが短く促す。


「じゃあ、精神衛生上、いい話の方からにしようかねェ」


 コラキは懐をごそごそと探り、黒い布に包まれた重い金属の塊を円卓の上へと無造作に放り出した。


 ゴトリ。


 鈍い音を立てて転がったのは――アーティファクト・コルト。


 片手で握り込めるほどの、無骨で地味な黒鉄色の回転式拳銃。


 しかし、その銃口の奥から絶えず滲み出している記憶を食い破るような不気味な魔力の気配は、この世の普通の武器とは明らかに次元が違っていた。


「アーティファクト・コルトは、無事に持ち帰ったぜ。……こいつさえ手元にあれば、今後の情報戦や裏工作の計画を、圧倒的に有利に進められるだろうぜ。ヒヒッ」


「……そうか」


 カラスの氷のような瞳が、その時だけわずかに和らいだ。


 《コルト》は、記憶改ざんの極致とも言える恐るべきアーティファクト。


 対象の記憶を自在に書き換え、さらには空間の記憶や、物質が覚えている過去の状態さえも強制的に上書きし、改変することができる。


 使い方次第で、一国の王の中枢すら無血で乗っ取れる、まさに国家転覆級の代物だ。


「それから……もう一つ。俺たちにとって最高に目障りだったセイレーンの追跡能力を使う、あの小僧の件だがねェ」


 コラキは、痛む腕をさすりながら愉快そうに嗤った。


「壊したぜ。……あのガキが、オレの炎とヴラーナの幻術を防ぐために連続で能力を使いすぎたおかげでな。最後に見た時には、あの気味の悪い青い眼鏡もマスクも、魔力切れを起こして完全に粉々に砕け散ってたよ。……二度と同じ方法で、オレたちの魔力を追跡・索敵されることはねェな」


「……それは、非常に大きいな」


 カラスが、深く頷く。


 セイレーンの武装化。


 それによる「固有魔力の追跡」と「幻術の完全看破」という二つの能力は、情報戦と奇襲を重んじる八咫烏にとって、間違いなく最も厄介な天敵だった。


 その最悪の脅威の目が、一つ完全に潰れた。


「――以上が、成果だ」


 そこで、コラキの顔に貼り付いていた不気味な笑みが、スッと温度を失って薄れた。


「で。損失の方は?」


 カラスの声もまた、一段と低く、冷たくなる。


「……ヒヒッ」


 コラキの喉の奥から、笑いとも咳ともつかない、乾いた音が漏れた。


「クエルボは、死んだ」


「……そうか」


 部屋の空気が、急激に数度下がり、静寂が重くのしかかった。


 クエルボ。


 氷魔法の極致に至り、常に冷静沈着に任務を遂行する沈黙の戦士。


 コラキと長年コンビを組み、八咫烏の中でも特に手堅く、絶対にミスをしない男だった。


 それが、死んだ。


「アーティファクト・デザート&イーグルも、奴らに奪われた。

 ……あのセイレーンを被ってた、武装化のガキの手によってな。……クリスタルワイバーンだの、黒龍の翼だの……一人で色々と規格外のモンばかり抱え込んでる、最高にイカれた小僧にねェ」


 コラキは、苛立ちを隠すように歯を剥き出しにして笑った。


「聞いて呆れるぜ。あの小僧、素の闘力も魔力も完全にゼロなんだからよ。……せっかく俺が《イーグル》の百分の一の絶対デバフ弾をどてっ腹に撃ち込んでやったってのに、全ッ然効かねェでやんの。ヒヒッ……流石に笑っちまったよ」


「……なるほど。ゼロに何を掛けてもゼロのまま。……そういう、規格外の例外か」


 カラスが、羊皮紙に何事かメモを書き込みながら頷く。


「でも、まぁ――」


 コラキは、火傷を負った片目を細め、静かに言った。


「あのガキは、無意識だとは思うが……戦いの中に、まだ甘い迷いがあったな。だから最後、俺の首を刎ねずに、アーティファクトの回収だけを優先して俺の逃走を見逃した。

 ……あれは、王族どもの都合のいいオモチャにしておくには、少々惜しい逸材だぜ」


 カラスは、その言葉には何も返さなかった。


 だが、その無言の沈黙には、深い同意と、俺という存在に対する最大級の警戒が明確に混じっていた。


「……他の損失は?」


「以上だ。俺の囮部隊の報告は、そんなもんだよ」


 コラキは、壁に立てかけてあった自分の杖を軽く指先で叩いた。


「クエルボは……武人として、良い死に方だったと思うぜ。……少なくとも、アイツ自身は、最後に『面白い連中だ』って、悔いのなさそうな満足した顔をして死んでいったからな」


 その顔は笑っていたが、瞳の奥底の深い光だけは、決して笑ってはいなかった。


「……さて。お嬢らの空き巣部隊の成果は、どうだったんだい?」


「ヴァリス、クレーエ。……入れ」


 カラスが低い声で呼ぶと、部屋の重い扉が軋んだ音を立てて開いた。


 部屋に入ってきたのは、全身に生々しい戦闘傷を刻んだ巨躯の女闘士――【ヴァリス】。そして、その巨大な影に完全に隠れるようにして、おどおどと身を縮こまらせた小柄な少女――【クレーエ】だった。


 ヴァリスの全身には、竜王ウォールの強烈な打撃によって生じた痛々しい青あざと、肉が抉れた切り傷が何箇所も残っていた。


 だが、その肉体美に満ちた顔には、落胆の色など微塵もない。むしろ、最高に獰猛で誇らしげな狂犬の笑みが浮かんでいた。


「ただいま、カラス。……クソ寒ぃアジトで、湿気たツラして座ってやがったな」


「無事の帰還、重傷で済んだことをまずは喜ぼう。……報告を」


「おう。単刀直入に言うぜ。……ウルシア王都の電撃制圧は、完全に失敗だ。……だがなぁ」


 ヴァリスは、背中に背負っていた超重量の巨大な大斧を、ドカンッ! と床の石畳を砕くほどの勢いで叩き降ろした。


 そして、後ろに隠れていたクレーエの背中を、ポンッと優しく叩く。


「成果の方は……このうちの天才魔導師が、最高のブツを持ち帰ってくれたぜ」


「う……うんっ……」


 小さな悲鳴のような声を上げたクレーエが、涙目で両手を胸の前で固く組み合わせた。


 彼女の指先から、ドス黒く不気味な紫色の魔法陣が、宙に幾重にも描かれていく。


 ――次の瞬間。


 ズズズズズズ……ッ!!


 クレーエの背後の空間から、巨大で凶悪な一頭の影がぬうっと実体化した。


 鋼鉄をも凌駕する硬度の黒銀の鱗。天を突き刺す竜の角。そして、世界そのものを威圧する圧倒的な黄金の縦瞳孔――。


 本物と何一つ変わらぬ圧力を放つ、竜王ウォールの型。


「……竜王ウォールの完全なる戦闘データの複製……。無事に回収に成功したよ、カラス……っ」


 カラスの冷徹な目が見開かれ、その深淵の瞳に微かな驚嘆の光が走った。


「……まさか、あのカエサル最強の竜王のデータを、その身一つで生き延びて抜いてくるとはな」


「か、完全な実体化までは、まだ全然無理だよぉ……っ! 魔力が足りなさすぎて、今はただの中身の入っていないハリボテの型だけど……!

 時間をかけて、本拠地で潤沢な魔力を流し込んで補破していけば……いつか、本物と全く同じ竜王が完成すると思う……っ」


 クレーエは、申し訳なさそうに肩をすくめ、俯いて言葉を絞り出した。


「ご、ごめんなさい……。現場でいきなり完全召喚してウォールを倒すなんて……私の実力じゃ、やっぱり無理だったよぉ……。ウォール、本当に……理不尽に強すぎて……死んじゃうかと……っ」


「いや。十分すぎるどころか、満点以上の成果だ、クレーエ」


 カラスは一切の躊躇いもなく即座に断言し、指先で羊皮紙を軽く叩いた。


「仮に現場でウォール本人の完全な複製を成功させていたとしても、今の我々の魔力では、その化け物を制御しきれずに共倒れしていた。……段階を踏んで型を持ち帰ったお前の判断は、極めて冷静で正解だ」


 その頭領からの絶対の肯定の言葉に、クレーエの小さな肩からスーッと緊張が抜け、目元に浮んでいた涙が拭われた。


「さて……損失の方も、正確に共有しておこうか」


 ヴァリスが、自分の太い首をゴキゴキと鳴らしながら、床にどっかりと胡座をかいた。


「言った通り、ウルシア王都の直接制圧は完全に失敗だ。留守番していた竜王ウォールと、白亜の城壁を固めるパラディンどもの壁に完全に阻まれた。……反論の余地もねぇ、奴らは本物だったよ」


「竜王ウォールの実力は、どの程度だった?」


「……一言で表現するなら、あんなのはただの災害だ」


 ヴァリスの獰猛な顔から、初めてふざけた冗談のの色が消え去った。


「あたしと、クレーエが創ったあたしのコピー。そこにクレーエの魔力ブーストを限界まで叩き込んで戦った……実質三人分の全開を相手にして、奴は膝一つ曲げずに、笑いながら両手で受け止めやがった。……持ってる闘力の純度と格が違いすぎる。あれは人間じゃなくて、人の皮を被った神話の竜そのものだ」


 ヴァリスは、腹に刻まれた生々しい打撃痕を撫でながら、ニヤリと凶悪に笑った。


「……だがなぁ! タダで負けて帰ってきたわけじゃねぇぞ! 奴の踏み込みの癖、攻撃の初動、竜化の限界時間のタイムラグ……全部、この身をもって身体に叩き込んできた! 次、クレーエの創ったウォールの複製をぶつけて戦う時は……確実にあのオッサンを殺せるぜ!」


 カラスは、その言葉に微かに口元を緩めた。


「そうか。ならば、ウルシアの竜王ウォールは……すでに攻略したも同然だな」


「ギャハハッ! そう言ってくれると助かるぜ! まぁ、次は本物の首を力任せに引っこ抜いてやるさ!」

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